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Tuesday, 13 October 2009

ニーノ・ロータへの感謝

ニーノ・ロータが亡くなって30年、今年のローマ映画祭は彼をとりあげています。

今日のレプッブリカ紙には、マエストロ・ムーティがロータについて語り、感謝し、作曲家としての力量を称賛している記事が載っています。今こうしてあるのは、ロータのおかげ、という気持ちを語っています。

マエストロがピアノを専門に学び、音楽家になる道を開いてくれ、クリスティナさんとの結婚式を祝ってくれ(《アイーダ》からの《勝ちて帰れ》をピアノで弾いて、二人の夜を祝福してくれた)、そして、マエストロが彼のピアノ協奏曲をDavid Frayと演奏したことが、キアラさんとFrayの出会いを作り、ロータがまた新たな仲人となった、というようなことを語っています。

ロータのトロンボーン協奏曲はマエストロとウィーン・フィルの来日公演でも演奏されましたが、素晴らしい作品であることから、ウィーン・フィルの首席トロンボーン奏者自らが、その作品をプログラムに入れたい、と申し出てきた、という話も披露しています。

インタビューはまた追って紹介します。

わたしが特に好きなのは、ロータがマエストロの入学試験に立ち会ったとき、その時点のマエストロの実力に対してではなく、マエストロの将来の可能性を見込んで、10点満点をつけた、というエピソードです。
これまでに幾度となくマエストロの口から語られてきた話ですが、本当に素晴らしい眼力、慧眼でした。

2009年10月13日 la Repubblica
Muti: "Rota il mio maestro così diventai musicista"

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Monday, 12 October 2009

Petruzzelliへの想い(2)

マエストロ・ムーティがTeatro Petruzzelliについて語ったことの、残りの部分を紹介します。

マエストロと、モルフェッタ、ナポリとの絆の強さには、いつも深く深く感嘆します。
ティーレマンがインタビューで、日本は天照大神の国だから、と非常な興味を示したことに苦笑さえしてしまったわたしは、やはり、根なし草なのでしょうか。帰属意識を持てない者は不幸かもしれない、と、マエストロを深く知れば知るほど、思います。

また、『パンセ』を久しぶりにひもとかせてくれた、マエストロのインタビューでもありました。何のことはない、マエストロにとっては、機知に富んだオチでもあったのですが。

TEATRO segreto
Barbieri, 2009
60euro

1993年に聖ニコラ大聖堂でコンサートを開いた時、Petruzzelliが修復されないならば、バーリには戻らないだろう、と断言していました。今や、やり遂げましたよ、マエストロ。最初の感想はどのようなものでしたか。

「劇的な遅れだとしても、Petruzzelliの再生はバーリにとって、南イタリアにとって、この国にとって重要な事実と成ります。今は、特にいくつか望みを抱いています。私は、新しい劇場がうまく機能するよう、完成したものであるよう、願っています。そして、だから、最終的な形でのスタートであるよう、願っています。他に障害がなく、今後妨げになるものがなく、こけら落しの後閉鎖されるような危惧がない、ということです。イタリアはこの時点で17年来待っています。私達は皆、17年前から待っていたのです。間違いは、今の時点では許されないでしょう。嘲笑はバーリにはふさわしくないでしょう。」

Petruzzelliが本当にスタートできるためには、何が必要でしょうか。かつてあった状態に戻るには何が必要でしょうか。

「劇場は歴史をもった建物です。けれども、れんがや石は歴史を作りません。人間が作るのです。私はそのことについて、有名な指揮者達や偉大な演出家達、素晴らしい歌手達が、短い時間に献身的になることさえできれば、ということを意図しているのではありません。彼らが何か素晴らしいことを実現できればそれでいい、というのではありません。それでは卓越したことになりません。劇場の優秀さは、すぐれたオーケストラ、合唱団、バレエ団、技術部門の、日々の献身と仕事から生まれるのです。新しいPetruzzelliを創りながら、技術と芸術の両輪をともに最高の質にもっていくことができるような、そういう可能性を生みだすことも、私は大事にしていきたいと考えています。」

容易なことには見えません。

「本当に容易ではありません。根本的には、またもや、人間の問題です。支配人、芸術監督、そして、管理部門の全スタッフです。Petruzzelliの再生から始まって今後の歴史を書いていくという過酷な任務が、これらすべての人々にはあるのです。現代的な芸術を目標にすえ、世界的な芸術舞台の知識を備えているようなことは必須です。そうすることによってのみ、今日、何が最も興味深く革新的な舞台の提供であるかについて、非常に明確な考えを持つことが可能になる、と考えています。」

あなたは世界中で家族同然ですが、『何かを誰かに実証してみせなければならないモルフェッタ出身者』ということについて、今再び、どのように思いますか。

「南イタリア出身であるということは、常に、少なくとも最初に、何らかのことを実証してみせなければならない、ということを意味しています。私達の国では、北部のイタリアを後退させざるをえないといった類いの重荷に南イタリアがなっている、という考えが普及しています。現実には、私達は活力を持っていること、非常に優れた力を持っていることを実証してきました。南イタリア出身の人達は、どんな仕事をしている人であれ、世の中で非常に強い魅力を放っています。」

マエストロ、あなたの指揮は、心が勝っていますか、それとも、理性が勝っていますか?

「両者が戦っています。パスカルは書いています。『心には、理性が知らないところのそれ自身の道理がある』一方、私は両者の幸福な共存の可能性を信じています。両者に分かたれることはできないでしょう。プーリア人典型の理性と、ナポリ生まれ固有の情熱を、ひとつに結びつけています。」

あなたが持っているような素晴らしくて国際的なキャリアが、どうしてルーツとのつながりを強く持つことに対して、妨げにならないのですか?

「呼び戻されるのです。世界のどんなところにいても、モルフェッタの灯りが私を求めて心に浮かんでくるのです。」

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Sunday, 11 October 2009

Teatro Petruzzelliへの想い(1)

Teatro Petruzzelliの舞台写真を収めた本の巻頭に載っている、マエストロ・ムーティへのインタビューを紹介します。

この本によれば、マエストロがTeatro Petruzzelliで演奏したのは2回です。
最初は、フィルハーモニア管と1982年4月9日で、マエストロにとって初めてのバーリ公演でした。
2回目はスカラ・フィルと1989年12月11日で、ガンについて研究している、イタリアの団体のためのものでした。

インタビューは、2008年のウィーン・フィル来日公演からイタリアに戻った頃、ラベンナの自宅で休息をとっている頃に、行われたようです。

TEATRO segreto
Barbieri, 2009
60euro

「私の原点はプーリア、フェデリコ2世の地にあります。古風で素朴な土地柄で、私はそこの気質や特質を自分のものとしました。いろいろな地を巡りまわっていますが、原点は常にプーリアにあり、私の世界と人生の基礎になっています。」

モルフェッタ生まれの父は医師だったが、特に音楽マニアで、《トロバトーレ》や《リゴレット》のアリアを諳んじていた。「市民のブラスバンドを聴きながら覚えたのです。父がそのようでなかったら、私も別の人生を歩んでいたことでしょう。」「たぶん、弁護士になっていたでしょう。あるいは、宇宙飛行士(笑い)。いずれにせよ、何か高く飛ばせてくれるものに、天体を探索させてくれるものに、です。」

早くから音楽への適性があったのですね、マエストロ?
「2歳のときに、はじめて《アイーダ》を観ました。劇場に足を踏み入れたのは、そのときが最初でした。何と、その劇場がPetruzzelliだったのです。両親に連れられて行きました。運転手の腕に抱かれて、最後列に座っていたと両親は言っていました。すぐに私を外に連れて出られるようにするためです。けれども、私は上演中ずっと、がまんできなさそうな様子を見せなかった、とのことでした。」

その《アイーダ》以来、あなたをPetruzzelliに結びつける強い感情があった?
「私にとって、非常に大切な意味を持ち続けてきた劇場です。青春時代と、私が音楽的にできあがっていく過程の最初の頃はすべて、バーリとそこでの文化的生活に結びついていました。二つの重要なエピソードが想い出されます。ひとつは、Teatro Piccinniで、Napoleone Annovazziが指揮した《オテロ》を観ました。14歳の時でした。想い起こしてください、私はザルツブルクで《オテロ》を指揮したばかりなのですよ。それをバーリではじめて観たというのは、興味深いことです。それから、もう一つのエピソードは、今度はPetruzzelliで、アルトゥール・ルービンシュタインのリサイタルに強い印象を抱きました。私は青年期で、このピアノの巨匠に、雷に打たれたかのようになりました。」

バーリはあなたにとって、ニーノ・ロータも意味します。
「私の人生と目標を根本的に変えることを決定づけた出会いです。ニーノ・ロータと知り合ったとき、音楽院の1年生で、ナポリへ、そして、その後ミラノへ移る前のことでした。文化の激動時期でした。バーリの音楽生活について、私がその内側から享受することを許してくれたのが、まさしく彼でした。私は、《フィレンツェの麦わら帽子》を観た最初の人間の一人です。ロータが1945年に書いたオペラで、その後、世界中で成功のうちに上演されています。そして、私の音楽的な可能性を確信してよい、確信すべきだ、と告げてくれたのがニーノ・ロータその人でした。その時までは、音楽とは、人格を決定づけるための補完的な要素だと考えていました。それが父の教えでした。けれども、音楽を演奏することが職業だとは、人生の動機だとは、一度も考えたことがありませんでした。」

観客から演奏者へ、つまり、Petruzzelliの客席から指揮台へは、どれくらいの年がたっていたのですか。
「長かったです。バーリでの最初のコンサートは、1982年フィルハーモニア管とでした。フィルハーモニア管を何年間か指揮していました。故郷でのはじめてのコンサートでした。感激した、と認めます。2度目はスカラ・フィルと1989年にでした。その後火災が起き、17年間の長い沈黙があり、バーリにとってもイタリアにとっても、それは名誉なことではありませんでした。」

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Sunday, 20 September 2009

フリットリのアイーダはメータと

フリットリのインタビューをとても興味深く読みました。

彼女のアイーダ・デビューはバイエルンではなく、メータの棒でフィレンツェで、とのことです。

マエストロ・ムーティについても語っています。
はじめて《コシ・ファン・トゥッテ》のオーディションで歌ったとき、彼女の歌唱はあまりにモーツァルト的だ、とマエストロはコメントしたとか。つまり、厚化粧で不自然でよそよそしくて...ドイツ的だということ。
彼女はマエストロとモーツァルトを歌うのが大好きだとのこと。
ありがとう、バルバラ!
マエストロにとってモーツァルトの《コシ》は、本当にイタリア寄りの作品ですから。

1年でわたしの仕事の環境が激変し、去年、楽しくクラシックの来日公演に行けたことが、遠い過去のことのようになってしまいました。フリットリの来日リサイタルだけでも行きたかったのですが。

2009年9月19日
UNA VOCE POCO FA BLOG
OPERÍSTICO MUSICAL
Intervista a Barbara Frittoli

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Friday, 04 September 2009

首席指揮者

マエストロ・ムーティのラクイラでのリハーサルが始まりました。

ローマ歌劇場でのタイトルdirettore dell’Opera di Romaについて、こう語っています。

イタリアの歌劇場には、支配人(総裁)、音楽監督、芸術監督という三つの役職があるけれども、自分はそのどれにもあてはまらない、英語で言うならば、首席指揮者だ。

いくつかインタビューが出ているので、また紹介します。

2009年9月4日 Il Messaggero
Riccardo Muti: «L'Opera di Roma può tornare grande»

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Sunday, 30 August 2009

ラクイラでのコンサートの意味するもの

マエストロ・ムーティは、イル・ジョルナーレ紙のインタビューで、ラクイラでのコンサートが意味するところを述べています。

マエストロは、人々のために、社会のために、本当に骨惜しみすることなく働く人です。いろいろな立場の人を思いやれる、その立場を想像できる人です。

2009年8月29日 Il Giornale
L’INTERVISTA RICCARDO MUTI

もしもし。マエストロ・ムーティ、よろしいですか?
「ええ。ヴェルディが少し書いたロマンスの譜を読んでいました。コロンナ家生まれのトルロニア公爵夫人に捧げられたものです。終わりましたよ。」

(電話で耳をそばだてる。マエストロが演奏している。素晴らしい歌唱だ。アジリタを伴う一節。ピアノがイタリア・オペラのなめらかな調べを描写する。)
素晴らしい。知られていないけれども、華麗です。
「室内楽風のロマンスでさえ、ヴェルディだと常に演劇のように感じるでしょう?言葉で、歌の身ぶりで、たくさん話しているような状態だといっていいでしょう。」

マエストロ、インタビューなのですが。ラクイラでのあなたのコンサートについて、今、話をしましょう。リハーサル直前です。町中が沸き立っています。熱狂し、進んで熱心に取り組んでいます...ラクイラを訪れたことがありますか。
「2回だけあります。最初はコンサートを指揮しにでした。遅く到着し、とっぷり暮れていて、観たのは少しでした。けれども、町の様子を感じ、受けとめました。2回めは、娘が歌うのを聴くためでした。場所と芸術家のつながりは、たくさんの期待の結果です。重要な瞬間瞬間が思い出されます。けれども、次のような場合はとりわけです。人々を襲った不幸によって傷ついた人達の場合は、誰もがそうでしょう。」

敬意の気持ちから、当地の演奏家達に対して統合を求めるよう、あなたに要請したのは誰ですか。
「これが真相です。コンサートの要請が私のほうへありました。けれども、承諾する前に、条件を出しました。ラクイラの演奏家グループと一緒に仕事をするという条件です。すべてのグループです。葬儀でひとつになるのとは違います...」

...けれども、祝賀のようですが。
「違います。この状況下では、そういった言葉に危惧を抱きます。シンプルにもっと正確に、仕事のことを話し合いましょう。音楽を演奏すること、すべてがそこから始まります。この悲惨なできごとについて考えたとき、自然と、すぐに音楽家達を思い浮かべました。彼らの蒙った被害はどうだろうか。家を失った人がいるでしょうし、大切な人を失った人もいるでしょう...。楽器や自分達の音楽の場がだめになったのを見たことでしょう。たとえ国際的に優れた著名な演奏家達だとしても、ラクイラのために歌い、演奏するように仕向けるのは道理にかなわないように思えました。そうではなく、ラクイラの演奏家達に寄り添うような気持ちを見せることが、ふさわしいように思えたのです。」

ラクイラの演奏家達を統合し、彼らに活動を続けていくための奮起とエネルギーをもたらす、ということですね。
「とりわけ、まだ損害を被ったままの状態にあるラクイラのために、彼らが活動できるような状況をすぐに整えることです。」

Società Aquilana dei Concerti Barattelliから、Solisti AquilaniやCoro Gran Sassoなどに至るまで、現地のすべての音楽団体が参加します。
「プロの演奏家や音楽院の生徒もいます。一緒に仕事をしますし、聴きたい人達に対して、すべてのリハーサルが公開されます。」

プログラムは特別に配慮されました。ベッリーニとヴェルディの有名な序曲、伝説に彩られた作品で、《清らかな女神よ》から《行け、我が想いよ》に至るまで、用意されています。Teresa Romanoの感動的な声や、素晴らしい声の持ち主で、高く評価されている Ildar Abradzakovが共演します。
「そのとおりです。オペラからの作品で、イタリア人の演奏家達にとっても聴衆にとっても、その血の中に流れている作曲家によるものです。モーツァルト、ベートーベン、シューベルトといった偉大な音楽家達同様、絶え間なく、非常によく研究されていることは確かで、その卓越性や楽譜印刷の質の高さ、ラクイラで演奏する作品としての審美的・精神的な重み、そういったものを重要視することについては、いずれにしても、同意します。確かに、それらを演奏するには、深い注意と気遣いが必要です。そうでなければ、しかしながら、非常にいい加減な水準のものにつながってしまう可能性があるからです。私達の歴史を作ってきた作品であり、大きな責任と価値を同時に持った作品です。けれども、直接大きなインパクトをもたらす作品でもあり、あらゆる分野の人にとって、よく知られているといえるような作品です。」

芸術面で、演奏家達は同じレベルでしょうか。
「この状況下で集められ、たとえ、個々には称賛されるレベルにあるとしても、合体された合唱団やオーケストラが、洗練度を高めるために人生を捧げているような団体、そして、全員が円熟し、何年にもわたって選ばれてきたようなメンバーからなるような団体と、同じような出来を持てるだろうと想像することは、イタリアのプロの音楽家達にとっては、侮辱といえるかもしれません。けれども、演奏においては、どの瞬間もどの状況も、すべてが二度と同じものがなく、繰り返せないものです。今回のような機会では、当然のことながら、芸術上の品位は守られ、霊感と参加意識、うまく演奏しようという意欲が生まれ、音楽にそれが感じられ、技術上完璧でないところがあっても、それらがとって代わりうることでしょう。」

改まったものになりすぎる危険はないのでしょうか。はたして、イタリアや海外からどういった人達が聴きにくるのでしょうか。大統領が列席することすらあるとのことですが。
「そうは思いません。ラクイラでの悲惨なできごとは、全ての人にとって、心から、深く、感じとられてきました。そして、私達のナポリターノ大統領にとっては、政治家としてや人間としてのあり方は別にして、芸術的な催しに参加することは、常に自然な行為です。彼は、教養ある人間として、音楽を愛しています。つまり、こういうことです。このコンサートは、すべての人にとって、自然な出来事だと私には思えます。」

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シカゴとローマが最優先となっても、ウィーン・フィルは特別

マエストロ・ムーティへのレプッブリカ紙のインタビューを紹介します。

マエストロは、結局、また、これまでのように、働きすぎの状態に戻ってしまうようです。音楽に対する妥協しない姿勢と熱意には、いつものことながら、本当に深い敬意を払います。

これまでも健康そのもののマエストロですが、どうか、いついつまでもお元気で。毎日お祈りしています。

モストリークラシック誌最新号がイタリア・オペラの特集をしていて、ローマ歌劇場についてもとりあげられています。
そういえば、1981年来、スカラ座来日公演にはじめて行かないことになりました...。

モストリークラシック 2009年10月号
特集 イタリア・オペラの快楽

2009年8月29日 la Repubblica
"Dirigerò per l´Abruzzo poi punto al rilancio dell´Opera di Roma"

「9月3日から、リハーサルを公開します。最大限にまで身を粉にする演奏家達と一緒に仕事をすることになるのだと、わかっています。とりわけ私にとっては、非常に実りある出会いになることでしょう。」

これほど困難な状況はないと思われるような人々を率いることは、大変ではありませんか?
「地震の被害者達のためのコンサートを指揮するよう依頼を受けたとき、既製の、多少の差はあれ、名の知れたオーケストラとではなく、当地の音楽集団自身と音楽を演奏するよう、望むことができたら、と直ちに考えました。このような条件では逆に、時として、最高の表現力を伴った結果に到ります。悲惨な状況に苦しめられている現地の演奏家達と聴衆は、《ノルマ》の《清らかな女神よ》、《ナブッコ》の《行け、我が想いよ》のような、ベッリーニやヴェルディのいくつかの作品を演奏し、聴くことに、心から同意することでしょう。イタリア人のからだにしみこんでいる音楽であり、文化面のみならず、イタリア人の感性に関するアイデンティティにおいて意味のある音楽です。」

繰り返してきた質問があります。ローマ歌劇場に行くことを、どうして承諾したのですか。
「オーケストラと合唱団の強い希望に応えたのです。それについては、市長が熱意をもって伝えてきました。ここのところ、私の芸術人生は平穏で、成功に満ちています。ローマ歌劇場のようなところを引き受けることが、大きな責任であるのは間違いありません。けれども、非常に強い求めによって説得されてしまいました。」

正確にはどういう役職ですか。
「『ローマ歌劇場指揮者』 "Direttore dell´Opera di Roma" です。けれども、役職名が仕事をするわけではありません。むしろ、仕事が役職名に意味をもたらすのです。演奏家達の集団の質について、まず何よりも専念することになります。また、大筋において、1年に二つのオペラと2回のコンサートを指揮します。国際的な視野を持った支配人や芸術監督と共同して仕事をし、新風をもたらせたら、と考えています。ローマのような首都には利点があります。また、ローマ歌劇場では、第一級の人々を歓待してきましたし、トスカニーニやヴィスコンティのような芸術家達が、そこで仕事をしてきましたが、そのような栄光に彩られた歴史がここにはあります。私の理想とするところは、交流やツアーを行えるほどの水準に到達することです。また、カラカラのような素晴らしい場所で演奏するといったような、壮大な可能性についても、考えています。」

あなたは指揮者であり、常に政治と距離を置いてきました。過去、ヴェルトローニとの明白な友情から、ローマで指揮をしたことがあります。アレマンノのような右派の市長の招きを受け入れることに、困惑はなかったのですか?
「私は政争とは無縁です。いつもそうでした。フィレンツェ時代もスカラ座での19年間も、そうでした。政治に屈伏したことは一度もありません。芸術の論理は独立して存在しますし、そうあり続けることでしょう。それが私の姿勢であり、私を招いた人は、それが最良だとわかっています。」

ザルツブルク、ウィーン、シカゴ、ニューヨーク、ミュンヒェンでの活動、ケルビーニ管との仕事、その他にもありますが、あなたのスケジュールは猛烈に密度が濃くなっています...
「私よりももっと仕事をしている指揮者達がいます。マゼール、ゲルギエフ、バレンボイムといった人達です。いずれにしても、2010年から、シカゴとローマが最優先になります。けれども、ウィーン・フィルとの関係も第一義的なものとして続きます。来年は、彼らと40年間、絶えることなく共演し続けてきたことを祝います。」

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Saturday, 29 August 2009

ローマ歌劇場の水準をもっと上げるために

マエストロ・ムーティへのインタビューが、今日のいくつものイタリアのニュース・メディアを席巻しています。

ラクイラの人々へのメッセージにもあったとおり、ラクイラでのコンサートに対するマエストロの真摯な姿勢には、心を打たれます。
日本の阪神淡路大震災に対する気持ちもうかがえるインタビューでした。

2009年8月29日 Corriere della Sera
Muti, musica per l’Abruzzo «A Roma dirigerò 5 anni Nessuna sfida con la Scala»

「そのとき、ラベンナの自宅にいました。」リッカルド・ムーティは回想する。「夜の間、ずっと目を覚ましていました。地震の小さな衝撃があったのです。家が揺れました。4月6日の朝、テレビをつけて、アブルッツォで起きた悲惨なできごとを観ました。」彼は、9月6日、地震からちょうど5ヶ月後、ラクイラ、CoppitoにあるGuardia di Finanzaの職員宿舎で、民間の支援グループと文化相によって計画準備されたコンサートを指揮する。それは、«Campi sonori - Prologo della rinascita»の一連の催しを締めるもので、ナポリターノ大統領が出席する予定である。

連帯感を示したたくさんのコンサートが続々と行われたが、それに関しては新規面がある。ムーティは語る。「招かれたとき、提示した条件があります。それは、当地のオーケストラ、合唱団のグループを指揮すること、ということです。彼らも地震に襲われ、ホールと楽器を失ったのです。」Solisti Aquilani alla società Barattelliから、音楽院の生徒たちによるIstituzione sinfonica abruzzese まで、実在する10のグループが参加し、ベッリーニとヴェルディの作品を組み合わせた、よく知られたプログラムを演奏する。

「地震の被害に遭った人達が、名門オーケストラや交響曲のコンサートを求めているとは思いません。それは、豪奢なもてなしがそこに持ち込まれるようなもので、彼らを緊張させるようなものです。私がそこに存在することによって、次のような意義と深い心情を伝えることができたら、と思います。あなた方と一緒に、あなた方のために音楽を演奏するために、私はここにいるのです、と。」

文化も損害を被り、心を楽しませられない状態が続いている...「戦争中のようなものです。このような状況は、決して上出来なものではありません。緊急で必要なものについて、また、日々の最も基本的な要求と戦いながらテントで暮らさざるをえないことについて、いつも配慮が足りません。私には、1度ならず、地震の体験があります。青年の頃にナポリで、そして、日本に関連してです。我々にただちに無気力感をもたらし、ただちに全く無力感に陥らせてしまうようなこと、そして、そういった無気力・無力とともに生活していくかもしれないことは、いちばん恐ろしいもののひとつです。」

マエストロ、あなたは、2010年12月からローマ歌劇場の指揮者になることについて、「イエス」と最近答えましたが、まだそのことについてコメントしていません。「私は見直しについて話すつもりはありません。この歌劇場をもっと国際的な水準に引き上げることが重要です。契約は5年の予定です。オーケストラを完全なものにすることとツアーの他に、1年にオペラを2作品、2回以上のコンサートを行います。」

スカラ座への挑戦だと言っている人がいます。「挑戦だなどと言えるのは、愚か者だけでしょう。私は仕事をするためにローマへ行くのであり、他の歌劇場と戦うために行くのではありません。スカラ座で19年間を過した後では、そのようなもの言いは、自分自身に戦いを挑むと言っているようなものです。」

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マエストロの地震体験

今日のCorsera紙にもマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

ラクイラでのコンサート、ローマ歌劇場へ行くことについて語っています。

マエストロの地震体験は、たとえば、若いころナポリでと日本でとのこと。日本では何度か(最近では2度)体験していると思いますが、ウィーン・フィルと演奏中のがありましたね、マエストロ!
ベーム翁が、来日公演中に遭遇して、滞在中のホテルでびっくりしたエピソードも有名。

ラクイラの地震の際には、マエストロはラベンナの自宅にいて、揺れを感じたとのこと。

ローマ歌劇場とはツアーも予定に含まれているらしいですが、来日公演が仮にあるとしたら、しっかりした招聘元であるよう、心から願っています。

ローマ市長はミラノを大いに意識しているかもしれませんが、マエストロは自分にはそういう意図がないことを、ここでも明言しています。当然です。

夜になりますが、後で紹介します。

2009年8月29日 Corriere della Sera
Muti, musica per l’Abruzzo «A Roma dirigerò 5 anni Nessuna sfida con la Scala»

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バカンスといってもインタビュー

今日のレプッブリカ紙とイル・ジョルナーレ紙に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

どちらもラクイラでのコンサートに触れていますが、レプッブリカ紙では、ローマ歌劇場へ行くことについても、はじめて語っています。歌劇場のオーケストラと合唱団の懇願と熱意に応えたもの、という理由を明かしています。

9月3日からはラクイラでリハーサルを公開するとのこと。
ラクイラには2回行ったことがあり、そのうちの1回は、キアラさんの公演を聴きに訪れたものである、とも言っています。

来年(来シーズン)は、ウィーン・フィルとの共演40周年になる、とここでも言っています。

二つとも追って紹介します。

朝、新聞を開くとマエストロのインタビューが載っているなんて、今まで数えきれないほど思ってきたことですが、うらやましい!

2009年8月29日 la Repubblica
"Dirigerò per l´Abruzzo poi punto al rilancio dell´Opera di Roma"

2009年8月29日 il Giornale
L’INTERVISTA RICCARDO MUTI

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Sunday, 09 August 2009

Moise et Pharaon (3)

マエストロ・ムーティのザルツブルク音楽祭における《モイーズとファラオン》は、演出への聴衆の反応が割れた他は、大成功でした。短信が出ているとおりです。

2009年8月9日 ddp
Neuinszenierung - Geteiltes Echo auf Flimms Salzburger Rossini-Inszenierung

特に、アナイが喝采をさらっていました。

スカラ座公演のフリットリのアナイについては、初日のインターネット放送では、ガナッシ(出産を控えて、ザルツブルク音楽祭では降板)のロッシーニ歌いとしての卓越性に比べて、聴衆の戸惑いが聞こえてきましたが、それでも、歌唱に見られる音楽性は素晴らしかった。マエストロが彼女を選んでくれたことに、彼女が歌ってくれたことに、今でも感謝しています。

さて、ザルツブルク音楽祭年鑑に載った、マエストロのインタビューの残りの部分を紹介します。

作曲家の創作欲とはなんだろう、評価されたいという望みはどういうものなのだろう、と考えさせられます。

そして、イタリア音楽の伝統がヨーロッパに伝播していったことを、またしてもマエストロのインタビューから認識させられ、マエストロの中にある、偉大なヨーロッパ音楽の伝統にあらためて畏れおののき、一層深い深い敬意を捧げることとなりました。

本当に、マエストロ・ムーティは、先生、導き手、il mio Maestroです。

Unterwegs 2009
"Like a fresco by Raphael"

音楽学者達は、ロッシーニの二つのモーゼ・オペラのうち、どちらが重要かを討議し続けている。ひとつは、ナポリ、サン・カルロ歌劇場のために書かれ、1818年に初演された、3幕ものの宗教音楽劇 Mose' in Egitto  である。もう一方は、4幕ものの  Moise et Pharaon ou Le Passage de la Mer Rouge  で、1827年にパリで初演された。ムーティの答えは明確である。「Mose' in Egitto  は、美しい音楽といくつかの輝かしいアイデアを持った『普通の』 オペラです。ロッシーニの独創的な作品を参照するに際しては、散見される短所と素晴らしい箇所との結び付きが重要です。Moise et Pharaon は、徹頭徹尾、完璧なグランドオペラ形式で、まるでラファエロのフレスコ画のようです。」ムーティは、二つの作品についてそれ以上の比較をすることは拒んだ。たとえ、ロッシーニが Mose' in Egitto  の一部を Moise et Pharaon に使用したとしても、そのほか、 Armida、 Ciro in Babylonia、 Adelaide di Borgogna、 Bianca e Falliero といったような初期の作品からも、一部を選んで一緒に使用しているが、たとえそうだとしても、それにもかかわらず、コンセプトの面では、両者は全く別の作品である。従って、二つのバージョンが同じ作品だとは言えない。さらに、前者の作品が、イタリアの歌劇場を想定しているのに対して、Moise et Pharaon はフランス嗜好に適合したものである。バレエが作品の中心に登場するのは、そういった理由による。

また、作品の主題の重要さも展望すべきだ。Moise et Pharaon は聖書の世界の出来事であると同時に、ラブ・ストーリーにも足を置いている。若いユダヤ人女性Anaiは、Pharaohの息子Amenophisと恋におちる。評者の中には、これをアイーダとラダメスの先駆とみなす者達もいる。そこにも、背景として、二つの敵対する国とラブ・ストーリーがあるからである。ムーティにとっては、「ラブ・ストーリーはラブ・ストーリーにすぎません。」ロッシーニにしてみれば、このプロットはオペラの着想を得るためのひとつにすぎない、と彼は見る。ロッシーニの目的は、「密度の非常に濃い、強い音楽を書くことであり、素晴らしい効果を創出することにあるのです。それはグルックのオペラに比べうるといえるでしょう。グルックのオペラは、本当のところ、何の筋書きももっていないのですから。」このような見通しに立てば、どちらかといえば偶然にだが、1世紀後になってやっと、Moise et Pharaon を次のフィナーレにおいて発見することになる。プッチーニの《マノン・レスコー》で、砂漠における愛の二重唱だ。

ムーティにとって第一に重要なのは、Moise et Pharaon において、ロッシーニがオーケストラと合唱をソリスト達とともに同じ地位においていることである。「ロッシーニはそのことによって、自分が持っている、管弦楽作曲家としての優れた技量を披露したかったのです。合唱は主役としての役割を与えられています。どのパートもむつかしくて、テノールの音域は非常に高く、バスにとっては、チャレンジが多く用意されているとしか言いようがありません。ロッシーニはそのオペラ・セリアの創作において、『巨大な聖堂』を築き、その結果として、その後に続くイタリア人作曲家達に非常に大きな影響を与え、それはヴェルディにまで至るもので、また、フランス人作曲家達に対しても同様でした。ロッシーニはフランスの雰囲気を吸収し、フランスのオペラ様式について知りつくしていました。それだけでなく、ベートーベンとモーツァルトの音楽も知っていました。彼はそれらすべてを、グランド・オペラの様式で表現したいと考えていたのです。その意図していたところは、大傑作の創作でした。ロッシーニは、その素晴らしい喜劇作品においては大成功を収めていましたが、それでも、まだ、オペラ・セリアの作曲家として承認されることを望んでいました。モーツァルトもやはり、《イドメネオ》を自分のオペラ作品の中で、最高峰とみなしていました。」 

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Saturday, 08 August 2009

ザルツブルクでマエストロが語っていること

マエストロ・ムーティがザルツブルクで語っていることを、いくつか抜粋して紹介します。

録音で聞ける記者会見の模様が基本のようです。

そのひとつ、シチリアの新聞は、マエストロがローマとナポリの両歌劇場に出演することに、イタリアの歴史との相似性を見ています。マエストロも、我が意を得たり、とのようですが。

2009年8月7日 La Sicilia
Muti: «La Preghiera di Mosè in Egitto è il terzo inno d’Italia»

「ザルツブルク音楽祭との愛情は40年間続いています。そして、私は40年間、世界に向かってこう語ってきました、音楽は娯楽ではなく、共同社会的体験だと。音楽にはイデオロギー的な概念はありません。音楽にあるのは、美しいか、醜いか、です。美しければ、敵対者でさえ、出会いと愛を見つけることができます。」

Moise et Pharaon はGioacchino Rossiniのオペラ・セリアで最後のものではないが、フランスで愛され、イタリアで崇拝され、そして、ヨーロッパのドイツ語圏では無視されていた。それが、ザルツブルク音楽祭ではじめて受け入れられることになった。明日8日、祝祭大劇場でデビューを飾る。演出家はJurgen Flimmで、ほぼ100年前にリヒャルト・シュトラウス、ラインハルト、フォン・ホーフマンスタールによって創立された同音楽祭の、芸術監督である。音楽における正真正銘の革新である Moise et Pharaon に関し、ムーティは1827年のパリ版、第二版を上演する。

「1818年の Mosè in Egitto を、Moise et Pharaon に比べると『卓越した素描』だとみなしたのはロッシーニが最初であり、不幸ではないことに、リッカルド・ムーティではありません。Moise et Pharaon はとびぬけた規模を持つフレスコ画で、ロッシーニ流のフィナーレを持った作品に抗し、ヨーロッパ音楽の集大成に逆らうものです。」

マエストロ・ムーティは第4幕の伝説的な"Preghiera"を、Fratelli d'ItaliaVa pensiero に次ぐ第三の国歌とみなしている。

「革新的な作品です。合唱は現代的なダイナミックさをもち、主演者です。オーケストラは複雑でヴェルディ風です。洗練された管弦楽法は、ナポリのサン・カルロ歌劇場に割り当てたもので、当時、優れた管楽器を備えていて、ロッシーニはそれらを存分に『駆使』したがっていました。」

けれども、革命は別のところにあるように思えます。
「そうです。ロッシーニの精神の中には、良いか悪いか、といったようなことは存在していません。そうではなく、絶望の中にいる二つの民族だけが存在し、群衆や個々の人間を介して接点を求めています。けれども、勝負の場、出会いの場は失われました。彼らが自分達の原理に囚われたままだからです。おそらく、より現代に近いものではないでしょうか。」

革命的といえば。ローマとナポリの友好とともに、シチリアもあなたの南イタリア音楽連合の中で承認されているのでしょうか。
「こう言ってよいでしょう。私はナポリ生まれですが、数世紀前は、シチリアはナポリ王国に参加していました。祖国の歴史の一部を忘れることはできません...」

あらゆるものを侵食する危機的状況と、演劇と音楽の息の根を止めるような助成カットが影響をもたらすかもしれず、その結果、ピットの中にも、ぴりぴりしたものがはいりこむことがあるのでしょうか。
「ギリシア人達が次のように言っていたのを想い起こします。スパルタが涙を流すとき、アテネは笑わない。カットの悲劇が世界中をおおっています。従って、祖国イタリアのためだけに訴えるのではなく、人間としてのアイデンティティのためにアピールするのです。なぜなら、文化として理解されているもののさらに重要な影響力は、俗世的なイベントとしてではなく、あらゆる社会のテーブルにおける基本的なパン、糧としてもたらされるものだといってよいからです。」

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嬉しいインタビュー録音

ORFのサイトで聴けるマエストロ・ムーティのインタビューは、新聞記事と同じもので、どうやら、6日の記者会見の録音のようです。

英語ではなく、イタリア語で行われたことを素直に喜んでしまいました。まあ、別にどちらであっても構わないのですが...。
また、ドイツ語の翻訳がかぶらず、マエストロの声が聴けるのも嬉しいです。

《モイーズとファラオン》の祈りの合唱が第三の国歌となっている、と語った際に、イタリアの国歌までハミングしているマエストロ。
8日の成功は間違いないことでしょうが、東京からお祈りしています。

なお、ドイツ語の翻訳がかぶさってしまっている短いインタビューと、演奏はこちらで聴けます。

2009年8月7日 OE1 ORF
"Moise et Pharaon" in Salzburg

http://oe1.orf.at/inforadio/111062.html?filter=5

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2010年は《オルフェオとエウリディーチェ》

マエストロ・ムーティは2010年にザルツブルク音楽祭デビュー40年目を迎えますが、ガランチャとの共演で、グルック《オルフェオとエウリディーチェ》を上演するそうです。

マエストロのインタビューが聞けます。

(6日の記者会見のようで、イタリア語で行われたものです)

OE1 ORF 2009年8月7日
Riccardo Muti im Gespräch

http://oe1.orf.at/inforadio/111114.html?filter=5

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第三の国歌

7日のオーストリアの新聞に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを、とても興味深く読みました。

マエストロによれば、フリムとの共同作業は非常にうまくいったとのこと。二人は同じコンセプトを持っていた、と語るマエストロに、ほっとしました。

《モイーズとファラオン》については、人間がイデオロギーと宗教に囚われている様を描いているのであり、対立する両者について判断は下していない、と語っています。
スカラ座上演では、そのような悲しい囚われの姿がファラオンの絶望で終わり、幕になったのですが。

また、この作品の合唱には、イタリアで第三の国歌とまでいわれる有名なメロディーがあることにも、マエストロは触れています(第二の国歌は、言うまでもなく、ヴェルディの《行け、我が想いよ》です)。

合唱団が舞台でも歌の面でも重要な役割を果たしている、と語っていますが、先に紹介した映像で観ても、合唱団の動きはダイナミックです。

インタビューは後で紹介します。

7月、8月(とかつては12月も)は、マエストロの演奏を聴きに飛んで行きたくなる、せつない時期です。

明日のインターネット中継を待つことにします。

2009年8月7日 OOE Nachrichten
„Identität hängt von der Kultur ab“

(この記事に続きはありません)

Continue reading "第三の国歌"

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Sunday, 26 July 2009

Moise et Pharaon (2)

ザルツブルク音楽祭の2009年年鑑に載った、マエストロ・ムーティへのインタビューの続きを紹介します。

マエストロがなぜロッシーニの《モイーズとファラオン》を今年の夏演奏するのか、ザルツブルクの新聞にも22日、同じような記事が載っていました。

2009年7月22日 Salzburg Nachrichten
Riccardo Muti schätzt „Rossini serio“

マエストロの中にあるイタリア・オペラの伝統、それに対するマエストロの厳しく、真摯な姿勢を想う時、高音を歌わせない、といったような批判(きちんとした検証さえ経ていない以上、「批判」とさえいえないのですが)は、本当に瑣末で、一部しかみていない、悲しい先入観の典型であるように思えます。

Unterwegs 2009
Like a fresco by Raphael

ムーティが、とりわけてこのロッシーニの作品をザルザッハ川のほとりに持ち込んできたのは、偶然ではない。彼はこれを、ナポリ派音楽の作品を中心に据えている、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭で創り出そうと努めている、モザイクの一部だとみなしている。なぜなら、ロッシーニは「チマローザやパイジエッロ、ヨンメッリの世界」からやってきたからである。「ロッシーニは、モーツァルトにとって重要な手本役でしたが、それはケルビーニ、スポンティーニに続くものです。ナポリ派音楽なくしては、モーツァルトは理解できませんし、グルックなしでは、ケルビーニやスポンティーニはわかりません。ナポリ派音楽を理解すれば、ロッシーニが別の文脈から見え、ロッシーニを生んだ世界に気づきます。ロッシーニの喜劇オペラは、イタリアの伝統に由来を持つものです。その伝統はシューベルトを非常に鼓舞しました。一方、グルックは後のすべてのオペラ作曲家達、ケルビーニであろうと、スポンティーニであろうと、ロッシーニのオペラ・セリアであろうと、それらすべてにとっての創始者です。グルックの独創的な作品は、言葉と音楽の間における、原型ともいえるような関係に力点が置かれています。彼の音楽は技巧や見せ物のために書かれたものではなく、むしろ本質的なものを表しているのです。」

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Friday, 24 July 2009

マエストロのインタビュー画像

RAIのサイトに、サラエボ公演についてのマエストロ・ムーティのインタビュー映像が載っています。

ストリーミングのツールをインストールしていないので、観られなくて残念です。
(活字人間は、もう、完全に時代遅れです...)

RAI TV 2009年7月15日
Riccardo Muti a Sarajevo
con l'orchestra del Maggio Musicale Fiorentino.
Servizio di Angelo Angelastro dall’edizione delle 13.30 del 15 luglio

http://www.rai.tv/dl/RaiTV/programmi/media/ContentItem-3dbd81d4-2c3a-4057-bfa5-fb50696b48aa.html?p=0

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Monday, 20 July 2009

Moise et Pharaon (1)

2009年ザルツブルク音楽祭年鑑に掲載された、マエストロ・ムーティのMoise et Pharaonについてのインタビューを紹介します。

(マエストロは英語で答えたのでしょうか、イタリア語で答えたのでしょうか。英独双方の記事を読みながら、ちょっと思いました。)

Unterwegs 2009
Like a fresco by Raphael

リッカルド・ムーティにとって、次のことについての疑念はありえない。すなわち、ジョアキーノ・ロッシーニの偉大さは、彼のオペラ・セリアもまた知っていれば、判断することができるのである。作曲家自身、自分のことを、オペラ・ブッファで成功したと説明されるのではなく、むしろ《ウィリアム・テル》や《モイーズとファラオン》のような作品によって位置づけられることを望んでいた。両作品をムーティは、ミラノ・スカラ座音楽監督時代に上演したことがある。「ロッシーニの非凡な才能は生前から認められていました。そして、多くの人が彼の成功に腹を立てました。その中にはベートーベンやシューベルトもいます。時がたつにつれて、社会全般の発展の犠牲にもなりました。19世紀終わり頃には、モーツァルトがブラームスのように、ベートーベンがブルックナーのように、ヘンデルがラフマニノフのように演奏されただけでなく、ロッシーニがヴェルディのように演奏されました。けれども、彼はヴェルディではありません。」ムーティはそのように誤っている解釈について話した。それは現在まで続いている誤りである。

たとえば、《セビリアの理髪師》のロジーナ役は、たとえメゾソプラノのために書かれた役であるとしても、相対的に大きな劇場においてさえ、ソプラノが再三割り当てられている。そして、《セミラーミデ》や《ウィリアム・テル》といったロッシーニの序曲が、全くふさわしくない重みと荘重さを帯びて演奏されることは、珍しいことではない。ロベルト・シューマンのこんな手紙がある。彼はその中で、原型がほとんどわからないほどにまで、アリアに過剰な装飾を施して歌う歌手について、不満を述べている。ムーティは言う。「現在、私達は、こういった作品をどう演奏すればいいのかについて、もっとよくわかっていますし、ロッシーニ自身が書いたカデンツァについて、もっといろいろ知っています。そういったことから、彼がどのような種類の技巧を求めていたかが理解できます。もちろん、ロッシーニは喜劇には装飾性を要求していました。オペラ・セリアについてはそれほど求めていませんでしたが。けれども、歌手達が自分達の妙技をひけらかすことは欲していませんでした。」

「当時の演奏スタイルについての研究をどのように検証しようと、それは、作曲家の本来のスタイルに戻るために、最新の目新しくて重要なことを多くもたらしたのでした。」自分の演奏の方向を述べながら、マエストロ・ムーティはこう主張する。「ロッシーニ当時のピリオド楽器で彼の作品を演奏することはないとしても、ロッシーニを全く異なった観点から検分する必要があります。」ムーティ自身もまた、過去10年以上にわたって人々が収集したロッシーニに関する知識・情報によって、影響を受けている。30年間、ロッシーニ・ルネッサンスが存在してきた。ペーザロのロッシーニ音楽祭におけるように、たくさんの演奏が行われ、同時に、全作品についてのクリティカル・エディションに集約された、音楽学上の発見もあった。1970年代、当時ムーティはフィレンツェ歌劇場の音楽監督だったが、ロッシーニの最後の作品《ウィリアム・テル》を、イタリアで初めて上演した。「とてつもない作品です。チェロの音色で始まり、最も素晴らしいフィナーレのひとつで終わります。そのフィナーレは《フィデリオ》の終結部分に匹敵するもので、平和と友愛を希求するものです。ニコライ・ゲッダは、完全版の作品を初めて歌うことに勇気を持って挑戦しました。」ムーティは当時の上演を回想した。

《ウィリアム・テル》に続くものとして、ムーティは、《モイーズとファラオン》をロッシーニの二番目に素晴らしい作品だとみなしている。「この作品にはすべてが備わっています。アリア、二重唱、三重唱、様々な管楽器と弦楽器によるコンチェルタート。紅海が二つに割れる場面の嵐は、オペラの演奏曲の中で、最高の瞬間です。」2003年にムーティは、ミラノ・スカラ座のシーズンをこの作品で開幕させた。演出はルカ・ロンコーニ、舞台美術はGianni Quaranta、モーゼ役はイルダール・アブドラザコフ、アーウィン・シュロットがファラオン、バルバラ・フリットリがアナイを歌った。ザルツブルクでは、ユルゲン・フリムが演出し、舞台美術はFerdinand Woegerbauer、アブドラザコフがモーゼ役を再び歌う。ファラオンはニコラ・アライモ、アナイはMarina Rebekaが歌う。

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Saturday, 27 June 2009

幸せとは

マエストロ・ムーティが、マイケル・ジャクソンについて語ったインタビューを紹介します。

ショービジネスの世界は、わたしにとってはストーンズとともにずっとずっとありました。まさか、ミックやキースが、ここまで不良健康シニアとして健在で、音楽活動を続けるとは想像だにしませんでした。彼らがマイケルのように、精神的にも身体的にも身を滅ぼさずにきた理由は...??(キースはもうぼろぼろですが)

2009年6月27日Corriere della Sera
«Come Farinelli e altri interpreti del barocco: vittima di eccessi»

「1980年代にフィラデルフィア管音楽監督だった頃、テレビで彼の歌をしばしば観ました。彼のことはそうやって知りました。マイケル・ジャクソンは、音楽の歴史において、あらゆる時代を通じて、最も伝説的で、論議をまきおこした(そして愛されもした)歌手のひとりです。」語ったのはリッカルド・ムーティである。PaisielloのMissa Defunctorumは、ザルツブルクで成功を収めた後、ケルビーニ管と明日ラベンナ音楽祭で、そして、月曜日にはフィレンツェで演奏されるが、そのリハーサルの合間のことであった。「長い導入部と4つのレスポンソリウムから成り立っていて、これはPaisielloの時代には未発表だった版です。」

マエストロ、マイケル・ジャクソンについてどう思いましたか。
「彼の論議をまきおこした人生、その弱さ、非常に不安定なところ、そして、最後には消耗しつくしてしまったところは、バロック時代の偉大なカストラート達の人生を想わせます。Caffarelli やFarinelliといった人達で、崇拝の対象であり、はてしない偶像視の対象でした。こういった崇拝の犠牲でした。」

白人でもなく黒人でもなく、その声も男性でもなく女性でもなかった...
「そのとおりです。カストラートのことを話したのです。」

こういう両義性、境界すれすれなところは、若者達に多大な影響を持ちました。そして、遊園地のような現実離れした生活があり...
「道徳上の評価に踏み込むつもりはありません。確かに、彼がしていたことすべてが、こういう悲劇で終わることに彼を導いたものの、典型的な特徴を示していました。」

彼の音楽面については?
「彼のようなアフリカ系アメリカ人は、私達の時代の音楽の発展に対して、根本的な点で貢献してきました。音楽は、アフリカ系アメリカ人に対する高い評価において、重要な領域を成していました。それは、USAの社会においても、彼らの評価を高めることに貢献していたのです。」

社会的解放?
「ジャクソンはLouis ArmstrongやElla Fitzgerald、Charlie Parkerのように、こういった社会的解放におけるまさに象徴でした。彼は高潔な芸術家でもありました。"We are the world"のことを思っています。これは、東アフリカの飢餓に対して慈善基金を集める役割を担いました。彼とともに、1980年代のポピュラー音楽の最高の表現芸術が、この世を去ったのです。」

失礼をお許しいただきたいのですが、マイケル・ジャクソンの歌で踊ったことはありますか。
「いいえ。踊りのほうはできません。」

このように早すぎる終わりからは、どんな教えが引き出されるのでしょうか。
「どんなことをしてでも美と若さを追求することについて、私達に再考を促すことを教えてくれます。彼の人生は、成功が必ずしも幸福の源であるとは限らないということを、証明しています。」

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マイケル・ジャクソンを偲ぶマエストロ

今日のCorsera紙に、マエストロ・ムーティのマイケル・ジャクソンを偲ぶインタビューが載っています。

フィラデルフィア管音楽監督時代に、テレビでマイケルの映像をしばしば観たとのこと。

当時はMTV全盛時代でしたし、まさにマエストロが回顧しているとおりです。

インタビュー紹介はまた後ほど。

わたしが大好きなミックは、最近上映された映画で観ても、ますます健康的になっていき、なんだか不思議な気持ちです。

2009年6月27日 Corriere della Sera
«Come Farinelli e altri interpreti del barocco: vittima di eccessi»

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Monday, 15 June 2009

音楽を通じて教えたいこと(1)

マエストロ・ムーティのインタビューが載ったIl Venerdi誌は、レプッブリカ紙の購読サイトでも読めますが(マエストロのオフィシャル・ウェッブ・サイトにもテキストが載っています)、本体が届いたので、紹介します。

新しいケルビーニ管とのリハーサル中の写真が、見開きページで載っています。

「音楽は心を奪われるものであり、議論するものではありません。音符の背後には無限だけがあります。その果てしなさを言葉で説明することは不可能でしょう。」

マエストロ・ムーティのこういう言葉が記事の冒頭部分にあります。

Il Venerdi 2009年5月29日号
Riccardo Muti
Ai ragazzi bisogna insegnare ad ascoltare

教えるということは、魂を奪われることと、どのように両立するのでしょうか。
「音楽を説明することはできません。要するに、理解不能、ということです。けれども、『魂を奪われること』への門戸を開くために、教えることはできます。可能ですし、そうすべきです。若者達に音楽を教えることは、倫理的な義務です。」

むしろ、無視されてきました。学校活動の中で、わずか、おおよそ10時間です。
「昨日今日の学校行政者達の過ちばかりではありません。グイド・ダレッツォが音に階名を付与し、コレッリが協奏曲という形式を創りだし、カメラータ・デ・バルディがオペラを始め、ストラディバリとグァルネリがこの世で最も素晴らしい楽器を製作したような国、音楽の最も偉大な歴史を持った国家が、いったいどうやって、しまいにはその根源を断ってしまったのかについて理解するためには、遡る必要があります。」

どれほど遡るのですか?
「1800年代です。オペラの圧倒的な成功が、音楽の他の分野を遠ざけた時代です。優れた音楽産物を生み出した国民・大衆が、しかしながら、オーケストラの質を低下させました。オーケストラを『穴』の中に落としたのです、『オーケストラ・ボックス』というよりは、しばしば『墓穴』とよばれるようなものです。当時から、イタリア音楽はほとんどスポーツに近い演じ物に変わり、それは、天井桟敷の熱狂、歌手達への熱狂的応援を伴っていました。そして、学校では、疲弊するまで Va' pensieroを歌うのがすべてでした。」

若かったリッカルド・ムーティもそれを歌ったのですか?
「もちろんです。けれども、それだけのことで音楽家になれたわけでは決してないでしょう。幸いなことに、父はモルフェッタで医者をしていて、素晴らしいテノールの声を持っていました。彼にとって音楽を知ることは、精神上、必須のものでした。私達5人兄弟すべてにとって、必須とされました。学校では決して教えられなかった音楽を、よそで勉強することが義務付けられていたのです。私は指揮者になりましたが、兄弟達はそうではありません。けれども、父のおかげで私達兄弟はみな、よりすぐれた人間になっています。」

あなたのお父さんのような人を持たない人は?
「1600年代の有名ではない詩人達が誰かを知っていても、モーツァルトを聴くことなく(理解したと言わないまでも)、文科の高等学校を出る懸念があります。」

そして、楽器に触れることも一度もない。
「注意してください。驚くことと思いますが。音楽を愛するためには、演奏できなくてはならないということはないのです。いったいぜんたい、シェークスピアを味わことができるのは、悲劇を書く人だけでしょうか?最近の10代達にとって、音楽の基礎を教えるやり方は、善意と熱意のあるものであったとしても、根本的に間違っていたと考えています。本当のところを語り合いましょう。あの悪名高い横笛は、児童達に激しい苦しみを強制しています。あのきゃんきゃんした聴くに堪えない音は、しばしば学校の窓から聴き漏れてきますが、子供達にとって、音楽を憎むようにさせることで終わっています。その後プロの音楽家になるのではない者達にとって、楽譜を読むことを教えたりするのが必要だとは思いませんし、彼らにとって、お金がかかって無益な技術の訓練をさせたりすることが、必要だとは思いません。」

それでは、何を?
「私がしているように、物語ることです。Lugoにはロッシーニ歌劇場という、いい劇場があります。ケルビーニ管とそこで、モーツァルトの交響曲《ジュピター》のリハーサルを行いました。最高にむつかしい交響曲です。甘い期待を持たせながら始まり、最も純形而上的、抽象的な形で終わります。私は、地域全体を招いて、数時間の公開リハーサルを行うことを選びました。話し、説明し、演奏してみせました。最後には、心からの感謝の気持ちを示す喝采を受けたのです。予期せず壁を飛び越え、音楽の喜びをつかむに至った人達による喝采でした。」

何が説明できるのか、では、わかっているということですね。
「説明というのではありません。導くことはできるでしょう。自分のことを、建築物を描写し、図面を見せ、部屋部屋のドアを開いていく建築家のようだ、と感じています。けれども、そこに住むべきはその訪問者です。」

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Wednesday, 03 June 2009

Il Venerdi 5月29日号

金曜日にレプッブリカ紙と一緒に出ている雑誌の最新号に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っていることは紹介しましたが、レプッブリカ紙のサイトにアップされました。

音楽教育、若者と音楽などについて語っています。

追って紹介します。

Il Venerdi 2009年5月29日号
«E basta sfinire gli scolari costringendoli    a cantare Va’ pensiero...»

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Tuesday, 02 June 2009

別の道を行く

マエストロ・ムーティへのインタビューが、今日のイル・ジョルナーレ紙に載っています。

記事の冒頭には苦笑い。
イタリアのジャーナリストはいずれも、「スカラ座にいつ戻るのか」という質問をマエストロにしていたようです。
マエストロはイタリア人ジャーナリストが近づいてくると、あきらめたかのように両腕をわずかに広げて、さあ、例の質問をどうぞ、という様子を見せていたそうです。

マエストロの答えは、

今は別の道を歩んでいます。

短いインタビューですが、週末に紹介できたら、と思います。

2009年6月2日 Il Giornale
"Tornare alla Scala? Adesso seguo altri percorsi"

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Thursday, 28 May 2009

Il Venerdi

レプッブリカ紙と一緒に金曜日に出る雑誌、Il Venerdiの明日発売号に、マエストロ・ムーティの記事が載ります。

レプッブリカ紙の定期購読サイトでも読めるので、また紹介します。

ザルツブルク音楽祭のサイトで聞けるマエストロのインタビューは、わたしのインターネット環境では一挙に聞くのがむつかしいので、週末にゆっくり聞きます。全く情けなくなります...。

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Tuesday, 05 May 2009

ハイドンについて語る(2)

マエストロ・ムーティがハイドンについて語ったことの、残りの部分を紹介します。

マエストロの《天地創造》は、是非DVD化して、新たにもっと多くの人に味わってもらいたい演奏です。

Walter Dobner
Unser Haydn
2008 Boehlau

Eine der grossen Vaterfiguren

ハイドンは常に重要です。演奏家には様式の知識、イントネーション、エスプリ、精神、教養が必要です。モーツァルトはいつも私達を助けてくれます。彼はまっすぐ私達のところへやってきます。モーツァルトの交響曲はよくない演奏においてでも、多少は授かるものがあります。けれども、ハイドンは、作品の構造が明確に浮き彫りにされていないときは、何も助けてくれません。ケルビーニにおいても全く同じです。彼らの芸術では、音楽は巨大な記念碑、教会を建造するようなものです。一方は古典派のひとりで、もう一方は19世紀新古典主義の時代にも生きていた作曲家のひとりですが、お互い、そっくりなのです。

ブラームスのピアノの部屋には、ベートーベンとバッハ、ケルビーニの胸像がありました。構造の面で卓越していたことが自明な作曲家達に、彼は大きな興味を持っていたのです。演奏家であるばかりでなく、すぐれた音楽教師でもあるような、膨大な知識を持っている作曲家に対して、ブラームスは高い評価をくだしていました。シューマンのハイドンに対する批評姿勢には、食指を動かされません。彼の好みは非常に特別で、説明することができないからです。ベルリオーズは、《幻想交響曲》について多くの同僚の無理解に出くわしました。シューマンは、この作品について影響力のある記事を書いています。彼はこの作品を、総譜によってではなく、リストによるピアノ編曲版で分析しました。そして、みごとなアイデアがちりばめられた、深い思慮に満ちた分析論を書きあげました。シューマンは《幻想交響曲》を、偉大な天才によるすぐれた交響曲だと考察したのです。メンデルスゾーンにとっては、ベルリオーズは少しも重要な作曲家ではありませんでした。

ハイドンがいなかったならば、とりわけ、小さな断片・細胞から巨大な交響曲が生まれるという件に関しては、ベートーベンは確実に別の進展を遂げていたことでしょう。ハイドンの時代の訪れは、マーラーの時代がやってきたときと、あるいは、スクリャービンの時代が熟したときと同じようなものであると、私は確信しています。ハイドンが、音楽の歴史において偉大な父のひとりであることは明白です。

(Dietmar Hollandはハイドンについて、その音は詩的ではなく、思索的、としています)
ハイドンは勢いをもった音楽を作った人です。劇と劇場に関してすぐれた感覚を持っていました。《十字架上のキリストの最後の七つの言葉》といった作品のように素晴らしいアダージョを次々に書き、それらが言葉と完璧な調和をもたらしているような人は、もはや天才に間違いありません。思想と創作は互いに切り離すことなどできないのです。

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ハイドンについて語る(1)

ハイドンについての本にマエストロ・ムーティのインタビューも載っているのを、紹介し忘れていたようです。

マエストロがハイドンについてとても面白いプログラミングをしているのを、常々興味深く思っていました。ウィーン・フィルとの録音の発売が楽しみです(日本でも録音していますから)。

Unser Haydn
Walter Dobner
2008 Boehlau

Eine der grossen Vaterfiguren

何よりもまず、ハイドンは交響曲の父です。彼のオーケストレーションは完璧です。その交響曲構築法は非常に古典的です。ハイドンの和声はモーツァルトよりも大胆です。モーツァルトはあくまでもモーツァルトで、劇的な面を備えたアイデア、演劇的な着想は比類ないものであり、旋律に関する感覚は二人といないものです。ハイドンも旋律に対する感覚には特別なものをもっていましたが、彼は、まず、建築家でした。ベートーベンの前任者を、モーツァルトではなくハイドンとみなすのは、こういう根拠によります。ハイドンは、ひとつの断片から交響曲の全楽章を仕上げました。それは、後にベートーベンが第五交響曲でやってのけたのと同じです。そのことから、ハイドンとケルビーニの間にも大きな類似性が存在します。ケルビーニは交響曲音楽におけるもう一人の建築家です。ハイドンの交響曲は、その精巧さとユーモアにおいて傑出しています。軽いものであれ、重厚なものであれ、作曲には巧みで、絶え間なく斬新なものを提供しました。《天地創造》の冒頭のカオスの描写は、同時代のすべての音楽を保有し、閉じこめたものです。そういうものは、今日の現代音楽に至るまで、誰によっても作曲されていません。

ハイドンの作品の冒頭は、常に音楽的な意思表示です。彼は旋律によって感銘を与えません。この意思表示はリズムをもった細胞でもありえます。そこからやがて全楽章へと発展していくことになります。モーツァルトの場合、すべてが同等で一本の直線です。ハイドンでは確かに主題的な要素も重要ですが、もっと顕著なのは構造です。

ハイドンを、プログラムの最初と終わりにたびたび置いています。いつもプログラムを左右します。ハイドンを食前酒のように用いることはできません。彼は、偉大な巨匠のひとりなのです。古典派の作品を演奏する時、ハイドンですと非常にいい終わり方ができます。うまく演奏すれば、まさに彼の交響曲は何度も聴衆を感動させます。ロマン派の大きな作品をプログラムに置いたときは、もちろん、こうは行きません。その場合、ハイドンが必然的に前へ移動するのです。

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Monday, 04 May 2009

Lezioni-Concerto のDVDを出すにあたって(1)

マエストロ・ムーティがレクチャーコンサートのDVDを出すにあたって、レスプレッソ誌から受けたインタビューを紹介します。
内容はほとんど、これまでにも語っていたようなことです。

ケルビーニ管の演奏を、同じ曲目で聴いたウィーン・フィルの演奏と比べることなど、馬鹿げています。技術の差は厳然としています。
でも、マエストロの演奏の特徴、原型が、ケルビーニ管から明瞭に伝わってきて、とても面白いです。マエストロはオーケストラで指揮する前に、ピアノで楽譜を確かめていますが、そのピアノを聴いているかのような、そんな気持ちにさせられる演奏です。

l'espresso 2009年4月20日
A scuola da Muti 

マエストロ・ムーティ、そもそも、といったことから始めましょう。音楽はどういう役目を持っているのですか。

私達には音楽が必要です。なぜなら、音楽はハーモニーだからです。ハーモニーはすべての創造物の生存の基本です。私は、天体にもハーモニーがあることさえ、確信しています。

ピタゴラスを引用している...

惑星の動きすらも、私達の耳では感知できない響きを作りだしていると思っています。これは感覚的なものであって、科学的な理論ではないのですが、宇宙を縦断し、私達のからだも通過している大量の音が、人間を突き動かして他の人に声を届けさせていた、というふうに想像するのが好きです。さらにまた、どら声のようなものが、次には歌に変わったのです。幸福や悲しみ、恐れ、喜びといった心の状態にふさわしい、歌やメロディーを用いて表現することが、私達それぞれにとって欠かせないものであるようになったのは、もともとは天球のハーモニーの響きから生じたのです。けれども、もっとうまく音楽とハーモニーの必要性を説明するためには、モーツァルトについて語らなければなりません。

なぜですか。

偉大な音楽家はたくさんいます。ブルックナー、マーラー、シューベルト、ベートーベン、シューマン。素晴らしいし、秀でています。けれども、モーツァルトは唯一の存在です。その表現は完璧です。他の人達の表現は、音の響きのこの山によって深手を負ってしまったほどです。

あなたは、音楽が、典礼におけるミサのように、聖なるものと関係していることを話そうとしているのですか?

そうです。ただ、もっと日常的な面もあります。

説明していただけますか。

ええ、でも、モーツァルトについてもっと話させてください。モーツァルトが卓越しているのは、私達の苦悩を語りかけてくれるからです。そして、嫉妬、苦痛、嘘、愛を描いて舞台の上で上演されるのを私達に見せてくれ、そうやって私達が自分達を見ることを可能にしてくれるからです。モーツァルトは、人間に向けて人間が、という優れた手法で語りかけているから、優れているのです。《フィガロの結婚》では、すべてのキャラクターが、私達の社会で生活している登場人物です。

偉大な音楽家はすべてそうしますが...

場合によりけりです。二人の最高に素晴らしい音楽家を例にしましょう。最初はベートーベンです。人間に対して非常に厳格で、その場で指を突きつけています。次はヴェルディです。希望に向かって開かれている天を見て、主がもたらす平和を語っています(でも、あの天の彼方にはもっと素晴らしい世界が見えるだろう)。一方、《トラヴィアータ》では、審判を下すものとして屹立しています。ところが、モーツァルトは、そのようなことは決してしません。私達にこう語っています。私はあなたがたのひとりで、これまで経てきた体験について語ります、と。

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Saturday, 04 April 2009

60の時

マエストロ・ムーティが60歳を迎えるにあたって受けた、インタビュー記事を読みました。

当時、新聞記事やANSAの写真(クリスティナさんと二人で撮ったもの)など、たくさん目にしましたが、そういったものを保存していたパソコンが機能しなくなってしまいました。
新聞は過去記事がWEBで読めるようになったので、再取得して紹介していきたいな、と思っています。

今もとても素敵ですが、その頃マエストロは本当に美しくて、60とはとても思えなかったことが思い出されます。

io donna 2001年7月21日号
formidabili quei sessanta

自省
「私は自分自身に対してとても厳しいです。その日の自分に完璧に満足したことがあったことなど、1日たりとも思い出せません。自分自身にいつも自信を持っている人間だと私は見られていますが、それは誤りです。」

信仰
「私は、多くの人がそうであるように、キリストの聖なる心臓の絵とともに育ちました。現在は、自分のことをカトリック教徒というのかどうか、わかりません。けれども、音楽が私に、次のような確信を与えてくれました。肉体とともには滅びない、ある生命力が存在する、と。」

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Sunday, 22 March 2009

文化の状況への警鐘

マエストロ・ムーティは、常にイタリアの文化状況に警鐘を鳴らし続けています。
マエストロのインタビューを読んでいて、過去聞いたマエストロの言葉の語調やイントネーションが、まるで聞こえてくるかのように思えたほどでした。
作品を研究して演奏するだけではいられないのがマエストロです。

14日のメッサッジェーロ紙のインタビューを紹介します。

2009年3月14日 Il Messaggero
«Cultura, lo Stato volti pagina»

「ローマ歌劇場が非常に難しい状況にあることはよくわかっています。けれども、私は、次のような事実にとても好意的な印象を抱いた、と言わざるをえません。この数日間のリハーサルではピリピリしたところは何も見えませんでしたし、それどころか、そういう様子が現れてこないようにするために、誰もが懸命でした。できる限りの練習を積み、私は非常に満足しています。」リッカルド・ムーティは、来週火曜日(17日)のグルック”Iphigénie en Aulide”初日を見据えて、リハーサルの最終段階にここ数日専念している。新演出によるもので、2002年にアルチンボルディ劇場でのスカラ座シーズン中に、ほとんど同じものが上演された。演出と舞台美術、衣装はYannis Kokkosで、キャストはほとんどがイタリア人ではない。タイトル・ロールはブルガリア人ソプラノKrassimira Stoyanovaである。熱烈なヴェルディ・ファンにとって喜ばしいことには、2011年のシーズンを、マエストロのお得意演目である、ヴェルディ《ナブッコ》で開幕させることも、マエストロは明らかにした。2010年のモーツァルト《イドメネオ》後のことになる。

新聞は、あなたがアレマンノ市長やベルルスコーニ首相に会った夕食会について、書きました。ローマ歌劇場の状況について話しあったのですか。
「いいえ。そのようなことはほとんど適切とは思えない、といってよいでしょう。私は、客演指揮者としてローマ歌劇場にいるのですから。」

ローマ歌劇場においてあなたが果たせるような役割について、話が出たのでしょうか。
「それは私にたずねるべきではありません。政治的なことについては話したくありません。そうではなく、文化について話しましょう。私達は危機と向き合っています。それはイタリアだけでなく、世界中を襲っています。USAでも状況が劇的であるという新聞記事を、今日読みました。そこでは、有名オーケストラがいくつか、閉鎖される危機に瀕しています。」

それで、どのようなことが?
「ケルビーニ管との活動の中で、文化に飢えている世代があることに気づきました。耳を傾けてもらえなかったり、自分達の潜在能力を披露する方法を見つけられないといったようなことが、その世代には非常にしばしばあったのです。」

国家はどのように文化に介入すべきでしょうか。
「文化は『援助を受ける活動』のような意味の姿であってはいけません。国家は、オーケストラや歌劇場、劇場を援助しなければならないだけではないのです。新しくそれらを創設し、浪費にならないよう賢明に運営するようなやり方も、すべきなのです。私達は、イタリアに生まれたことが幸運であり、特権であるということを自覚しなければいけません。これ以上数えることはできないくらいにすさまじい量の宝の中に、どっぷり浸っているのです。このことが国家に対して、文化や学校、テレビに対するそのあり方を変えさせなければいけないはずなのですが。ソウルにいったいいくつのオーケストラがあるのか、知っていますか?18です!」

それで?
「国がこれまでやってきたように、ところどころを繕う、というようなことを続けるのは無益です。そうではなく、とうとう、政治家達がページをめくる決断をする必要ができました。多くの劇場でたくさんの制作がとりやめられました。非常に憂うべきことです。日々続く私の仕事では、私は、情熱と愛情、人々をまきこむような感情を求めています。これらはすべて、そういうものを私がその人達に対して求めているような、そういう人達自身の将来がより確固なものでないならば、達成するのはとてもむつかしいのです!」

グルックのオペラ、”Iphigénie”について話しましょう。
「素晴らしい音楽ですが、とても難しい作品です。私の仕事は、作曲家の意図にできるだけ近い演奏を構築しようと追求することです。《オテロ》で費やされたのよりも、長い時間かかっています。グルックについてはヴェルディのような伝統がないからです。この作品はローマでは50年間上演されていません。グルックの音楽は、長くて終わることのない流れです。このために、ワーグナーはグルックを非常に愛していましたし、この作品のフィナーレを改訂しました。私はそれを使います。」

遂げられていない夢は?
「ケルビーニの《メディア》を指揮することです。非常に偉大で、演奏されることが少なすぎる作曲家です。」

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Monday, 16 March 2009

遂げられていない夢は《メディア》

マエストロ・ムーティのインタビューがローマの新聞に載っています。

その中で、再び、ケルビーニの《メディア》上演の夢を語っています。
理想の歌手を見つけるのはむつかしい、とかなわぬことの理由に触れています。
来年、今、パリに眠っているケルビーニの亡骸が、フィレンツェのSt.Croceに戻されるだろうか、ということに関心を持っているとのこと。そうなった際には、ケルビーニのミサを演奏できればと思う、と語っています。

2009年3月16日 Il Tempo
Le verità di Muti

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Saturday, 07 March 2009

自分に厳しい人(2)

マエストロ・ムーティが、2月にナポリ・サン・カルロ歌劇場に登場した際のインタビューの続きを紹介します。

先週あたりから、駅構内にスカラ座来日公演のポスターが貼られ、毎朝見ながらオフィスに向かっています。来日公演はもう関係ないんだなあ、と淋しく思います。
でも、マエストロが、自分のスカラ座時代を誇りに思う一方で、イタリアの歌劇場をランク付けし、援助に差をつけようとしている施策に疑問を呈し、南イタリアに誇りを抱いている姿に深い感銘を受けています。
祖国のため、南イタリアのために献身するマエストロは、本当に素晴らしいし、尊敬の気持ちが深まるばかりです。

ナポリの舞台でチームのスカーフを巻いていた写真は、わたしの宝物のひとつになりました。サインをいただけたら幸せなのですが、いつのことになるやら...。

2009年2月7日 il Mattino
Muti: Grazie al San Carlo mi riconciliato con Napoli

そして、今は?「非常にいい仕事ができました。雰囲気は非常に穏やかで、好意的だったと言っていいでしょう。オーケストラは素晴らしく、とても積極的で、卓越した音楽性もあり、そういったことを発見できて嬉しく思いました。全くめったにないことです。」

演奏するのが非常にむつかしいプログラムを選びました。「《ジュピター》はすべての有名オーケストラが得意としている作品のひとつで、モーツァルトの最高のものです。Jommelliの“Veni creator spiritus” では全く別のスタイルが求められます。 さらに、偉大なヴェルディによる二つの宗教曲、“Stabat Mater” と “Te Deum”は、また違ったスタイルを必要としています。この二つの宗教曲をうまく演奏するには、ヴェルディのレパートリーについて深く知っていなければならないだけでなく、頂点に達していた頃のヴェルディのこういった宗教曲に典型的なものを知っていることが必要で、とりわけ合唱については非常にむつかしいところがあります。」

つまり、これまでは期待もしていなかったもの、ということですか?「このオーケストラが最近非常に変わったと知っていたとしても、おそらく、そこまでではなかったでしょう。けれども、リハーサルの成果とは別に、この経験は、音楽家として、そして、ナポリ生まれとして、私に非常に大きな満足を与えてくれました。というのは、ここでもう一度、祖国の文化のため、とりわけ、音楽とオペラの礎となるような、かなりの歴史を持っている南イタリアのために、身を粉にすることができたからです。」

サン・カルロ歌劇場のこれからに、何を望みますか。「サン・カルロ歌劇場は世界でいちばん美しい歌劇場です。そして、今、さらにもっと輝いています。私は、この歌劇場の精神を代表する人達、つまり、オーケストラ、合唱団、技術者達に対して、歌劇場再開を、ナポリだけでなくイタリア全体に輝きを与えたこの劇場の、栄光の未来への出発の時だと考えるよう、望みます。この意味で、国家の元首が姿を見せたことは深い意義を持っています。というのは、文化の活力が強化されていることを証明し、承認することになるからです。」

あなたとの次の共演を望むのはもっともだといえる劇場サイドですが、たぶん、もっと持続的なものになりそうですか?「検討しています。大切なのは、中央組織の関心を獲得することです。南イタリアがこのように力強さを持っているというこの事実は、イタリアを牽引するものです。評判の高い卓越したものはここにも存在します。イタリアの劇場の間にクラス分けを考える立場は、適切なものではありません。ナポリは、ローマのように、世界に向かって我々の国から輝きを放ちうるのにふさわしい状態にある、というのが現実です。ナポリやローマの劇場を他よりも重要ではないと考えたり、見捨てたりするのは罪だと言えるでしょう。」

(この記事に続きはありません)

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Sunday, 22 February 2009

自分に厳しい人(1)

マエストロ・ムーティはナポリ、サン・カルロ歌劇場へ登場するにあたって、いくつものインタビューに応じていました。
紹介が遅れていて申しわけありません。

サン・カルロ歌劇場のリハーサルで若者達に語りかけた言葉にもあるように、そして、これまでにも幾度となくマエストロが語っているように、マエストロは自分にとても厳しい人です。特に、音楽面では常に自省し、すべてを音楽に注いでいます。
真に尊敬に値いする人とは、マエストロのことです。

バイオリンについては、バーリの守護神ニコラウスの日、12月6日のプレゼントだと、別のインタビューで語っています。

2009年2月7日 Il Mattino
Muti: Grazie al San Carlo mi riconciliato con Napoli

「私の中で、ナポリとその歌劇場に対する信頼感が戻りました。」リッカルド・ムーティは疲れていたが、満足していた。とても熱心に3日間のリハーサルを行った後、マエストロはやっと休息をとり、サン・カルロ歌劇場での体験を熱い気持ちで語った。「母も満足しているでしょう。」ほほえみながら、考えを述べた。「母は、私達息子5人とナポリのつながりに非常にこだわっていました。」ジルダさんがどれほどこだわっていたかというと、大きくなったおなかを抱え、ヴェズーヴィオ山の元、自分の家で息子達が生まれるようにするために、モルフェッタを旅立っていたくらいだった。その家はChiaiaのCavallerizza通りにあり、小さな中庭には «Durante Deo Domus»というプレートが掲げられていた。出発後数週間して、愛情をこめて柔らかくおくるみで包まれたものと一緒に、彼女は自分でプーリアに戻ってきた。彼女達の生活は、市営の診療所の医師で、音楽をとても愛している父ドメニコによって導かれている家族の中で、プーリアで続いていくからだった。小さなリッカルドにバイオリンを贈ったのは父だった。将来の指揮者はそのとき6歳で、挑戦が始まったのだった。けれども、ナポリは、若きムーティが17歳になって戻り、寄宿学校Vittorio Emanueleと音楽院San Pietro a Majellaで勉強することになって以来、常に、特に文化面で原点となる地だった。
そうですか、マエストロ?「確かに、私の勉強は、バーリ音楽院でニーノ・ロータの元、始まりました。そして、ミラノでヴォットーの元でも続けました。この町を表面的に知っている人達にとっては奇妙に思えるでしょうが、私は、自分の人生のすべてにおいて常に共にある、厳格さというものをナポリで学びました。」
そうやって続けた勉強があなたに残したものは、他に何がありますか。「音楽は犠牲、献身であり、終わることのない苦しみだということを理解しました。楽譜の意図していることについて、うまく表現できなかったと常に感じています。」
1984年の宿命的な《マクベス》の後、サン・カルロ歌劇場のオーケストラとはもうたくさんだ、とあなたに言わせてしまったという躊躇がありました。「このときのことについては、非常に悪い記憶が残っています。今でも、確かな結果をえようと奮闘して1ヶ月間過したことを、屈辱的に思っています。敬意や共同を求めることが非常にむつかしいということに直面しました。時々、ナポリ生まれの人達は、なすがままに破滅的になっていくある種の態度に対して、寛容になるなのです。」

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Sunday, 15 February 2009

リヒテルの想い出

l'uomo vogue誌2009年1月号には、マエストロ・ムーティの素敵な写真とともに、リヒテルをめぐるマエストロの貴重な想い出が載っています。

その前に、お母さんについてこんなことを語っているマエストロを紹介します。優しい母、というよりは厳しい母であったらしいことは、これまでのマエストロのインタビューからも感じられます。でも、溢れるような愛情が、その厳しさの下には隠されていたに違いありません。
「当時、母はよく、自分の愛情表現を律し、調整していたものでした。子供達がぐっすり眠っているのを確かめてから、おやすみのキスをするのを常としていました。」

リヒテルについてのこの話は、はじめて語ったものだそうです。

1967年、ジェノアのカルロ・フェリーチェ歌劇場でのことです。私はラベルの《左手のためのピアノ協奏曲》を振り、共演者は比類なきロシアのピアニスト、リヒテルでした。彼は1997年に亡くなりました。20世紀の伝説的ピアニストでした。本番の最中、短い間ですが、リヒテルは記憶を喪失し、魔の時間に入り込みました。私はプロとしてのキャリアをまさに始めたばかりの頃でしたが、そうはいっても、何とかオーケストラをまとめあげました。幸いなことにミスは気づかれず、聴衆からは温かな反応を得ました。翌朝、フィレンツェ行きの列車に乗るため、私達は一緒に駅に向かいました。リヒテルは私に、ラベルのスコアを貸してもらえないか、と言ってきました。注意深くスコアを読み通し、そして、演奏をミスしてしまった箇所に自分の署名をしました。彼は私にこう言ったのです。こうしたのは、あなたがこの作品にチェレンジしなければならないたびに、私がまさにここでミスしたということをあなたに思い出させるためです、と。リヒテルは誰もが知っている芸術家であるだけでなく、人間としても偉大な人だったのです。私はこのスコアを、最も大切なもののひとつとして、いまだに持っています。本当の意味で偉大になるためには謙虚であれ、と鼓舞してくれるものとして、大切にしているのです。私は、記憶を永遠に留めようと、リヒテルのサインのそばにこのエピソードを書きとめました。

l'uomo vogue 2009年1月号
Today's Icons
Riccardo Muti

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Friday, 23 January 2009

ナポリ・サン・カルロ歌劇場の想い出

今日のIl Mattino紙が、2月にナポリのサン・カルロ歌劇場でコンサートを開く、マエストロ・ムーティのインタビューを載せています。
ナポリで過した頃のことを語っています。

マエストロは学生の頃、なんと、記者証でサン・カルロ歌劇場に入っていたのだそうです。
師Vitaleの代わりに、評を何ヶ月か書いていたとのこと。Il Quotidiano紙のその評(R.M.という署名入り)の写真が、今日のIl Mattino紙に掲載されています。
そのようなことでもなければ、観られなかったようなたくさんの上演の想い出がある、18歳にもなっていなかった自分にとっては、サン・カルロ歌劇場に頻繁に行くようなことは許されなかった、と語っています。
マエストロが評を書いたのは、当時聴くことがむつかしかったワーグナーがたっぷり、《仮面舞踏会》、バスティアニーニとゼアーニが歌い(非常に興味深かったとのこと)、指揮がプラデッリのマスネの《タイス》、、そして、デル・モナコによる《オテロ》。

はじめてサン・カルロ歌劇場を訪れたのは、モルフェッタから移ってきたばかりの頃、1957年だと思うが、家族と一緒に。

はじめてサン・カルロ歌劇場の指揮をしたのは1968年で、カンテッリ・コンクールに優勝したころで、プログラムはリヒャルト・シュトラウスの《イタリアより》。

50年前のことを想い出しているマエストロなんて、なんだか信じられません!

2009年1月23日 Il Mattino
Io, al San Carlo come giornalista

短期間ですが、紙面の写真が観られます。
http://sfoglia.ilmattino.it/mattino/page_view.php?pbk=1&Date=20090123&Edition=NAZIONALE&Section=NAZIONALE&Number=23&vis=

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Thursday, 22 January 2009

マエストロのインタビューを聞く

Andrew Patnerが、14日にシカゴ響の音楽監督室でマエストロ・ムーティにインタビューした内容を、とても興味深く聞きました。

シカゴの天候について(非常に悪かったのだとか。でも、マエストロは白と氷の世界を楽しんでいるそうです。確かに、コルティナも一面雪の世界ですから)、ヴェルディのレクイエムについて、ニューヨーク・フィルの来シーズンのプログラムにあるオネゲル、ヒンデミットについて、を語っています。

レクイエムについては、マエストロがここ数年間に新聞や本で語っていることとほとんど同じですが、ひとつ、感慨深かったのが、マエストロの年齢と演奏内容の関わりでした。
はじめて演奏したのは1970年代はじめで、今は、その頃の倍の年齢になり、あの頃は自分の前にあった人生が、今は、自分の背後にあり、人生の終わりが見えていて、あの頃が春のトーンだとすれば、今は秋のトーン、とのこと。
その間の人生の積み重ねが、レクイエムの演奏を当時とは違ったものに変えている、とは、様々な想いにとらわれれてしまうマエストロの言葉でした。

もちろん、マエストロによれば、いろいろな作曲家の宗教曲を演奏し、ヴェルディの主要作品を演奏している(ヴェルディのオペラについては、自分が世界で最も多くの数を演奏している、とここでも言っています)ことも、変化をもたらしている理由、とのことですが。

ただ、ヴェルディを演奏する基本的姿勢はトスカニーニ、ヴォットーのラインだと、このインタビューでも語っています。

オネゲルの時代背景が、今の状況に似ている、その頃と同じく、多くの痛まししい状況が現在ある、として、新大統領の誕生がそういう情勢を少しでも好転させるように、とマエストロは願いと希望を述べています。

マエストロの穏やかな口調と、筋の通ったわかりやすい内容に、遅く帰宅した疲れが優しく癒される思いでした。

週末にまたゆっくり聞ければ、と思います。

WFMT Critical Thinking
01-19-09: Riccardo Muti (Conductor)
http://feeds.feedburner.com/critical_thinking

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Tuesday, 20 January 2009

ラジオ・インタビュー

文明の利器には縁がないので、聞けないのが残念です。
Andrew Patnerがマエストロ・ムーティにインタビューをしたものがラジオで放送され、また、ストリーミングでも聞けるそうです。

2009年1月19日 Andrew Patner:The View from Here
My (radio) guest tonight -- Riccardo Muti
http://viewfromhere.typepad.com/the_view_from_here/2009/01/my-radio-guest-tonight-riccardo-muti.html

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Sunday, 18 January 2009

文化の出会い、融合

マエストロ・ムーティのシカゴでの成功を今日のIl Giornale紙も報じています。
同紙が書いているマエストロのコメントを読み、マエストロの素晴らしさをあらためて思いました。
そして、クロスロードにおけるマエストロの選択・決断の見事さを!

マエストロの演奏には、たびたび、文化の素晴らしい出会い、融合が感じられます。
イタリア文化とオーストリア文化、クリスチャンの文化とアラブの文化、南イタリアの文化と北イタリアの文化、そして長い歴史を持つヨーロッパ文化と新世界アメリカ大陸USAの文化...。

夢と希望に満ちた街になっているシカゴ、様々なヨーロッパ人コミュニティのあるシカゴで、マエストロはヨーロッパ人として演奏する中で、新世界の文化とヨーロッパ文化との出会いとともに、新世界の源であるヨーロッパ文化への追憶をももたらし、それが、新大統領誕生の時と重なったことで、特別な意味まで帯びることになった様子が、マエストロのイタリアの新聞におけるインタビューからうかがわれます。

«Quando la grande musica incontra la storia...» «Un onore, ma insieme a speranza che io possa portare un po’ d’Europa, come incontro di civiltà e anche come memoria d’una radice».

2009年1月18日 Il Giornale
Muti a Chicago Un grande trionfo tra musica e storia

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Saturday, 17 January 2009

シカゴ響とのツアーはイタリアへも?

今日のCorsera紙も、シカゴ響とのヴェルディ レクイエム公演が大成功を収めている、マエストロ・ムーティへのインタビューを載せています。
Chicago Tribune紙の記事を引用しながら、マエストロへの電話インタビューを記事にしています。
舞台写真もマエストロとフリットリ、ボロディナの演奏姿が観られます(2人のAgnus Deiは、想像しただけで心が祈りの気持ちでいっぱいになります)。

レプッブリカ紙でも語っていたのですが、オバマ次期大統領に近い筋からマエストロが聞いたところでは、USAではじめて文化長官を置く構想があるらしい、とのこと。ヨーロッパとは違って、文化が民間の支援で成り立っているUSAでは画期的なアイデアだと、マエストロは言っています。

また、インタビューでは、2010年からのシカゴ響音楽監督の職務の中には、3週間を超えるツアーもあり、イタリアにも行くだろう、と語っています。

シカゴ響の後、ニューヨーク・フィルとの公演がありますが、ニューヨーク・フィルの音楽監督にならなかった理由を問われて、同フィルとの関係は素晴らしいものである、と応じています。

マエストロへの祝福カードにも書いたのですけれども、シカゴは次期大統領ゆかりの市であり、マエストロが次期音楽監督を務めるオーケストラがある街であり、今や、二人が、全米、世界中に向かって、夢と希望を発信する素晴らしい街です(わたしは、もちろん、オバマというよりはヒラリー・クリントンの仕事ぶりのほうに、大いに関心があるのですが)。

マエストロも、今のシカゴが希望に満ちていることを語り、Gramophone誌でシカゴ響がUSAで最高のオーケストラに選ばれたことにも触れ、シカゴ響は自分達がUSAの希望の象徴、大使であるよう望んでいる、このようなシカゴは、プリマヴェーラのようだ(つまり、ルネッサンスのフィレンツェ)とまで言っています。

2009年1月17日 Corriere della Sera
«In Usa vince la cultura, noi la perdiamo»

久しぶりにUSAにマエストロを聴きに行こうか、とまたまた思ってしまいました。
ただ、ニューヨークでコンサートを聴く際にいつも使っていたホテルはもうなくなってしまいましたし、USエアがハドソン川に不時着するし(ずいぶん前、フィラデルフィアへ行く直前にUSエアが同じようにハドソン川に墜落して、怖い思いをしたことが思い出されます)、ホールは大きすぎるし...。

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シカゴの熱烈な喝采

今日のレプッブリカ紙が、シカゴでの終演後間もないマエストロ・ムーティにインタビューした記事を載せています。

外はマイナス20度、だけれども、熱い時間だった、とヴェルディ レクイエムの公演について話しています。

マエストロが語るには、指揮台に昇るや否や、もう喝采を受け、演奏の最後の音が消え、しばらくの静寂の後、すべての聴衆が立ち上がり、長く長く拍手喝采し続けたとのことです。

また、オーケストラについては、並はずれている、テクニック面では、たぶん、世界最高だ、と語っています。

大成功、おめでとうございます、マエストロ!

2009年1月17日 la Repubblica
"Io, nella città di Obama sul podio dell´orchestra migliore del mondo"

2009年1月18日7時4分追記
新聞のPDF版がやっと見られました。
マエストロが聴衆から喝采を受けている大きな写真が載っています。
喝采を受けるマエストロの表情は、どの公演でも静かで、本当に素敵です。

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Monday, 05 January 2009

空虚な言葉

4日のイル・ジョルナーレ紙にスカラ座総裁Lissnerのインタビューが載っていて、ああ、またか、という発言をしていました。スカラ座に戻ってくるよう、マエストロ・ムーティに(これからも)頼んでいくつもりだ、というもので、彼が必ず口にする言葉です。
依頼がなされているのか、そして結果がどうなっているのか、あまり報じられていなくて、何が障壁なのだろうか、と思っていました。特に、マエストロが最近ミラノを訪れた際に、もしかしたら、とも淡い期待を抱いていましたが、何もなかったようでした。

そして、今日の同紙が、接触を受けたことはない、という答えをマエストロから引き出しています。やはり、そうだったのか、と溜息をついてしまいました。シニカルな口調だったのが、それとも、厳しい口調だったのか、いずれにせよ、マエストロの毅然とした、まっすぐな人となりがよく出ています。スカラ座総裁の発言にはうんざりだ、と言っています。行動を伴わない空疎な言葉だからでしょう。

スカラ座総裁の発言は次のとおりです。

「ムーティはいまだにスカラ座のオーケストラのことで心を悩ませています。私はどこへでも出かけて行って、彼にスカラ座への復帰を依頼できたら、と思っていますし、彼がそのように復帰してくれることを誇りに思っていると言っていいでしょう。」

マエストロは、ザルツブルク音楽祭で《オテロ》を振ったときのことを語っています。
同音楽祭芸術監督であるFlimmがマエストロへ話したことには、Flimmはスカラ座総裁に、どうしてマエストロに会わないのか、会えばいいではないか、とたずねたそうです。
そして、マエストロによれば、スカラ座総裁はマエストロの楽屋に来なかった、とのこと。

マエストロが、自分は北極にいるわけではない、それほど遠いところにいるのではなく、ピアチェンツァでケルビーニ管を振っている機会がしばしばある、と言っていることには、十分道理があります。
先日は、ローマ歌劇場での上演準備がありながら、ミラノも訪れていました。
むつかしいことじゃない、電話してくるだけでも十分なのに、というマエストロの言葉がすべてと言っていいのかもしれません。

マエストロがスカラ座に戻る状況がいつかできあがることを、心から祈っています。

2009年1月4日 Il Giornale
«Sarei fiero di far tornare Muti»

2009年1月5日 Il Giornale
"Lissner mi rivuole alla Scala? Poteva farmi una telefonata"

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Friday, 05 December 2008

ローマ歌劇場の配慮

昨日のイル・ジョルナーレ紙もマエストロ・ムーティのインタビューを載せています。

面白いエピソードがインタビュアーによって語られています。
先日の日曜日のリハーサルの際、焼きたてのパンを手にしてリハーサルにやってきた人を、劇場側が入口で引きとめた、というのです。マエストロのリハーサルは非常に集中力の感じられるもので、マエストロの妨げになってはいけないから、というのが理由だったとか。

また、インタビュアーは、チャールズ皇太子の60歳記念コンサートについてもたずねています。
マエストロによれば、エリザベス女王のことを非常に尊敬しているし、女王も自分にナイトの称号を授けてくれた、1年前に予定していた当初のプログラムは1時間半ほどのもので、チェロを弾く皇太子に敬意を表して、チェロが抜きんでている作品を選んだ、とのこと。

さらに、シカゴについて質問されています。
マエストロは、音楽について素晴らしい市民文化を持った街だと語り、オバマ次期大統領の娘が、選挙の後、シカゴ響の若者のためのコンサートへ、通常通り足を運んだという記事を嬉しく読んだ、と語っています。

実は、マエストロは、イタリア各紙のインタビューで、イタリアの音楽文化状況や若者達のおかれている文化環境について語っていて、シカゴについての話も、そういう論点の中でとらえていいもののように思われます。
各紙のインタビューのその部分はマエストロの積年のテーマであり、また、後で紹介します。

2008年12月4日 Il Giornale
Il derby di Verdi

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Wednesday, 03 December 2008

ローマ歌劇場への賛辞

2日のレプッブリカ紙に、大きな写真とともにマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。
その中で、ローマ歌劇場を称賛し、リハーサルの間、ここ、幸福の島で暮らしている、雰囲気はとても素晴らしく、規律がとれ、注意力が感じられ、前向きな参加意欲がある、このオーケストラには文化と持って生まれた素質がある、と言葉を極めています。

島といっても、(イタリアの人気番組)isola di famosi (の無人島)ではないけれども、と、笑いをとっているようですが...。

週末にゆっくり紹介します。

2008年12月2日 la Repubblica 
"La cultura in Italia va difesa tutta sbagliato innaffiare solo pochi fiori"

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Wednesday, 22 October 2008

シカゴ響と来日する可能性もある

昨日の讀賣新聞夕刊に載った、マエストロ・ムーティの記事を紹介します。

2008年10月21日 讀賣新聞夕刊
ウィーン国立歌劇場 ムーティがモーツァルト・オペラ指揮 喜劇の要素優雅に

「モーツァルトのオペラではレチタティーボ(朗唱)の部分が非常に重要。アリアは美しく聴衆の魂を満たすが、物語の勢いが止まる。ドラマが進行するのはレチタティーボです。モーツァルト自身がイタリア語を流暢(りゅうちょう)に話せたこともあり、喜劇の要素が優雅にさりげなく、すべてレチタティーボの中に盛り込まれている。レチタティーボが大地、アリアは天のようなもの」

ミラノ・スカラ座の監督を辞めてフリーになっていたが、2010年から5年間の契約で、米シカゴ交響楽団の音楽監督に決まった。「彼らと演奏旅行を経験し、楽団のメンバーからラブコールを受けたので大役を引き受けた。世界ツアーもあるので、今度はシカゴ響とともに日本にくる可能性もあるでしょう」

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Thursday, 09 October 2008

イタリアに比べて海外では...

今日のCorsera紙にもマエストロ・ムーティのインタビュー記事が載っています。

マエストロは11月にフィルハーモニア管とチャールズ皇太子の60歳を祝うコンサートを開きますが、それに関連して、チャールズ皇太子はチェロを弾く、日本の皇太子はビオラを弾き、ウィーン・フィルのメンバーとカルテットを組む、王室の後継者達が演奏活動をしていること、これが海外における音楽についてのすべてを物語っている、と、イタリアにおける状況との比較を述べています。

2008年10月9日 Corriere della Sera
Muti: «Musica in crisi? Non quando c'è cultura e si punta sui giovani»
Il maestro: all'estero il pubblico è più rispettato

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Wednesday, 08 October 2008

新生ケルビーニ管への称賛

今日のレプッブリカ紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

ケルビーニ管は大幅にメンバーが入れ替わり、9日のピサ公演でデビューしますが、マエストロによれば、レベルの高さは驚異的だとのこと。

インタビューは追って紹介します。

2008年10月8日 la Repubblica
Muti, la bella musica come educazione

今年のラベンナ音楽祭で、マエストロのスカラ座時代の秘書の方がロシア語に堪能なことを披露していて、感嘆しました。
でも、リヒテルと関わりのあった人だと教えてくれた方がいて、納得しました。リヒテルについて書かれた本を読みなおしてみたら、確かに、彼女の活動の様子が書かれていて、その名前からして、どうして今まで結びつかなかったのだろう、と思いました。
来日公演やニューイヤーコンサートでは、わたしのような者にも親しく声をかけてくれましたが、特に、マエストロとウィーン・フィルのスカラ座公演では、休憩時間にホテルへ戻ろうとしたところを呼び止められ、マエストロのスカラ座さよなら公演であることの感慨などから、思わず、涙が出そうになったことが想い出されます。
情報をくださった方、ありがとうございました。

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Tuesday, 30 September 2008

自分は独裁者ではない

マエストロ・ムーティはジュネーブでウィーン・フィルと演奏会(WHO創設60周年記念)を行っていますが、記者達に語ったことがAP通信で報じられています。

マエストロはシカゴでは刑務所にも赴く、と言っていましたが、オーケストラをひきつれていくのではなく、おそらく、歌手とともに訪れて、自分がピアノを弾く、というようなことになるだろう、というアイデアも披露しています。

また、これまでにも語られてきている、音楽とは何か、音楽家の役割とは何か、についても語っています。
以下、抜粋ながら、紹介します。

「私は世界中で『独裁者』だという評判をとってきました。けれども、そうではありません。仕事を始める時には、『ボンジョルノ、さあ、始めましょう。』と言うからです。」

彼の音楽家達との接し方は直截的なスタイルで、ただイエスかノーかをすぐに求める方法なのだが、彼が言うには、それは、長々と丁寧に答えることに慣れた人々の気持ちを波立たせたかもしれない、とのことだった。

「交響曲は民主主義です。人々が様々なパートを奏でるからです。どのパートも独自性をもたなければなりません。けれども、他のパートの独立性を侵すことなく、自分達のパートを表現する必要があります。そうでなければ、民主主義は死んでしまいます。これが、音楽の概念です。」

「音楽は精神を向上させます。また、我々がみな同じ心を持ち、人間としてそこ(訳注:紛争や争いの起きている地)に暮らしていく権利を、あらゆる人達が持っていることを見せてくれます。それが私達音楽家の役割です。」

2008年9月29日 AP
New Chicago music director says he's not dictator

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Monday, 22 September 2008

日本との深いつながり

池田卓夫さんによるマエストロ・ムーティへのインタビュー(8月16日午後)を、興味深く読みました。

ほぼどこかで読んだことのある内容だったとはいえ、日本人のジャーナリストが、ここまできちんとしたインタビューをマエストロのザルツブルク邸(マエストロにとって仕事の前線基地でもあります)で行ったことには、とても大きな意義があります。
マエストロが記事の発表を気にかけていただけのことのある内容でした。
池田さん、ありがとうございます。

内容で嬉しかったのが、池田さんが冗談まじりで指摘していた、日本との絆の強さでした。
わたしの記憶するところでは、マエストロは日本では長い間人気がそれほどなく、低く評価されてきていたのですが、初来日から33年たち、気づいてみれば、今や、日本にも熱烈なファン群が存在する、偉大な存在になっていました。
イタリアのサッカーチームやスカラ座が来日すると、イタリア語通訳ボランティアに女性が殺到するとは有名な話ですが、そういう表面的な人気が少しはあるにしても、その音楽の美しさが理解されているようなのは、ファンとして大きな喜びです。

インタビュー中のシカゴ響についての言及に、楽しみが増えました。

音楽の友 2008年10月号
リッカルド・ムーティを自邸に訪ねて

「米国のオーケストラは巨大な音響の面ばかり指摘され、シカゴ響もそうした見方に囲まれていますが、実際には繊細な音も出せるのです。」

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Sunday, 21 September 2008

スカラ座でワーグナーを振っていた頃

マエストロ・ムーティが1988年にワーグナー《さまよえるオランダ人》をスカラ座で上演するにあたって、レプッブリカ紙がその差し込み雑誌に、マエストロのインタビューとたくさんの写真を掲載しています。

20年前のマエストロは今よりもさらにアポロンのように美しく、ご家族そろっての写真も、来日中のお姿を見かけた二人の息子さんの写真も、現在同様、まぶしいほどに輝いていて素敵です。

マエストロの《さまよえるオランダ人》については、フィラデルフィア管でのコンサート形式、スカラ座での上演の両方とも、プライベート録音を持っていますが、いつか、また上演して映像化してほしい、と思います。

マエストロがバイロイト音楽祭からの出演要請を断った話はとても有名です。
このインタビューでもマエストロがそのことを語っています。

まず、1974-75シーズンに《ローエングリン》を指揮してほしいと、Wolfgang Wagnerがマエストロをバイロイト音楽祭に招聘し、マエストロは断っています。
2年後に再度彼はフィレンツェを訪れ、マエストロに向かってバイロイト音楽祭に出演したらどうか、と主張し、マエストロは再び断っています。

なぜか、とインタビュアーにたずねられ、説明するのは簡単ではない、時間が必要だという自分の内心の声があり、それを聞いたから、と答えています。

その後に続けて、作品の勉強の仕方を語っています。しばらくの間、ピアノの上に楽譜をおいておいて、時が熟してくるのを待っている、というマエストロ独特のあの方法です。
ワーグナーの上演について内心の声に従った、ということと相通じるものがあります。

赤いセーター姿のマエストロの、リハーサル中の写真も多数載っています。
マエストロの働きぶりは有名ですが、ここでも、1日のうち14時間スカラ座にいてリハーサルをしている姿が紹介されています。

Il Venerdi 1988年3月18日号
Wagner, la Scala e io

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Saturday, 20 September 2008

北海道新聞に語ったマエストロ

ウィーン・フィルとキタラで公演するマエストロ・ムーティのインタビュー記事が、北海道新聞に載りました。
ミューザ川崎で14日にとられたインタビューです。

特に、若い音楽家達へのメッセージには感銘を受けました。自分が音楽家でないことを、またもや残念に思いました。

音楽を通じて人々が幸せになる、という言葉はとても素敵です。

--若手を育てることにとても熱心ですね。  

「若い音楽家には演奏技術だけでなく、真のプロとしての心構えを伝えたい。音楽家とは伝道師です。音楽を通じて人々が幸せになり、一つになることができるという事実を広めてほしい。自分だけの音楽ではなく、若い演奏家やファンを育てる音楽家であってほしいと思います」

2008年9月18日 北海道新聞夕刊
リッカルド・ムーティ*札幌再訪 新たな喜びを*ウィーン・フィル指揮*22日キタラで公演

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Friday, 19 September 2008

音楽の友誌インタビュー

マエストロ・ムーティが気にかけていたインタビュー記事が、音友誌最新号に載りました。

今夜が特別客だけのコンサートであるのが残念です。
とりあえず、ラッピングをしてメッセージカードをつけ、マエストロへお願いします、と預けてきました。
インタビュアーの池田さんや音友誌サイドから、もう受け取っていることと思いますが、プレゼントの山に埋もれてもいいから、マエストロへ、というファンの気持ちです。

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Saturday, 30 August 2008

指揮者と年齢

一昨日、ブーレーズのインタビューを読み、彼への尊敬の念をますます強めました。
83歳になるブーレーズは、ルツェルン音楽祭アカデミーで指揮者のマスタークラスを指導していますが、その様子とインタビューがガーディアン紙に載ったのです。

彼と一時代を築いた作曲家達Stockhausen、Berio、Ligeti、Nono、Bernd Alois Zimmermann は皆世を去ってしまい、12月に100歳を祝うエリオット・カーターの存在には勇気づけられると、ブーレーズは笑っています。
また、自分は、非常に友好的で温厚な人間であるらしいと音楽ビジネスの世界では知られているけれども、その外では、孤独を愛する生活をしていて、それは、仕事に集中していれば、社交的な生活は存在しないからだ、と語っています。仕事中心の生活を選んだのであり、仕事がなければ何をしていいのかわからない、と言っています。

彼の指揮ぶりが、冷静で分析的、ジェスチャーは小さく、手旗信号のようだと、しばしば特徴づけられてきたことについて、マスタークラスを見学したクリティックは、それ以上のものがある、と書いています。
ブーレーズ自身は、自分の指揮は見栄えのする、見ごたえのある派手なものではないが、たくさんのことをしている、動きは小さなものかもしれないが、指示を必要としているプレーヤー達に的確に伝わっていくものであり、コンサートでは感情の盛り上がりがあるためにもっと力強さが加わる、と語っています。
指揮者は音楽を伝えるにあたって、自分の意思を強くうえつける必要がある、でも、それはハンマーを使って力づくでということではなく、自分の見解について人々を説得できるような形でしなければならない、と言っています。

そして、今秋、ウィーンとニューヨークでマーラーの交響曲を演奏する期待に目を輝かせながらも、心は、この狂気じみた世界から遠く離れたバーデン・バーデンに構えた居に飛んでいると、記事は結ばれています。

2008年8月28日 The Guardian
'You just have to impose your will'

まるで、マエストロ・ムーティが語っているかのようなインタビューでした。

今日のスタンパ紙のインタビューでマエストロは、指揮者になったといえるのは60歳からだ、とウィーン・フィルのメンバー達が語っていたことがある、と話しています。

ブーレーズは上記インタビューで、指揮者は楽器を演奏するよりもむつかしい、文化や楽譜を深く知らなければならないし、人々が聴きたいものを企画しなければならない、一方では、楽譜を深く研究していても、それをうまくオーケストラに伝えられない指揮者がいるし、他方では、伝える術は備えていても、伝えるべきものがない指揮者もいる、楽譜に十分入り込んでいないからだ、と指揮者のむつかしさを語っています。

マエストロ・ムーティもスタンパ紙のインタビューで、指揮者が老齢でなければできないものだとは言わないが、その作品を演奏するにふさわしい成熟や深い研究が忘れられていないか、と成功を急ぎすぎる若い指揮者に警鐘を鳴らしています。

2008年8月30日 La Stampa
Riccardo Muti: "Troppi atleti oggi sul podio"

ムック本でウィーン・フィルのコンサート・マスター達が、若い指揮者の底の浅さを厳しく指摘していたことが思い出されました。

ウィーン・フィル ベルリン・フィル 
最新パーフェクト・ガイド
ONTOMO MOOK

コンサート・マスターは語る

ライナー・キュッヒル
―華々しく売り出した若手指揮者がだんだんつまならくなる例がありますね。
K それは経験が不足したままデビューしたり、下積みの時代なしにデビューするからです。手持ちの数曲を使い果たすと新しく与えられた課題について十分な研究や経験がないまま指揮台に上るので、そういう若い指揮者はだんだんぼろが出てくるというわけです。

ライナー・ホーネック
H (略)現在の若い世代の指揮者は登場した時は騒がれますが、数曲のストックしかありません。そこで何度かやっているうちに経験不足が出てきて、回を重ねるごとにだんだんレヴェルが落ちた演奏になるわけです。

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Friday, 29 August 2008

長老マエストロ!

ザルツブルクのマエストロ・ムーティの様子を日経が短く報じています。

忙しくて記事の紹介が遅れ気味ですが、来日公演には行けるようにしたいです。

2008年8月24日 日経朝刊
指揮者リッカルド・ムーティ氏――「ザルツブルク」盛り上げる

「当時はカラヤン、ベーム、リヒテルら巨人を仰ぎ見た若者が今やウィーン・フィル楽員の定年(六十五歳)も超え、最年長格になった」と笑う。協力関係は四十年近くに及ぶが「愛情は深まる一方。楽員からは『昔ながらのウィーン・フィルの響きを引き出せる最後の指揮者の一人』と言われる。

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Monday, 25 August 2008

ザルツブルクは仕事の場

昨日のシカゴの新聞に、ザルツブルクに2週間滞在した記者が、マエストロ・ムーティの様子をインタビューをまじえてレポートした記事が載りました。

マエストロは7週間ザルツブルクに滞在し、その間、シカゴ響首脳とも会合をもち、2010-2011シーズンから始まる音楽監督としての仕事について、真剣に計画をたてているとのことです。

マエストロにとってザルツブルクは、そこに建てた家でお子さん達が夏と冬を過ごした地であるとともに、仕事のできるところだそうです。

「私はここザルツブルクに38年間います。子どもたちは、ここに建てた家で夏と冬を過ごしながら育ってきました。ラベンナのように(イタリアにある、ムーティの本拠地)、仕事ができるところです。最高のレベルの音楽家たちやオーケストラと仕事のできるところでありながら、大都会の喧噪―心理的な煩わしさも含めて―から離れていられるところです。ヴェルディ《オテロ》の新しいプロダクションや、《魔笛》の再演版、ブラームスの素晴らしい《ドイツ・レクイエム》について、あちらこちらへ飛び回ることなく仕事のできる場所が、ここ以外にどこにあるというのでしょうか。」

また、マエストロはシカゴ響音楽監督就任にあたり、刑務所で音楽を演奏することもする、と言いました。記者が、有名な弁護士クラレンス・ダロー(マエストロにははじめて聞く名前のようですが)が、シカゴで囚人達に向けて行った演説がある、といったところ、マエストロはその原稿を読みたいと言ったそうです。
シカゴだからありえないことではないとはいえ、まさか、ここでダローの名前が出てくるとは...。

記事はまた追って紹介します。

The Chicago Sun-Times 2008年8月24日
Hills alive with the sounds of Muti

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Wednesday, 20 August 2008

若い音楽家たちへのメッセージ

モストリー・クラシック誌最新号にマエストロ・ムーティへのインタビューが載っています。
インタビュアーは田口道子さん。ファンにとっては、マエストロを支えてくれる大切な人です。
いいインタビューを、ありがとうございました。

マエストロは、ウィーン国立歌劇場来日公演で《ドン・ジョバンニ》を上演するよう依頼されたことがあると、明かしています。
あのときは、秋にスカラ座と国立歌劇場の二度の来日になるのかと、わくわくしながらも、スカラ座とだけ来日とのマエストロの言葉を耳にしていました。やはり、スカラ座音楽監督の重責のため断っていたのだと、あらためてわかりました。

マエストロは、若い音楽家たちにも大きな愛情を注いでいることが、このインタビューからもよくわかります。
ケルビーニ管の新しいメンバー達とは、10月からピアチェンツァで稽古に入るとのこと。

「若者たちが何かを吸収しようと熱心に練習に励む姿に喜びを覚えます。」

「私は若い音楽家たちに音楽ばかりでなく、文化や歴史や社会の勉強をしてもらいたいと思っています。それこそが音楽を理解するということにつながり、ひいては良い演奏につながっていくと思います。」

モストリー・クラシック誌 2008年10月号
BIGが語る リッカルド・ムーティ

聖霊降臨祭音楽祭を復活祭音楽祭と誤記したり、Riccardと綴ったりする誤りはありますが、久しぶりに、きちんとしたインタビューが日本の雑誌に載り、嬉しく思いました。

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Sunday, 17 August 2008

自省

マエストロ・ムーティが自分の演奏についてどれほど自省しているかは、過去のインタビューで何度も読み、その深さ、妥協のなさ、演奏者の孤独に強く心を打たれてきました。
マエストロとその演奏を心から愛するファンとして、マエストロの演奏について自分の気持ちを正直に伝えることこそが、唯一の務めだと誓っています。

15日にイタリアの新聞に載ったマエストロのインタビューを読み、指揮者が背負っている大きな宿命・課題に、ここ数日、また考え込んでしまいました。

その部分を紹介します。全文は後日また。

2008年8月15日 Il Giornale
Muti: "Karajan? Come me era esigente ma non un tiranno"

指揮者ムーティは指揮台では独裁者ですか。
「指揮台上の指揮者を見ると、その何もかもが、先入観なく権威者であるかのような印象を与えます。けれども、本質は全く別物です。指揮者の前には、オーケストラという、ひとつのグループ、家族のようなタイプが存在しています。そして、自分の背後にいるもっと大きな別のグループとオーケストラとを、つなげなければなりません。このときには、誰も指揮者を助けることはできないでしょう。そして、次には、彼を襲い続ける問題があります。自分は作曲家に十分に忠実でいられるだろうか、という問題です。ヴェルディやモーツァルトのような、私が変わらぬ愛情をもって仕えてようとしてきた人達のことを考えています。何度自問していることでしょうか、たとえば明日、あの世で彼らに迎えられ、こう言われたとしたら、と。我々について、あなたは全く間違っていた。」

そのように言われることは、絶対にありえないことのように思えますが。
「けれども、とても大きな問題であるであろうことは、認めなければいけませんよ。」

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Friday, 15 August 2008

カラヤンの想い出を語る

ザルツブルク音楽祭の情報誌最新号で、マエストロ・ムーティがカラヤンの想い出を語っています。

ウィーン楽友協会機関誌2008年5月・6月号に載ったものとほぼ同じです(聞き手も同じProf. Dr. Walter Dobner )。
なお、最新号9月・10月号はマエストロ・アッバードがカバーストーリーです。

マエストロがザルツブルク音楽祭で《コシ・ファン・トゥッテ》を振ることになった経緯(カラヤンがフィルハーモニア管とのUSAツアー先に突然電話をかけてきた)、ザルツブルクでの短い会見、ベルリンで会って話したこと、カラヤンの演奏の特徴、カラヤンの存在意義。

そして、カラヤンとの最後の電話に触れています。
1989年のザルツブルク音楽祭で、ベルリン・フィルとヴェルディ レクイエムを演奏してほしいとカラヤンから依頼を受けたが、まさか、それが、カラヤン追悼のものになるとは、誰も、カラヤン自身も思いもよらなかったこと、と語っています。マエストロによれば、カラヤンはその電話で、ベルリン・フィルとの間の緊張関係に怒る一方、自分がこよなく愛している音楽祭のことを心配し、自分はヴェル・レクを振るつもりはないけれども、マエストロには、自分のかわりとして振ってほしいと依頼してきたのだそうです。
そして、カラヤンが亡くなり、マエストロは追悼コンサートでモーツァルト レクイエムを指揮するよう、ザルツブルク音楽祭から頼まれたのでした。

今日のマエストロ指揮カラヤン記念コンサートはインターネット中継されます。その時間に帰宅できればいいのですが。

http://www.salzburgerfestspiele.at/Home
/DASPROGRAMM/HOMEPAGE/tabid/55/Default.aspx

Salzburg Festival
Daily 第18号 2008年8月15日・16日
Geheimnisse eines Grosse

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Monday, 11 August 2008

指揮とは

10日のスペインの新聞に、ザルツブルクでとられたマエストロ・ムーティのインタビューが載っていました。

先日、Las ParmasのPerez Galdós 劇場支配人であり、また、カナリア国際音楽祭音楽監督も務めたことのあるRafael Nebotが亡くなったことに触れています。特に、マエストロとケルビーニ管は招聘されて、マエストロがとても誇りにしているナポリ派音楽のオペラを上演しているからです。

インタビューの最後で指揮について触れていたのを興味深く読みました。
腕は心の延長だ、という師ヴォットーの教えを語り、腕の動きは手段であって、それが目的なのではない、腕の動きと瞳によって、魂が持つエネルギーが伝わる、指揮というのは身体的活動であるというよりは、精神的活動だ、としています。

マエストロは、指揮の動きにだんだんと無駄なものがなくなり、最小化していっている、と最近よく語っていますが、その意図するところは、ある意味、このインタビューと同じだといえるでしょう。

Dirigir una orquesta es un ejercicio mucho más espiritual que físico.

2008年8月10日 El País
"Después de 19 años en la Scala, necesitaba volver a sentir la libertad"

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Monday, 28 July 2008

ローマでは《イドメネオ》

今日のCorsera紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

ザルツブルク音楽祭と同じプロダクションの《オテロ》を、今年12月にローマ歌劇場で上演し、以降、同歌劇場でオペラを三作品上演しますが、来年は《イドメネオ》だそうです。

《オテロ》のテーマのひとつは嫉妬ですが、マエストロは嫉妬を感じたことはないと語っています。神が与えてくれたものに感謝しているとのこと。

2008年7月28日 Corriere della Sera
Muti
J'accuse da Salisburgo

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Sunday, 27 July 2008

ヴェルディ指揮者としての自負

昨日のザルツブルクの新聞に、ザルツブルク音楽祭で《オテロ》を上演するマエストロ・ムーティの短いインタビューが載っていました。

マエストロはオテロを歌うAleksandrs Antonenko について直ちに、あなたは私の探しているオテロです、と語ったことが、ザルツブルク音楽祭会長のインタビューにもありました。

2008年7月19日 Profil
Der Fleißige wird bestraft

Plötzlich kam dieser Sänger auf die Bühne und hat den Dirigenten Riccardo Muti derart beeindruckt, dass dieser nach ein paar Minuten gesagt hat: „Sie sind mein Otello.“

マエストロが、ヴェルディを指揮することに、大いなる自負心を持っていることがわかります。
ヴェルディの超有名オペラを指揮するのは久しぶりですが、素晴らしい結果を見せてくれることでしょう。
そのような上演に接することができないのでは、ファンを名乗ることも非常に恥ずかしいのですが、インターネットで聴けるのがせめてもの救いです。
ご成功を心からお祈りしています。

記事は次のような内容です。

マエストロはオテロを歌う歌手はドラマティック・テノールであるよりは、ヴェルディ・アクセントを適確に表現できる歌手が望ましいとし、今回の上演では、今いるオテロ歌いではなく、若い歌手(Aleksandrs Antonenko )に賭けた、としています。

オテロを野性的なだけのキャラクターだとするのが間違いであるように、イヤーゴは悪魔のように残虐な人間ではなく、美しさと世知を備えた人間だとしています。

マエストロはトスカニーニが1947年に上演した《オテロ》をレファレンスとしています(タイトルロールはRamon Vinay)。マエストロの師であるアントニーノ・ヴォットーよりその上演での解釈については指南を受けています。

マエストロは《オテロ》をフィレンツェ歌劇場、スカラ座で上演していますが、第三幕フィナーレについては、どちらの場合も第二版(決定稿、パリ版)を選択していて(この選択をしたのはマエストロがはじめて)、それは、イヤーゴを際立たせる版だからであり、ヴェルディ自身もその名前をつけて呼んでいたほどだ、としています。

また、現在、自分はヴェルディのほとんどのオペラを指揮したことのある指揮者だと、自負を持って語っています。

2008年7月26日 Salzbuger Nachrichiten
"Dieser "Otello" soll besonders sein"

(抜粋)

「もちろん、オテロにはパワーが必要です。しかし、典型的なドラマティック・テノールでなければならないということはありません。オテロを歌う歌手には、ヴェルディのドラマティックなアクセント、ヴェルディ・アクセント、accento Verdianoを、適確に表現できる能力がとりわけ必要です。」

オテロを野性的で動物的なキャラクターとして描くとしたら、それは間違っているだろう、同様に、敵対する登場人物が残虐な人間だということもほとんどないことだ、とリッカルド・ムーティは言う。「ヴェルディはイヤーゴを美しくて世知にたけた者として望み、悪魔のような者としたかったわけではありません。彼は、堂々と俊敏な歩みを見せ、舞台上を軽やかに動いてみせるべきです。」

「今回のオテロ役は特別なものとなるに違いありません。どこでも聴かれている少数の歌手のひとりにではなく、若い歌手に賭けるつもりなのです。」

「ヴェルディにとって、イヤーゴはこの作品の基本にある人物でした。それは非常に深い程度のもので、ヴェルディは第三幕のフィナーレをイヤーゴと名づけてさえいたのです。」

ヴェルディについては、ムーティは15の作品を上演している。様々なプロダクションが彼によって統率されている。「現在私は、ヴェルディのほとんどのオペラを指揮したことがある指揮者です。」なみなみならぬ誇りをもって彼はそう言った。

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Monday, 07 July 2008

シチリアとのつながり

昨日のシチリアの新聞に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っています。Mazara del Valloでの7日のコンサートを控えてのものです。
演奏する作品の意義、シチリアでのコンサート履歴、シチリアとのつながり、南イタリアの問題をどう思うか、などについてたずねられています。

マエストロはそのキャリアのはじめに、テアトロ・ベッリーニでオーケストラを指揮して、ナポリの作曲家Parodiの作品とドボルザークの《新世界》交響曲を指揮している、と語っています。昨年もケルビーニ管とカターニアで演奏していて、訪れるたびに聴衆の熱い歓迎を受けて嬉しく思っているそうです。
また、クリスティナさんがPantelleriaに土地を購入していて、二人にとって楽園のような離宮(buen retiro、記者の質問にあった言葉)のような地にもなっているようです。
南イタリアの問題を解決は(自分の権限・責務によってではなく)政治によるものだけれども、シチリアには素晴らしい文化があり、ベッリーニやSollimaをはじめとする文化人もいるし、自然も素晴らしい、そして、尊敬してやまないフェデリコ二世ゆかりの地だと称賛しています。
以前にも語っていましたが、南イタリアは地勢的にオリエントへの窓口になっている、とその利点に触れています。

インタビューの紹介はまた後で。

7月7日という、日本では星に願いをかける七夕に、平和と友情を願うコンサートが漁火と星空の下で開かれるとは、なんと素晴らしいことでしょうか。

公演のご成功をお祈りしています。
そして、マエストロの幸せも!

2008年7月6日 La Sicilia
Riccardo Muti dirige l'Orchestra e il Coro del Maggio fiorentino

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Sunday, 06 July 2008

新しい音楽監督の抱負(3)

1ヵ月あいてしまいましたが、マエストロ・ムーティのシカゴ響音楽監督就任について分析している、シカゴの新聞記事の残りの部分を紹介します。

マエストロはとてもとてもポジティブな人で、将来をしっかり見据えながらも、いつもそこに期待を抱いています。こういう人が一国のリーダーだったら、と思うのですが、トニー・ブレアでその想いは裏切られたことがあります。やはり、マエストロ・ムーティには、音楽を表現する人でいてほしい。

2008年6月8日 Chicago Tribune
Dreams and visions of the CSO's new maestro
Muti wants to take the orchestra to city neighborhoods
By John von Rhein

バレンボイムは、音楽監督に指名されて1989年にはじめて開いた記者会見で、オーケストラについては何を変えるつもりかとたずねられた。彼はこう言った。「私が変化をもたらすことができるとしたら、それは今よりも悪くすることでしょう。」

変化するのは自然のこと

ムーティも似たような哲学を持っている。彼は私に言った。オーケストラに音楽監督が就任すれば、変化は避けられません、と。「けれども、変化は自然に訪れます。なぜなら、すべての指揮者は音、フレージング、解釈、様式について、自分自身のコンセプトを持っているからです。」シカゴ響のように才能も高い質も持ったオーケストラでは、メンバー達は音楽についてのアイデアに関しては、どの点から見ても指揮者と同じくらいに強固なものをもっているが、そういうオーケストラに対して、「指揮者は決して何かを押しつけたいわけではないのです。」

アメリカ人の仕事に関する倫理感を強く信じるムーティは、シカゴ響のメンバー達は、何百回となく以前に演奏したことのある楽譜について、もっと深く掘り下げようとすることに関して、彼と同じくらいに熱心だということを認めた上で、音楽監督とオーケストラのメンバー達のコラボレーションにおける「勤勉さ、ハードワーク」の重要性を強調した。

この巨匠は作曲家の意図するところに正確であること、忠実であることに、イタリア人らしい熱心さと熱烈さでもって忠誠を誓っている。音楽の解釈となると、ムーティはロマンチックなまでの完璧主義者となる。

「指揮者としてのキャリアを始めたとき、私はとてもギラギラとしていて強烈でした。」ムーティはこう言った。「自分にはそのことについて義務があることを証明しようと思っていたのです。今では、だんだんと指揮のジェスチャーが一層必要最小限のものになってきています。けれども、指揮に関してはトスカニーニ派出身ですから、ジェスチャーが必要最小限のものになったとはいえ、正確であることにはいまもって注意を払っています。」

「私は、指揮棒によるよりも、自分が内側に抱いているものでもってのほうが、オーケストラをより一層まとめることができると考えています。」彼は、心臓のあるあたりの胸に手をあてながら、付け加えた。「オーケストラを指揮しているときは、自分が何をしているのかについて、全く考えていません。ただ演奏を、(音楽を)表現していることを感じているだけです。」

ムーティは自分が世界中でひっぱりだこの有名指揮者、魅力的なジェット・セット指揮者であることをひけらかすために、シカゴにやってくるわけではない。また、次々と演奏会をこなしたり、ベートーベンの交響曲を次から次へと指揮したりして、シカゴ響をどれほどうまく指揮できるかについて証明するために、シカゴに来るわけでもない。とびぬけて素晴らしいキャリアにおいて、そういったことすべてをやってしまった音楽家にとって、証明すべきものとして何が残されているというのだろうか。それだから、彼は誰にも何も証明する必要がない。

ムーティは、シカゴ響を重要な、個人的な最終部分と考えていると言った。人生で予期している最後の音楽監督だというのである。彼は自分の最も真剣で精力的な関心を、次のような、みずからの中心的な目的に捧げると決心したように見える。焦点は明らかにその目的にあてられている。すなわち、シカゴ響をシカゴにおいて、世界において、さらに一層偉大な高みに連れて行きながら、シカゴにおいて素晴らしい音楽についての聴衆を拡大するということである。

彼が、高貴な意図を実際の結果にどのようにうまく転換できるかどうかは、もちろん、時間だけが語ることだ。それでも、懐疑深い人達が少しはいたとしても、彼らでさえも、ムーティが素晴らしいスタートを切ったことは認めるに違いない。2年以上も前にシカゴ響の音楽監督職を公式に手中にし、温和な形でオーケストラのメンバー達とオーケストラ・ファミリーを制覇した。シカゴのそれら以外の部分が次の課題だ。

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Monday, 30 June 2008

ブラスバンドからイタリアを見る

Amadeus誌2007年7月号に載ったマエストロ・ムーティのインタビューには、イタリア文化への警鐘部分もあります。
ケルビーニ管が大都市に根拠を置いていないことを問われ、イタリアには非常にたくさんのオーケストラや合唱団、室内楽団が隠れた存在としてある、として、その文脈の中でDelianuovaのブラスバンドとの出会いを語っています。

こまぎれな紹介でなく、いずれ、インタビュー全文を紹介します。

Amadeus誌 2007年7月号
Il colore del cuore

「イタリア半島は、音楽を愛している人々、報酬のためではなく、演奏する喜びのために音楽を一緒に演奏している人々で、あふれています。そして、こういう人達に誰も関心を払っていません。私にとって嬉しい思い出となっているエピソードがあります。ケルビーニ管とはじめてレッジョ・カラーブリアに滞在したときにさかのぼるものです。ある人達が私に、アスプロモンテのこじんまりした地域出身の若者達によるブラスバンドについて、話してくれました。非常に美しい地方ですが、むつかしくて危うい問題もたくさん抱えています。その地で、ある人達がきっかけを作って、若者達を恵まれない環境から引き離し、彼らに楽器を持たせ、80人からなるブラスバンドを作ってきているというのです。私はその若者達と、レッジョ・カラーブリアのチレア歌劇場で行きあいました。その劇場でケルビーニ管とリハーサルを行いましたが、最後に客席から彼らを見たのです。ブラスバンドのユニフォームを着た80人の若者達が粛々と、各々が最高に素晴らしいパートを分担しながらリハーサルをしていました。私は彼らのマエストロに、このバンドを聴くのは心地よかったし、彼らは非常に規律のとれた、とても優雅な様で舞台にいた、と言いました。なぜなら、軍隊的な規律からそうしていたのではなく、一緒に演奏するということの意義を自覚していることから生まれた規律によって、そうしていたからです。私には、彼らは全く素晴らしい技術を持っているように聴こえ、本当に感動しました。これなのです。イタリアという国が、服がどうこう言われたり、あれやこれや、どうでもいいようなことに関心が持たれているようなだけの国ではないことを理解してもらうために、こういう現実が、新聞やテレビでとりあげられるべき価値のあることだといっていいでしょう。誰の助けも借りることなく、単独で素晴らしい状況を創出することができる人達がいる、という事実が実際にあるのです。」

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Sunday, 29 June 2008

感情は共通のもの

Amadeus誌2007年7月号を入手しました。購入の機会を何度か逃してしまい、やっと同誌のサイトで購入できました。
同号で、マエストロ・ムーティがザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭について語っていることを知り、読みたく思っていました。さらに、先日、ラベンナ音楽祭でマエストロがDelianuovaのブラスバンドを振った際、同インタビュー記事で、そのブラスバンドとの出会いについても語っていることがニュースになり、ますます読みたくなったのです。

マエストロの最後の言葉が心に残りました。これまでにもマエストロが何度も語ってきたことです。マエストロが日本のファンに心を開いてくれるのも、こういう考えを持っているからなのだなあ、と一層敬意を深めました。

「音楽というのは純然たる感情であり、人間の気持ちです。イスラム教徒であれ、カトリック教徒、プロテスタント教徒、ユダヤ教徒、仏教徒、儒教徒であれ、すべて同じです。心の中は皆同じです。肌の色によっても、政治によっても、異なった人間になったりしません。様々な考えを持つことは可能ですが、感情というものは全くひとつです。この瞬間、少し雄弁になることが許されるよう望んでいいのならば、あらゆる人にとって、心の色は同じだということを言うべきでしょう。」

Amadeus 2007年7月号
Il colore del cuore

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Wednesday, 25 June 2008

トリュフォーやアラン・レネのような

今日のイル・ジョルナーレ紙にマエストロ・ムーティとドパルデューのインタビューが載っています。

ドパルデューはマエストロのどこに魅かれているのか、この共演の中でどう評価しているのか、とても興味があります。
もちろん、マエストロにはあらゆる人をひきつける魅力があるのですが。

2008年6月26日 Il Giornale
Muti e Depardieu, l'intervista doppia

ドパルデューさん、あなたから見てムーティは、監督と指揮者のどちらのほうとして行動しているでしょうか。
「リッカルドは指揮者ではありません。制作者です。映画におけるトリュフォーやアラン・レネのような感じです。彼らのように、その周りには、ある雰囲気がかもし出されています。彼が創りだす芸術作品の中に身を置いているのです。一方、舞台装置については、私に話させないでください!」

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Thursday, 05 June 2008

芸術家としての責任

マエストロ・ムーティのフィラデルフィア管時代のインタビューにも、芸術家の責任に触れているものがあります。

「ステージでは、音楽は感情を表現するものであり、政治上の意見を表明するようなものではありません。けれども、オフ・ステージでは、芸術家が社会の一員として、心と知性と政治的考えを持って貢献するのは、その義務です。」

Classical 1990年5月号
Riccardo Muti
The Philadelphia Story

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Friday, 09 May 2008

NEWS誌最新号に記事

NEWS誌最新号に、ザルツブルクで行ったマエストロ・ムーティの講演の模様が載っているようです。

NEWS Nr.19 2008年5月10日
Riccardo Muti

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Thursday, 08 May 2008

ウィーンでの当面の予定は...

APAが、ザルツブルクでゲネプロを行ったマエストロ・ムーティへのインタビューを、短く報じています。

APAの関心のひとつは、シカゴ響音楽監督就任が決まったマエストロには、はたしてザルツブルクやウィーンでの時間は残されているのだろうか、ということでした。

マエストロの返事は、ちょっとつれない感じです。
2009年(2008年の誤り?)10月にウィーン国立歌劇場と訪日して《コシ・ファン・トゥッテ》を上演するし、ウィーン・フィルともコンサートを行う、しかし、そのほかは、当分、ウィーンでは何の計画もない、と答えています。

2008年5月8日 APA
Riccardo Muti und der neapolitanische Geist

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Tuesday, 06 May 2008

40年間共にあるピアノ

今日のCorsera紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。
シカゴ響音楽監督就任についてのほか、フィレンツェでデビュー40周年を祝うことについても語っています。

フィレンツェ時代を振り返るマエストロのインタビューを読んでいて、涙がにじんできました。
1970年代終り頃当時のわたしがフィレンツェのマエストロの様子を知るには、日本の音楽雑誌とグラモフォン誌、UKの新聞を読むしかなく、ステレオ芸術誌のイタリア便りを毎月、繰り返し繰り返し読んでいたことが思い出されます。

マエストロは、フィレンツェ五月音楽祭管を振って大成功を収め、フィレンツェでキャリアを積むことになります。
クリスティナさんと結婚もしました。歌劇場近くに家を構えようにも、家賃の高さが二の足を踏ませました。最初は冷蔵庫を買うお金さえなかったのですが、まず、ピアノを買ったそうです。完済するのに2年かかりましたが、そのピアノは今もマエストロのそばにあるとのこと。人生をともにしてきたピアノです。
また、フィレンツェで非常に愛されていたマエストロ夫妻は、3人のお子さんはフィレンツェで産もうと決意したそうで、3人ともフィレンツェっ子だとのこと。

こうやって、フィレンツェへの愛を惜しみなく語るマエストロのインタビューは、本当に感動的です。

有名な《ウィリアム・テル》終演後(夜中の2時に終わりました)、聴衆が熱狂して、Viva Rossini! Viva l'Italia!と叫んでいた思い出話をマエストロは披露していますが、マエストロの17日、18日のコンサートでも、たくさんの垂れ幕と叫び声が聴こえることでしょう。

2008年5月6日 Corriere della Sera
Muti nuovo direttore a Chicago: porterò la musica ai giovani Usa

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ケルビーニ管は80%入れ替え

今日のオーストリアの新聞にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。ラベンナ田園地帯のマエストロ邸で、ザルツブルク音楽祭とラベンナ音楽祭について、インフォーマルな記者会見が行われた際のもののようです。

マエストロはこの中で、聖霊降臨祭音楽祭について、ケルビーニ管について、カラヤンについて(ザルツブルク音楽祭で《コシ・ファン・トゥッテ》を上演するに至った有名なエピソード)、そして、年齢のことを話しています。

ラベンナ田園地帯のマエストロ邸は、ラベンナ郊外の車で30分ほどのところにある、とても静かな環境の素晴らしい家だそうです。1864年に建てられたものを改築したとのことで、大勢の記者たちが昼食をもてなされたところでは、かつては牛が草を食んでいたとか。また、晴れていれば、遠くアペニン山脈やサン・マリーノまで見えるそうで、マエストロは心身を休めたいときにそこを訪れるとのこと。アニフと同じ、と語っています。

ケルビーニ管については先頃オーディションが行われましたが、3年間で100%が入れ替わるのではなく、80%が新しくなり、20%はより強硬な核として残るのだそうです。今年の聖霊降臨祭音楽祭がこの3年間を過ごした古いメンバー達にとって、最後のものになるとのこと。マエストロは、100%入れ替えることはしない、そうしたら、定められた寿命よりもずっと早くお墓に入ることになる、と言っています。どれほどの労力とエネルギーを注いできたかが、よくわかります。

今年の夏67歳になることを気にしたことがあるかと記者がたずねた答えは...。

90歳になるインド人をテレビで見た、21人の子供がいて、いちばん幼い子を腕に抱きながらこう言っていた、この子が最後じゃないよ、これで、あなたの問いかけに対しては十分十二分だ。

Muti: Ich habe im Fernsehen einen Inder gesehen. Er war 90, hatte 21 Kinder, hielt gerade das jüngste im Arm und erklärte: „Und das ist noch nicht das letzte!“ So viel zu Ihrer Frage.

確かに、アッカルドにも子供が生まれるというニュースがありましたが...。

2008年5月6日 OOE nachrichten
Muti hebt neapolitanische Schätze

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Monday, 05 May 2008

カラヤンの想い出(4)

マエストロ・ムーティがウィーン楽友協会機関誌でカラヤンについて語っている記事の、続きを紹介します。

マエストロはここでも、ピリオド奏法を好ましく思わない態度を表明しています。

ピリオド奏法がいつ全盛を極めたのか、あるいは今も全盛なのかどうかは知りませんが、マエストロの演奏を時代遅れだと批判する評論家、音楽ファンは、今でも少なくないようです。ピリオド奏法、もしくはその洗礼を受けた演奏とは全く距離をおいた演奏をしていることが、その理由のひとつだと思われます。

Musikfreunde 2008年5・6月号
Das Geheimnis der Selbstverständlichkeit
Riccardo Muti

後に彼は、ザルツブルク音楽祭における自分の《ドン・ジョバンニ》プロダクションについて、続けて指揮することを私に任せてくれました。1980年代の終わりには、カラヤンとベルリン・フィルとの間に危機が訪れました。75歳の誕生日に際して、コッリエーレ・デッラ・セーラ紙はカラヤンについて今まで以上に大きな記事を載せようとし、私にインタビューを依頼してきました。数日後、親愛の情のこもった素晴らしい手紙をカラヤンから受け取りました。今も宝物のように大切にしています。その指揮ぶりに関し、私が的確に考えを表明したことについて、彼は非常に感銘を受けたと書いていました。そして、本当に多くの評論家についても、彼らが非常に明確に、そして、根拠をもって自分の意見を表明できたら、と願っているとのことでした。

―数年前のインタビューであなたは、フルトヴェングラー、トスカニーニ、カラヤンを、前世紀における最もすぐれた三人の指揮者とみなしていました。カラヤンの特別なところは何ですか。

フレージングにすぐれているところです。それは時として、洗練された印象を与えますが、決してわざとらしくなく、常に自然で人を頷かせるものがあり、とりわけ、音の響きと色がそうでした。彼のフレーズのスタイルは常に、徹底的に考え抜かれた結果でした。彼のフレーズが当然のものとして説得力をもっていた秘密は、そこにあります。

―まさに、音の響きに関するところ、ここが、とりわけ、バロックや古典派の作品において、カラヤンの称賛派、批判派が分かれるところです。あなたはどのように見ていますか。

歴史に則って音楽を実践することは尊重すべきだとしても、しかしながら、どんな人にも自分が感じたように表現する自由があります。カラヤンは、19世紀終わりにまでさかのぼるロマン派の、究極の代弁者です。今日では、すべてが、古楽器と歴史的奏法実践に向かい、それ以外にはともかく何も認められていません。私も、音楽における原理主義は好みません。たとえ、カラヤンによるヴィヴァルディの《四季》やロ短調ミサの解釈が、今日的な理解からすれば文献学的・原典考証上は正しいとはいえないとしても、私には、人を感動させる力に乏しくて正しく再現されたものよりも、カラヤンによるもののほうが、好ましいです。文献学的に正しいとしても、そこでは、数分たてばもう、表現がどう展開されるかわかってしまうのです。確かに、体系的な演奏ではありますが、インスピレーションに欠けています。私はホラティウスの側に立ちます。物には程あり、中庸を。
カラヤンは両者から何らかのものを受け取りました。トスカニーニからは、明確、純粋、正確を、フルトヴェングラーからは、ロマン派的なスタイル、ロマン派の疾風怒濤を受け取り、そこから自分の個性的なスタイルを発展させたのです。

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Monday, 28 April 2008

ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサートはナポリで

今日のレプッブリカ紙は、ピアチェンツァでケルビーニ管とリハーサル中のマエストロ・ムーティへのインタビュー記事を、写真とともに載せています。
去年のPMFでもスポーティな靴でしたが、ピアチェンツァのリハーサルでもジョギングシューズのようなものを履いているようです。

インタビューでは、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のこと、カラヤンのこと、今年のこれからのスケジュール、マエストロ・アッバードのこと、イタリアの文化政策のことなどを語っています。

聖霊降臨祭音楽祭がナポリ派音楽をテーマにしていることを語ったのに続けて、ザルツブルクだけでなく、実際にナポリも訪れるとして、ベルリン・フィルのヨーロッパ・コンサートを来年5月1日にナポリで行うこと、ナポリのサン・カルロ歌劇場の再開記念コンサートも指揮することを述べています。

マエストロ・アッバードについては、これまでも親愛の情が感じられる関係だったし、スカラ座へ彼を招聘しようと手紙も書いた、と語っています。
マエストロはマスコミの取り上げ方を、ツール・ド・フランスで有名なバルタリとコッピになぞらえていました。わたしが思い出すのは、もちろん、イノーとレモンです!

ここのところ、二人のマエストロがそれぞれ、これまでもずっといい関係だった、と語っているのを興味深く思います。

また、マエストロは12月6日にローマ歌劇場で《オテロ》を上演しますが、フィレンツェ時代も12月に開幕公演を行っていたし、自分がローマで12月にオペラを上演することを、スカラ座と関連づけて考えるのは馬鹿げている、と一蹴しています。

追って紹介します。

2008年4月28日 la Repubblica
"Porto in Europa il mito di Napoli capitale della musica"

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Sunday, 27 April 2008

カラヤンの想い出(3)

楽友協会機関誌最新号に載っている、カラヤンにまつわるマエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。
ローリーについては、原文どおりにしました。

カラヤンからザルツブルク音楽祭での《コシ・ファン・トゥッテ》上演の依頼を受けた時のことを、語っています。
この上演は大好きで、録音を何百回となく聴きました。イタリア語など何もわからない頃でしたが、自然に歌詞だけでなくレチタティーヴォも覚えてしまいました。マエストロの演奏でなければ、レチタティーヴォにまで関心がいかなかったことでしょう。

(先週末はつらい決断をしなければなりませんでした。想いだけが強くてもどうしようもないことがあるのだなあ、と暗い気持ちです。
でも、マエストロへのわたしの気持ちは、生涯変わることのないものです。)

Musikfreunde 2008年5・6月号
Das Geheimnis der Selbstverständlichkeit
Riccardo Muti

―1970年代の終わりには次に、その後有名になった、電話でのカラヤンとの会話がありました。

それは1979年のことで、フィラデルフィア管音楽監督の地位に就く前に、フィルハーモニア管とUSAでさよならツアーをしていた最中でした。サウスカロライナ州ローリーでのコンサートを終えた後、朝7時に電話が鳴ったのです。それで私は妻にこう言いました。「こんなに早く起こすとはいったい誰なのだ?これはきっと間違った番号をとっさにかけたのだろう。」受話器を持ち上げると、ただ聞いてました。「カラヤンです。」最初は冷静にたずねました。「誰ですか?」再度聞こえてきました。「カラヤンです。」それで、このきっぱりした口調から、本当にカラヤンであることがわかりました。彼は直ちに要点を持ち出し、言いました。「ムーティ、あなたを1982年ザルツブルク音楽祭での《コシ・ファン・トゥッテ》上演のために、招聘したいのですが。」私は、このオペラを指揮したことがないこと、ザルツブルクではベームが大成功を収めている作品であることを、指摘しました。カラヤンは次のようなことを言いました。それはわかっている、しかし、それゆえに、このオペラを私(ムーティ)へ差し出すのだ、というのは、ザルツブルクは新しいプロダクションを必要としているからだ。さらにカラヤンは私に、この申し出を直ちに受け入れるか、断るかの機会だけを与えました。„Si or no“という彼の問いが聞こえました。ためらいながらも、私は、はい、と答えました。けれども、彼には、誰にも何も言わないよう、約束しなければなりませんでした。すなわち、これはまずもって彼と私の間の事柄であり、後のことはすべて、彼が配慮するであろうことだったからです。その後のことはよく知られているとおりです。挑戦に対してすべてが悲観視する声である状況の中、《コシ》は大きな成功を収め、そのことによって、私は突如として、モーツァルト指揮者としても知られるようになりました。

カラヤンは非常に喜び、《コシ》の二度目か三度目の公演の後で、オフィスに招いてくれました。彼はプロダクションをとても気に入りましたが、レチタティーヴォのテンポが遅すぎるように感じられるとのことでした。私はこう答えました。セリフの部分も同じように傑作だとみなしている、それゆえに、私にとってレチタティーヴォもアリアと同じような価値を持っている、と。

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Sunday, 13 April 2008

チベット

ラベンナ音楽祭とザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭について、カジュアルな形で催した記者会見で、マエストロ・ムーティはチベットについても訴えを投げかけています。政治的なものではなく、文化が虐げられることに対する、文化に深く関わる者からの訴えかけです。

ラベンナ音楽祭では、『友情の道』コンサートを行っています。音楽的事情、文化的事情について、この集りで話が出たのは当然のことかもしれません。
マエストロは、この二つのテーマは言葉よりももっと人々を結びつける、と語り、レバノンやユーゴスラビアといった苦境にある国を訪れたことを想い起こしながら、チベットについてアピールを口にしています。

「このような歴史をもった民族には、その歴史を守っていく選択肢があるべきです。」

《Un popolo con quella storia deve avere la possibilità di conservarla.》

2008年4月3日 il Mattino
«Con Paisiello un matrimonio di culture»

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Thursday, 10 April 2008

ウィーン・フィルへの賛辞

今日のLe Figaro Musiqueに、マエストロ・ムーティの談話をまとめた記事が載りました。
ウィーン・フィル、フランス国立管、イタリア・オペラのむつかしさについて語っています。

ウィーン・フィルについては、1971年から指揮しているマエストロですが、当初は、師として仰いでいたのが、いまや、我が子のように思える、と言っています。
ウィーン・フィルで特筆すべきは、各メンバーの積極的な音楽姿勢だ、オーケストラというのは動力で動いていくものではない、末席に座っているプレーヤーも、コンサートマスターと同様の携わり方をしなければいけない、と称賛しています。
また、ウィーン・フィルは政治の模範だ、ふさわしいテンポとは何かについて、メンバーの数だけ意見があっても、まるで、一人の人間であるかのように演奏する、とも言っています。

興味深かったのが、イタリア・オペラについての考えでした。
ケルビーニ管と《ドン・パスクァーレ》を演奏したけれども、ワーグナーを振るよりもむつかしい、柔軟性、エレガントさ、メランコリーを備えていなければならず、何よりも、通俗的ではいけない、と語っています。

2008年4月10日 Le Figaro Musique
Riccardo Muti, chef viennois pour un soir

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Sunday, 06 April 2008

カラヤンの想い出(2)

マエストロ・ムーティが楽友協会機関誌で語っている、カラヤンについてのインタビューの続きです。
Antonio Guarnieriは1892年ヴェネチア生まれで、チェリストから出発して指揮者となり、1952年にミラノで亡くなっています。
http://www.operaitaliana.com/autori/interprete.asp?ID=132

Musikfreunde 2008年5・6月号
Das Geheimnis der Selbstverstaendlichkeit
Riccardo Muti

1970年代終わりに、ベルリンのHotel Kempinskiでカラヤンと会いました。そこで食事をしながら、彼と楽しい時間を前のときよりも長く過ごし、彼のことをさらに知る機会を得ました。私達は、とりわけ、指揮について話しました。カラヤンは、自分はAntonio Guarnieriの賛美者だと言いました。今では、彼がトスカニーニのライバルであったことを、人々はもはや知りません。しかし、彼にはキャリアをなそうという野心がなく、従って、録音も残しませんでした。私はイタリアの楽団員によって、彼がその独特の響きで有名だったことを知っていました。カラヤンはそのことについて請け合いました。彼は私にこう説明したのです。スカラ座に来て誰が振っているのか見なくても、もっぱらオーケストラの響きだけから、Guarnieriが指揮台に立っているかどうかわかることが可能だった、と。これは、彼自身がその典型的な響きで有名だった指揮者カラヤンから聞いた、Guarnieriが得ることのできた最高の賛辞でした。

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カラヤンの想い出(1)

楽友協会機関誌5・6月号の、素敵なマエストロ・ムーティの表紙とインタビューのページを眺め、読むのは、ファンとして至福のときです。

マエストロとカラヤンのザルツブルクでの出会いはBueroでなのですが、ザルツブルクの街には、音楽祭になるとレコード会社の出張オフィスやブースができたりするので、そのようなものだろうか、カラヤン専用のオフィスなのだろうか、とも思いました。とりあえず、終演後の感動を伝える場のようなものをイメージしながら、カラヤンのテーブルとしました。
調べておきます。

Musikfreunde 2008年5・6月号
Das Geheimnis der Selbstverstaendlichkeit
Riccardo Muti

―マエストロ・ムーティ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの生誕100年に際して、6月にヴェルディ レクイエムを指揮します。カラヤンにはじめて会ったのはいつのことですか。

1971年に《ドン・パスクァーレ》を演奏するよう招聘を受け、ザルツブルク音楽祭にデビューしました。カラヤンは若い才能について、いつもよく情報を得ていました。現在の50代、60代、70代のすべての指揮者がそのキャリアにおいて、カラヤンの影響を基本的に受けてきたことを忘れてはいけません。カラヤンが私についての情報をどこから取り寄せたのかは知りません。でも、当時のザルツブルク音楽祭総裁Bernhard Paumgartnerが、カラヤンが私に注意を払うようにしたのだと、かなり確信しています。彼はカラヤンの師で、彼の娘が私のいちばん親しい友人仲間に属していました。彼女はフィレンツェを愛していて、その頃、私はフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督でした。プロダクションの準備をするためにザルツブルクに行きましたが、ウィーン・フィルの数人のメンバーから、カラヤンが短い時間、いくつかのリハーサルで聴いていたのを観た、と聞きました。私は彼と会いませんでしたが、ベルリン・フィルのコンサートに招待されました。ザルツブルク音楽祭における《ドン・パスクァーレ》の大成功の結果、1972年に再演することになりましたが、その年に、カラヤンと会うという事態になりました。私はそれまで、自分の抱いた尊敬の気持ちからカラヤンの手にキスをするために、彼のテーブルの前にできた長蛇の列に加わるというようなことは、決してしませんでした。ザルツブルクにおける彼のテーブルでのそのときの会見は数分だけのことでしたが、私達はトスカニーニ、スカラ座、ヴェルディ、プッチーニについて話しました。それに続く年々、彼は常にザルツブルクとベルリン・フィルに私を招いてくれました。

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カラヤンとの出会い

マエストロ・ムーティはカラヤンを、フルトヴェングラー、トスカニーニと並べて20世紀を代表する指揮者のひとりにあげています。
ザルツブルク音楽祭でカラヤンが上演するはずだった《ドン・ジョバンニ》を指揮し、追悼コンサートのタクトをとるなど、カラヤンと縁の深いマエストロですが、カラヤン生誕100年を記念して、6月にウィーンでヴェルディ レクイエムを指揮し、8月のザルツブルク音楽祭では、ブラームス ドイツ・レクイエムを演奏します。

楽友協会機関誌5・6月号は、そんなマエストロに、カラヤンとのはじめての出会い、ザルツブルク音楽祭で《コシ・ファン・トゥッテ》を上演することになった際の有名なエピソード、カラヤンの偉大性、ヴェルディのレクイエムでクヴァストホフと共演すること、ウェーベルン交響楽団との共演について、インタビューしています。

とても興味深い内容でしたので、少しずつ紹介していきます。
1970年代の終わりに、マエストロがカラヤンとベルリンのホテルで会ってじっくり話したことがあるとは、はじめて知りました。イタリアの新聞ではきっとインタビューなどで報じられたことがあるでしょう。

マエストロの話をもっともっともっと聞いてみたいといつも思います。でも、その引き出しを開くにはどうしたらいいのか...。インタビュアーのみなさん、がんばって!

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指揮台では女性と男性に何の差異もない

マエストロ・ムーティが、ラベンナでの非公式な記者会見で女性指揮者についてコメントしたことが、スカラ・フィルの指揮台に立つMarin Alsopの反論という形で、見事に昨日の各紙を飾りました。話題の中心は3日のCorsera紙の記事でした。

マエストロは、Corsera紙の記事の書き方でも、女性と男性の間に差異はない、とはっきり言っています。
そして、続けて、レパートリーではシューベルトが女性らしさという感性にあっているようにみえ、《オテロ》開幕の嵐の部分の指揮にはあまり適していないだろう、と言っています。
みずからの感性を大切にせよ、その感性を殺すな、という考えです。
燕尾服については、女性が着ること云々以前に、マエストロ自身、気に入っていないようです。

メディアは、女性にとってのレパートリーはシューベルトであり、《オテロ》はダメ、と単純な白黒の表現でマエストロの考えをAlsopに提示したため、当然のことながら、切り返しにあった次第です。

マエストロ自身がシューベルトに素晴らしい力量を発揮し、その第一人者と言われることさえあることを思うとき、マエストロのコメントには、思わず苦笑してしまったのですが。すぐれた音楽家はあらゆる感性を備えている、といえるのかもしれません。

Corsera紙が書いたマエストロのコメントは次のとおりです。

「指揮台では男性と女性に何の違いもありません。けれども、女性が男勝りになりがちなのは誤りです。みずからの女性らしさを表現すべきです。女性はシューベルトの感性に適しているように見える、と言ってよいでしょう。《オテロ》の《嵐》の場面は、女性らしさとは対極にあると感じられるかも知れず、シューベルトに比べれば、適していないように見えます。そして、燕尾服を着ることについては...私は、ペンギンのようなこの服装がずっと嫌いでした。」

2008年4月3日Corriere della Sera
Muti: io e Abbado divisi dai fanatici

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Saturday, 05 April 2008

女性らしさについて

ラベンナで行われた、ラベンナ音楽祭、ザルツブルク音楽祭に関するインフォーマルな記者会見で、マエストロ・ムーティは興味深いことをいくつか語っています。

そのひとつが、女性らしさについてでした。今年のラベンナ音楽祭のテーマがそれに関連していることもあるでしょう。インタビュアーは、スカラ座の指揮台にはじめて女性指揮者が立つことをどう思うかと、マエストロにたずねています。
次のようなマエストロの答えは、ファンとして従ってきた者として、およそ、想像しうるもの、そのものでした。

女性らしさを表現するべきではないかと思われるのに、多くの人が男勝りになる傾向にあるのは残念なことだ、我々男性は女性の中に美しさ、優美さ、優しさを見るし、求める、しかしながら、指揮台に立つ女性は、プロフェッショナルな音楽家達であるオーケストラに対して、強く自分を押し出せる存在でなければならないことは、私も理解している、でも、燕尾服を着ていないことについては、私自身も燕尾服はいやだ、女性が燕尾服を着ること、それは避けるべきだ、と言っています。

(燕尾服に関するマエストロのコメントを誤って理解していました。申しわけありません。2008年4月6日5時43分追記)

«Le donne sul podio? Dovrebbero esprimere femminilità, peccato che tante tendano a mascolinizzarsi. Noi uomini cerchiamo e vediamo nella donna bellezza e dolcezza, ma capisco che quando una donna si trova davanti a decine di professori d’orchestra deve sapersi imporre»«Però che non indossino il frac, sarà che lo detesto io stesso. Una donna no: lo deve evitare».

2008年4月3日 Il Giornale
Festival di Ravenna, da Depardieu alla Traviata
E Muti promette una rassegna al femminile

男性らしさ、女性らしさを、端的に、強い決断性、慈悲深い優しさ、というならば、人間としてどちらも理想として備えていることを求められるキャラクターであり、仕事においても、どちらも理想として求められています。マエストロは、仕事に就いている女性について、偏見のない理解を持っていることがよくわかります。嬉しいです。

マエストロの女性観は、こうやって語られなくてもおのずとわかることで、思い描いていたとおりでした。
漫画家の聖千秋の作品をこよなく愛してきたわたしは、彼女の作品に登場する男性達のやさしさは、マエストロが女性に求めているものと同じだなあ、といつも思っていました。

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Thursday, 03 April 2008

30年間以上抱きあってきた敬意

昨日、ラベンナのマエストロ・ムーティ宅(別邸。ラベンナの田園地帯San Pietro in Trento にあります。Corsera紙は記者会見を「ピクニック」と称していました)で、ラベンナ音楽祭、ザルツブルク音楽祭に関する「記者会見」が、両音楽祭首脳出席のもと、行われました。マエストロ・ムーティが両音楽祭に関わっていることから、そのような記者会見になりました。

マエストロの両音楽祭での公演は既に発表されているとおりです。

会見で語られたことのひとつが、マエストロ・アッバードのことでした。

マエストロ・ムーティによれば、30年間尊敬しあってきたし、それぞれの道を歩んできた、ライバル関係はメディアが誇張しているもの、とのことです。マエストロ・アッバードからケルビーニ管とのコラボレーションの話を持ちかけられた際、ケルビーニ管にとって素晴らしい経験になると考え、快諾したそうです。
また、マエストロ・ムーティはスケジュールがいっぱいで、このようなプロジェクトで指揮をとることは無理だけれども、マエストロ・アッバードがボローニャ以外でもコンサートを望むなら、ケルビーニ管にとって経験を深めることになり、オーケストラには幸運なことだ、とも語っています(マエストロ・アッバードはインタビューで、このようなプロジェクトがボローニャだけで行われるのはもったいない、と語っていました)。

2008年4月3日 Il Quatidiano
Muti: "Saranno i giovani a salvare la musica"

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Friday, 28 March 2008

ブラスバンドへのエール

昨日のCorsera紙に、イタリアのブラスバンドの素晴らしさと窮状を訴える、マエストロ・ムーティのインタビューが載りました。今年のラベンナ音楽祭でマエストロはブラスバンドを指揮しますが、その意義を語ったものです。

昨日の朝、マエストロのオフィシャル・サイトから、マエストロはすぐによくなるだろうし、何の心配もない、とのメールが届き、ほっとして出勤しました。
いつもイタリアの音楽文化の現状に目配りしているマエストロですが、こうやって窮状を強く訴えるインタビューが昨日の新聞に載るのですから、あわてふためいた心配は余計でしたね。

インタビューについては、週末に紹介します。

同紙面にはマエストロの大きな指揮姿写真(真っ赤なシャツ)が載っています。制服姿のブラスバンドの写真との組合わせが美しい紙面になっています。
また、同紙はブラスバンドを扱った映画も紹介していました。マエストロも触れているトトのものはたぶん観ていませんが、ほかの二つ、『ブラス!』、『迷子の警察音楽隊』は、マエストロのブラスバンドへの興味に刺激されて、観にいきました。
今年もモルフェッタでの復活祭休暇でバンドの演奏に心を動かされたマエストロ。こんなふうにマエストロに導かれて、ブラスバンドへの興味も一層深まりました。本当に、心の師、です。

2008年3月27日 Corriere della Sera

Riccardo Muti: «Salviamo le bande»

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Sunday, 24 February 2008

サン・カルロ歌劇場への再登場(1)

ナポリのサン・カルロ歌劇場の若き凄腕代表者Commissario、Salvatore Nastasiのニュースには、嬉しい驚きがありました。マエストロ・ムーティがサン・カルロ歌劇場に戻ってくるようにしてくれたこと、そして、同歌劇場の再建への道のりが見えてきたことは、ファンとして大きな喜びです。

ナポリの新聞に載ったマエストロのインタビューをまじえた記事を紹介します。

2008年2月21日 Il Mattino
Muti: «Torno per il nuovo San Carlo»

「ええ、サン・カルロ歌劇場を指揮しに来ます...私はナポリ生まれで、自分の町に戻ってくるのです。」リッカルド・ムーティは晴れ晴れとした声で、少し興奮しながら、その演奏会について認めた。2009年2月に、6ヶ月の工事の後劇場が再開される際のものである。サン・カルロ歌劇場を指揮するのは25年ぶりで、マエストロと同歌劇場の間の断絶を示すことになった宿命の《マクベス》以来のことである。

近年、ムーティはしばしばサン・カルロ歌劇場に戻ってきている。けれども、いつも有名オーケストラとの客演である。今回は違う。同歌劇場のオーケストラと合唱団を指揮する。工事後の再開を告げる演奏会である。工事は2009年にまた7月から12月までの6ヶ月間続けられ、その間、劇場の活動は別の場所で分散して行われる。(略)

「Salvatore Nastasiに会い、次シーズン開幕のための貢献を申し出ました。」ムーティはラベンナからの電話でこう語った。ロンドンに出発しようとしているところで、フィルハーモニア管とスペインの幾つかの都市を訪れるツアーに向けたリハーサルを、22日からロンドンで始める。その後、ウィーンでは「彼の」オーケストラであるケルビーニ管のムジークフェライン・デビューがあり(《ドン・パスクァーレ》のコンサート形式での上演)、ニューヨーク、パリと続く。5月にはザルツブルクで、18世紀ナポリ派音楽に捧げる素晴らしい企画を継続させる。サン・カルロ歌劇場との間で発足するこの新しい共同関係を切望するならば、2009年2月の企画は、まさにナポリそのものにとって効果のあるものといっていいだろう。「プログラムについては考慮中です。」とのことだが、ムーティは、Cesare Mazzonisとも非常に緊密な関係にあることを明らかにした。彼とは既にスカラ座で一緒に仕事をしていて、Mazzonisは現在サン・カルロ歌劇場の芸術顧問を務め、この和解の中心人物である。

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Thursday, 21 February 2008

ナポリの優れていることを知ってもらう

今日のナポリの新聞は、ラベンナにいるマエストロ・ムーティに、電話をして行ったインタビュー記事を載せています。
マエストロはロンドンに発つ直前で、明日からはロンドンで、フィルハーモニア管とスペイン・ツアーのためのリハーサルを行うそうです。

マエストロがナポリのサン・カルロ歌劇場を指揮する目的は、ナポリの優れていることを知ってもらうため、その文化の素晴らしさを世に明らかにするためです。世界中を巡っているマエストロは、どの地でも多くの場合、ナポリのことがきちんと報じられていないのを残念に思っているようです。

2008年2月21日 Il Mattino
«Torno perché Napoli non è solo emergenza»

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Sunday, 17 February 2008

日経のインタビュー

今日の日経に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っています。昨夏、PMFで来日した際のものです。興味深いインタビュー記事をありがとうございました。

2008年2月17日 日経朝刊
ウィンナー・フェスト2008特集―オペラ新旧の演出、ウィーン国立歌劇場日本公演

――「コシ・ファン・トゥッテ」の舞台はマエストロの出身地、ナポリです。
 
「実は、最も好きなオペラが『コシ』なのです。ナポリは象徴的な描写であり、むしろユーモアの衣に隠された人間の悲劇、モーツァルトの音楽がたたえるペシミスティックな味わいにひかれます。『トゥッテ』の『テ』は女性全員を意味しますが、私には『トゥッティ』。人類普遍の真理に思えます。十七―十八世紀のナポリに花開いた音楽文化、ナポリ楽派は欧州各地の文化に影響を与え、『コシ』にも強く反映されています」
 
――日本公演には名歌手が勢ぞろいします。
 
「全員、私が自らピアノを弾き、鍛えた歌手たちです。ロベルト・デ・シモーネの古典的格調を備えた演出にもみな十分に通じており、目の肥えた日本の観客も必ず満足してくださるでしょう」

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Saturday, 05 January 2008

《花から花へ》の変ホ音

マエストロ・ムーティは昨年11月にパドヴァでケルビーニ管と演奏する前に、Il Gazzettino紙の長い多岐にわたるインタビューに応じています。インタビューが掲載されたことはここでも紹介しました。

楽譜への忠誠については、このインタビューにおいても、ただただ頑ななだけの不動のものではなく、道理に基づくものだ(不動ではない)としているのですが、例のひとつに、スカラ座で上演した《椿姫》の《花から花へ》をあげていました。録音・映像でも確認できる場面です。
なお、これに引き続き、マンリーコについても理由を挙げながら語っています。

インタビューの全文は追って、また。

2007年11月11日 Il Gazzettino
Muti: «Aboliamo la prima alla Scala»

スカラ座で26年間とりあげられなかった《椿姫》を上演したときのことです。第一幕の終わり、私は、Fabbriciniがカバレッタには書かれていない有名な『変ホ音』を歌うのを許容しました。ベルカントの打ち上げ花火が何本も披露された後の締めくくりが、このようなpuntaturaピークを欠くと、むしろ、生気のない、ぼんやりしたものに聴こえました。このようなわけで、そのかわりに、ヴィオレッタのアリアを解放的な熱狂を伴って終える可能性が、ソプラノに与えられたのでした。

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Friday, 04 January 2008

ナポリの黄金の響きの発見(3)

マエストロ・ムーティが2007年のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を前に、ドイツの新聞に語ったことの残りの部分を紹介します。

ナポリのサン・カルロ歌劇場では、ロベルト・シモーネが演出したナポリ派のオペラが上演されていて、スカラ座との提携により、スカラ座でも2007年10月に上演されています。また、サン・カルロ歌劇場のサイトにはナポリ派オペラの上演記録も載っています。

Teatro di San Carlo, Napoli
http://www.teatrosancarlo.it/home.html

IL TEATRO
Tournee 2007

Il San Carlo al Teatro alla Scala di Milano
Socrate Immaginario
Mercoledì 10, Venerdì 12 ottobre 2007
Produzione del Teatro di San Carlo
Musica di Giovanni Paisiello
Revisione musicale di Roberto De Simone

IL TEATRO
Barocco Napoletano
IL SETTECENTO MUSICALE NAPOLETANO IN SCENA AL TEATRO DI SAN CARLO

2007年5月23日 Die Welt
Riccardo Muti entdeckt Neapels goldene Klänge

サン・カルロ歌劇場では、この様式のオペラのリバイバルに、ここのところしばらく恵まれています。私は、ザルツブルクというオーストリアで最もイタリア的な街で、同じことを企てたいと思っています。選んだのはチマローザの《ドン・カランドリーノの帰郷》です。二人の女性と魅力的なぺてん師のこっけいな恋物語で、物悲しさをまじえたものです。また、レチタティーヴォがその正確な特徴を備えていることを特色としていて、レチタティーヴォは周到に技巧がこらされていますが、しかし、しばしば全く自由に作曲されています。台本はGiuseppe Petrosinelliによるもので、彼は、モーツァルトの《偽の女庭師》のテキストも提供していました。このチマローザの作品は、ナポリ音楽院の素晴らしい司書が私のために選んで提案してくれた、30ほどの作品のひとつでした。

このチマローザのオペラは1778年の作品です。そして、Alessandro Scarlattiの題名のないオラトリオ《四声のために》は1717年のもので、マリアの人生について瞑想していて、ヨハネ、ニコデモ、大祭司オニアも登場しますが、これはコレギエン教会で演奏します。このニ作品の並置はルイジ・ケルビーニ・ユース・オーケストラとの私の仕事における、様式上の範囲を示しています。このオーケストラのメンバーはイタリアの最良の音楽院から募集されています。ラベンナ音楽祭では、このオーケストとを初期古典派の音楽を主に演奏するつもりです。私はイタリア音楽の伝統の明白な特性を蘇生させたいと思っています。たとえば、その昔バイオリンにおけるイタリア楽派に典型的だった、特に素晴らしく発達した左手の妙技です。

このようにして、我々はザルツブルクにナポリの舞台を再現する予定です。実際、200年前に祖先がやったのと何の違いもないことをするつもりです。それは、現代の不屈の政治家達がやっているのと同じことをすることになります。芸術を通してですが、ヨーロッパをより一層緊密に統合させることです。来年はPaisielloの "Matrimonio inaspettato"とJohann Adolf Hasseのオラトリオが呼び物になります。パリとモスクワの歌劇場が、このプロジェクトをもってくることに関心を示しています。そして、イタリアにおいてでさえ、たとえ、ゆっくりだとしても、とうとう、ことが動きだしつつあります。

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Thursday, 03 January 2008

ナポリの黄金の響きの発見(2)

昨年のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を前にして、マエストロ・ムーティがドイツの新聞に語ったことの続きを紹介します。

2007年5月23日 Die Welt
Riccardo Muti entdeckt Neapels goldene Klänge

この理由から、『ナポリ:回顧の街』が、今後少なくとも3年間は、私が監督するザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のモットーになります。3年間といっても、しかし、ここには100シーズン分に十分なものがあります。誇張すべきことではなく、真実です。

私の興味は、ナポリの音楽上の黄金時代を呼び戻すことにあります。ロッシーニやドニゼッティもまた、もちろん、ヨーロッパ最古の歌劇場のひとつである著名なサン・カルロ歌劇場のために、たくさんの作品を作曲しましたが、私は彼らのことを意味しているのではありません。バロックや初期古典派のことを言っているのです。当時に遡ると、ナポリはヨーロッパにおける主要な音楽的中心のひとつでした。そこで作曲され、初演された作品は、ただちにヨーロッパ大陸中の宮廷や大都市に輸入されました。その中には、特に、ウィーンがあります。二つの大都市は緊密につながっていました。それは、ハプスブルクとブルボンの血縁関係、そして、後年にはハプスブルクの総督さえナポリにいたことだけが、理由ではありません。音楽上は、二つは『双子の都市』でした。

ベズビオ火山、ナポリ湾、ポンペイの初期発掘を見たい若い貴族にとって、ナポリはグランド・ツアーにおける必須の滞在地でした。ナポリはオリエントへの架け橋でもありました。当然のことながら、訪れた人達は、その当時の新しい流行をつくっている作曲家達の音楽を聴きたいと思いました。Porpora、Jomelli、Leo、Piccinni、Traetta、ScarlattiそしてPergolesiです。これらの作曲家達は四つのカレッジで教えていました。それは後に統合されて、ナポリ音楽院 the Conservatorio San Pietro a Maiellaを形成しています。ナポリ楽派は一種の源泉で、残りのヨーロッパにとって聴くべき楽派となっていました。

このグループで長い間リーダーだったのがGiovanni Paisielloで、エカテリナ大帝下のサンクトペテルブルクで宮廷作曲家としても活動していました。不運なことに、彼が非常に成功を収めた《セビリアの理髪師》は、後に、ロッシーニの斬新なバージョンによって脇に押し出されてしまいました。とりわけ、Paisielloはすぐれたオペラ・ブッファを作曲しました。オペラ・ブッファとは、ナポリでオペラ・セリアの幕間に上演された、コミカルな幕間演芸から発展したジャンルです。オペラ・ブッファの中で最も有名なのはPergolesiによる《奥様女中》で、彼は非常に若いうちに亡くなりました。オペラ・ブッファは普通の人達を題材にし、その土地言葉を利用していて、ほとんどが、粗野なナポリ方言を話す登場人物達を擁していました。それらはナポリとその郊外を背景に設定していて、たとえば、《マレキアーロの居酒屋》です。

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ナポリの黄金の響きの発見(1)

大変に遅くなりましたが、マエストロ・ムーティが昨年のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を前にして、ドイツの新聞に語ったことを紹介します。

先日『消えたカラヴァッジョ』(岩波書店、ジョナサン・ハー)を読みましたが、その中で印象深かったのが、探している資料を、保存期間の壁からGBで見つけ出すことができなかった若き美術研究者が、イタリアなら文書は破棄されることなくずっと保管されている、と主張していることでした。彼女がカラバッジョの絵の保管について、貴族の財産目録の中から探す様子にはマエストロのことが想い起こされて、わくわくしました。

2007年5月23日 Die Welt
Riccardo Muti entdeckt Neapels goldene Klänge

たくさんのほこり!かつて、ナポリ音楽院Conservatorio San Pietro a Maiellaで学び、文書庫で時間を過ごしたことがあるというのに、そのことを全く忘れていました。それは古い修道院にあり、膨大な資料が何世紀にもわたって集められていました。そこに収集されている自筆のオペラ楽譜の中にある眠れる美女たちのことを思うとき、いつかそれらのいくつかにキスをして、眠りから起こすことになるだろう、といつもわかっていました。

Jürgen Flimm がまさにそういう考えを抱いてラベンナにやってきて、改良されたザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を私に提示したとき、そのときがきたということにすぐに気づきました。たとえば、90のオペラを作曲したドメニコ・チマローザの自筆譜は、ほこりにおおわれています。いくつかの部屋で、それらは天井まで積み上げられていて、半透明のアラバスターの窓によって照らし出されています。けれども、それらは驚異的なまでにいい状態で保存されていて、最高の明確さをもった手書きの自筆譜なのです。これまでに出版されたことはなく、目下のところ、何世紀も無視されてきました。この図書室に戻ったとき、即座に『薔薇の名前』に出てくる伝説的な図書室のことを思い出しました。けれども、Girolaminiジロラミーニ僧院の図書室ではすべてが非常に形式ばらないようになっていて、最も稀有で最も貴重な手書きが、保護警備手段を経ることなく、直接手元に運ばれてきます。ここでは信頼がすべてなのです。

突然、これらの書の中にこの200年間の間閉じ込められていた人達と出くわすことになります。ここでは歴史にじかに取り囲まれます。細かいほこりをかぶったのとは違います。確かに、他の国ではもっと大きな注意を払って自分達の文化遺産を扱っています。しかし、ここを支配しているのは、歴史に対する形式ばらない接し方であり、南イタリアに典型的なものです。

ヴィヴァルディ・ルネッサンスと、私の長年にわたる、初期古典派作曲家ルイジ・ケルビーニへの没頭に引き続いて、今や、チマローザとその一派、ナポリ楽派の時代がやってきています。ここでは誰もが、発見の楽しみにふけっている考古学者になります。また、これらの素晴らしい創造物のどれを最初に耳に聴こえるようにするか、どれを最初に再び生き返らせるかは、ほとんどわからない考古学者です。特に、楽譜は非常に完璧に書き写されているので、我々に必要なのはそれらをコピーしてリハーサルを始めることだけで、それがすべてなのです。

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Wednesday, 02 January 2008

ザルツブルクでの《オテロ》(4)

マエストロ・ムーティがザルツブルク音楽祭で上演する《オテロ》について語ったインタビューの、残りの部分を紹介します。
この雑誌をくださった方に、あらためてお礼申しあげます。ありがとうございました。

マエストロのインタビュー最後の言葉に、スカラ座での《トロバトーレ》の演奏を思い出しています。
あの演奏は洗練されていて、後期フランドル派絵画のような美しさがあります。

マエストロとオーストリアのつながりの強さを、あらためて思いました。
ナポリ派音楽もヴェルディも、オーストリアとの関連を抜きにしては語れないことは、マエストロによって再三再四触れられてきています。
そして、ウィーン、ウィーン・フィル、ザルツブルクとの相思相愛の緊密なつながり。
ファンとして、マエストロにとって大切な地、心の地であるウィーンへのあこがれは、つきることがありません。

Salzburg Festival Magazine 2008年1月号
Riccardo Muti conducts Verdi's "Otello"

「《オテロ》で気がつくことは、ヴェルディの初期のオペラに既に存在することです。たとえ、当然のことながら、その後成長して洗練され、オーケストレーションが一層成熟していったとはいえ、若いヴェルディの中には、後年作曲するものがすべて、既にありました。けれども、初期のオペラにおいてさえ、オーケストレーションは全く完璧です。彼は作曲家としては、ベッリーニ、ドニゼッティといったベル・カント時代の最後の生まれです。初期の段階のそのテクニックは、基本的には非常にシンプルで、ナポリ派に起源を持っていました。その後、マイアベーア、ワーグナー、ケルビーニそしてスポンティーニの音楽の影響の下で、進展しました。ヴェルディはすべてを吸収しました。」こうムーティは言い、ヴェルディのオーストリア・ルーツに言及して締めくくった。「ヴェルディは次のようなものの所産です。若い頃はイタリア人の作曲家と教師のもとで音楽を勉強しましたが、彼が学んだ音楽は主にオーストリアのものでした。結局のところ、ミラノは当時オーストリアに属していたからです。彼にはピアノ、フルートと三つの声のための作品がありますが、その室内楽を聴くと、シューベルトの音楽にまさしく似ています。シューベルト、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン。彼らはヴェルディに影響を与えた作曲家でした。彼の最も初期のスコアにさえ、表現における古典的な清澄さがあります。」

「サンタ・アガタにはヴェルディの家がそのままの状態でありますが、ベッドサイドには彼が絶え間なく研究していた三つのものがあります。モーツァルト、ハイドン、ベートーベンの四重奏曲です。彼はイタリア楽派出身ですが、イタリアの伝統を遡る必要があると考えていました。モンテヴェルディとパレストリーナについて絶えず語り、一方では、若い頃には、独墺の音楽も吸収していました。彼の古典的なアプローチを理解するには、このことが重要です。また、これが、なぜヴェルディが極度にエレガントで古典的にそして、透明感溢れる風に歌われるべきか、ということの理由です。」

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ザルツブルクでの《オテロ》(3)

マエストロ・ムーティが、ザルツブルク音楽祭で上演する《オテロ》について語ったものの続きを紹介します。

ウィーン楽友協会機関誌2008年2月号が届きました。表紙は2月に来演するプレートル。3月号の表紙はマエストロかな、と楽しみです。
サッカーをウィットのきいた小道具にしたプレートル指揮ニューイヤーコンサートを、楽しく観ました。欧州選手権といえば、大好きな選手であるプラティニとファン・バステン、ルイ・コスタが思い出されます。今年はピルロに期待。

Salzburg Festival Magazine 2008年1月号
Riccardo Muti conducts Verdi's "Otello"

《オテロ》第三幕について、ムーティは彼の先行するプロダクション同様、第二フィナーレを使うつもりである。「通常は第一版で上演されます。ヴェルディはフィナーレの最後の10分を全く書き直しました。彼はイアーゴについて、もっとはっきりと描きたかったのです。第一版では広くさっと衝撃をもたらすことと鮮やかな効果をねらおうと努力が払われていますが、イアーゴ自身は焦点からはずれています。第二版は彼の陰謀がもつ極悪非道な性格を見せます。」

リッカルド・ムーティ:「《リゴレット》のようなオペラでさえ、『アリア・オペラ』ではありません。これを作曲したときに、ヴェルディはこう書いています。『私はデュエットしかなく、アリアのないオペラを書きました。』《リゴレット》は音楽における真の劇の最初の例です。これは中断のないオペラで、モンテヴェルディのオペラと対照をなしうるものです。ヴェルディはこの作品を非常に気に入っていました。ヴェルディは、もしもひとつだけ選べるとしたら、どのオペラを選ぶかとたずねられて、即座にこう答えています。『《リゴレット》。』これは非常にモダンなオペラです。当時、ワーグナーが登場して、ヴェルディの人生に決定的な瞬間が訪れていました。彼はワーグナーのスコアに非常に興味を持ちました。大きな関心をもってそのスコアを読み、注釈をつけていました。ボローニャで《ローエングリン》が上演されたとき、ヴェルディとBoitoが聴衆の中にいました。このとき、ヴェルディとBoitoの二人は話をしていません。当時、Boitoはまだヴェルディを嫌っていたのです。ヴェルディはワーグナーを模倣することには乗り出しませんでしたが、もちろん、その音楽に影響を受けました。Angelo Marianiはヴェルディものの指揮者で、その後、ワーグナー指揮に進みました。マルトゥッチ、トスカニーニ...イタリアではワーグナー・コネクションは非常に強力です。ヴェルディは確かに、当時ヨーロッパ中で感じられたワーグナーの影響を非常に大きく吸収しました。とはいっても、ヴェルディがもし今ここにいたら、そのことについて、もちろん大いに論争しようとするでしょうが。彼の作品におけるワーグナーの影響は、広く認められている《フィルスタッフ》においてではなく、確実に《オテロ》において、必ずや感じられます。」

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ザルツブルクでの《オテロ》(2)

ザルツブルク音楽祭で上演する《オテロ》について、マエストロ・ムーティが語っているインタビューの続きを紹介します。

ピッチを低くして演奏するための器具、あるいは楽器がイメージできません。これに関する別の記事が出てくるのを待っています。

Salzburg Festival Magazine 2008年1月号
Riccardo Muti conducts Verdi's "Otello"

ムーティは、Arigo Boitoによって書かれたオペラ、すなわち、《オテロ》と《ファルスタッフ》における、台本作家と作曲家の共同作業の特別な性格を強調する。「ヴェルディ自身がこのテーマについてどう言っているかを思い出さなければなりません。『最初のオペラから《オテロ》までは、聴衆のために書いていました。《ファルスタッフ》は自分のために書きました。』《オテロ》は、それに先立つヴェルディのすべてのオペラ作品を要約したものという意味において、彼の他のすべてのオペラの総まとめです。《ファルスタッフ》では、ヴェルディは自分が創造したすべての業績について、メランコリックな微笑みを浮かべながら回顧しています。《オテロ》は彼のオペラ作品における総合計なのです。」

ムーティは続ける。「ヴェルディは英語を話しませんでしたが、シェークスピアの作品には親しんでいました。《マクベス》のことを考えさえすれば十分わかることです。彼はイタリア語の翻訳でシェークスピアを知っていました。Boitoは非常に教養のある人でした。彼がキャラクターの描写に何も入れなかったというのは事実です。これはヴェルディによくあることですから。けれども、台本は非常に洗練されおり、まさに《ファルスタッフ》も同様です。このザルツブルク・プロダクションのために、GBの演出家、Stephan Langridgeとイタリア人指揮者を配するというアイデアは、非常に興味深いものです。私達はすでに何度か話し合っていますし、私はアイデアに対してとてもオープンです。結局のところ、私の最初の《オテロ》は、キャラクター達自身については依然としてシェークスピア風だったとはいえ、非常にモダンなものでした。プロダクションが写実的なものであるかどうかは、重要なことではありません。大事なのは、舞台で物語がどう語られるかということなのです。」

ヴェルディはオーケストラに対して、通常よりも非常に低い調律を求めた。現代は、444Hz、443Hz、442Hzのピッチがオーケストラには普通だが、ヴェルディは《オテロ》の上演に際して、432Hzあるいは443Hzより高いピッチを許さなかった。彼は非常に暗い音を求めていたのである。ムーティは言う。「もちろん、442Hzと432Hzの間には、音色の違いを除けば、それほど大きな違いはありません。我々は436Hzあるいは437Hzあたりで調律することを目標にしています。そして、これを達成するには新しい器具が必要です。それは同じ抑揚を得るためのもので、パリから既に取り寄せています。この音の効果は驚異的です。ヴェルディが求めていた暗い音色がまさにあるのです。」

(この記事に続きはありません)

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Tuesday, 01 January 2008

ザルツブルクでの《オテロ》(1)

ニューイヤーコンサートの放映が始まりました。ウィーンの街が映ったのには心がひきつけられました。
マエストロ・ムーティが次に指揮するのは...と大きな記念年を時々探ったりしています。

いただいたザルツブルク音楽祭機関誌に載っている、マエストロへのインタビューを紹介します。貴重な資料をありがとうございました。
《オテロ》のスカラ座上演の頃はイタリア語がほとんど読めなくて、本や記事を探すのにうろうろしていました。またこうやってマエストロの《オテロ》観を読めるのを、とても嬉しく思います。

Salzburg Festival Magazine 2008年1月号
Riccardo Muti conducts Verdi's "Otello"

ムーティの最初の《オテロ》はフィレンツェ歌劇場で1970年代終わりに上演された。ムーティは言う。「それはMiklos Jancsoによって演出された重要なプロダクションでした。彼はハンガリー出身の有名な映画監督で、 時代の遥か先を行っていました。上演は写実的なものでは全くありませんでした。オペラは、オテロの乗る船の巨大な模型が、オテロを待ってデズデモナが横たわるベッドに、凄まじい音をたてて激突することで始まりました。その舞台表現が意味することは明確でした。もちろん、そういった演出コンセプトは大いに物議をかもし、聴衆の中の保守的な人達と、新しいアイデアに対してもっと許容的な人達の間での、大きな議論に至っていました。」

2000年12月にムーティは再び《オテロ》を上演した。スカラ座が、その建築に十分な間中アルチンボルディ劇場に引っ越す前の最後の年である。「今度はドミンゴ、フリットリ、そしてヌッチが出演し、演出家はGraham Vick、舞台装置はEzio Friggerioでした。我々はこのプロダクションを日本公演に持って行きました。ドミンゴの最後の《オテロ》でした。私は特に彼の出演を切望しました。というのも、Vickersのオテロの後、ドミンゴのキャラクター解釈―それは非常に説得力があって知的です―が、最も人を引きつけるものだと考えているからです。彼には声だけでなく、フレージングの独創性がありました。結局のところ、オテロは非常に複雑なキャラクターですが、イアーゴが極悪非道な性格を持っているのに対して、オテロはもっとまっすぐです。思い出してください。オテロは高位の軍人で、非常に知的な人間として描かれるべきなのです。そして、もちろん、彼はその肌の色のため、問題を抱えています。」

「デズデモナのキャラクターもそうです。」ムーティは登場人物の描写を続ける。「複雑です。ジルダと同じです。《リゴレット》ではジルダはしばしば、単なる愚かな少女とみなされていますが、実際には、子供のような純真さの下には、愛のためにみずからを犠牲にする用意のある情熱的な女性がいるのです。デズデモナはうぶで、だまされやすい人間ではありません。最後には彼女は、オテロが自分を殺そうとしていることに完全に気づいています。彼女は、自分を待っているのが、結婚した新妻の床というよりは、死の床であることを十分に承知しています。」

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Monday, 31 December 2007

ストレーレルの思い出(2)

マエストロ・ムーティがストレーレルを偲んでいるインタビューの残りの部分(一部)を紹介します。

2007年12月15日 Corriere della Sera
«Il mio Strehler »

最も貴重な思い出は手紙である。
「《ファルスタッフ》上演の後、《アイーダ》のためにしばしば会いました。私のところに彼から、ナイルについての本が持ちこまれました。ナイルの世界や砂漠、空の写真が載っていました。彼はシンプルで、何もないタイプの《アイーダ》を望んでいました(黄金もなく、大道具もないタペストリーによる《アイーダ》)。そこでは主演者達の魂が主役で、時と、どこまでも続く地平線の空間があるだけです。サバンナの典型的な夕暮れの絵も送られてきました。空はストレーレルによくあるブルーが暮れていっているもので、暗闇の影がところどころに見えます。亡くなる2ヶ月前にはこんな表題のついた手紙をもらいました。『我々が決して上演できない《アイーダ》のために』はたして、死を予感したものだったのかどうか。この手紙を読むと、今でも胸がつまります。」

激論になったことはありますか。
「芸術上のことではありませんでした。何度か歌手達について口をはさみ、もうひとりの中心人物になっていました。指揮台で腕が4本動いているようなもので、彼には腕は2本で十分だとわかってもらいました。」

ヴィスコンティ、ストレーレル、ロンコーニ。歌劇場における彼らの演出出現の意義は何でしたか。
「De Chirico と Maccari が、Francesco Sicilianiによってフィレンツェに招かれたのを別にすれば、当時まではスペイン、フランス、ドイツ、そして東欧の演出家の独壇場でした。しかしながら、独創性・活気・メランコリー・イタリアの素晴らしい美的センスといったものを備えたインスピレーションを歌劇場にもちこみながら、ヨーロッパ文化と関係を持たせたのが、この3人の偉大な名前でした。これまで、たくさんの重要な演出家達とオペラを検討してきました。1970年代には、フィレンツェ歌劇場にイタリアではじめてVitezのような演出家を招き、そして、《オテロ》をJancsoと上演しました。」

ストレーレルがミラノのピッコロ劇場を去ったことは議論をよびました。彼の長きにわたる協力者Nina Vinchi は、ミラノは彼を横柄に扱ったと言い、政治家達を不適格だと告発した。
「当然の言い分です。ストレーレルはミラノに大いに貢献しました。ミラノは彼にほとんど寛容ではありませんでした。」

彼の傑作はモーツァルトですか。
「私との《ファルスタッフ》の演出とアッバードとの《シモン・ボッカネグラ》の演出が、基準となる二つです。けれども、確かに、モーツァルトは彼の最高峰でした。」

人間としてのストレーレルは?
「気分屋で、人好きがして、子供のように純真で、無邪気な面を持っていました。その伝説からは外れていて、本質的には傷つきやすい人でした。私達は、いつも互いに好意を持っていました。」

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ザルツブルク音楽祭機関誌

大変にお世話になっている方から、ザルツブルク音楽祭機関誌1月号をいただきました。
どうもありがとうございます。
マエストロ・ムーティがカバーストーリーになっていて、2008年夏に上演する《オテロ》について語っています。

以前は同音楽祭のフレンズに登録していたのですが、ランクの低い会員のため会費が銀行振込で、非常に煩瑣でやめていました。機関誌が読めなくなったのを残念に思っていました。
でも、このように嬉しいお心遣いをいただき、とてもとても感謝しています。

インタビューで興味深かったことのひとつが、スカラ座上演《オテロ》でも話題になった、ピッチです。
通常より低く調律するようで、そのために器具をパリに特注しているとのことです。

Salzburg Festival Magazine for Friends and Patrons 2008年1月号
Riccardo Muti Conducts Verdi's "Otello"

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Sunday, 30 December 2007

ストレーレルの思い出(1)

没後10周年を迎えたストレーレルについて、マエストロ・ムーティが語っている記事を紹介します。
マエストロとストレーレルが一緒に写っている有名な写真は、マエストロのオフィシャル・ウェッブサイトにも載っています。

Riccardo Muti Official Website
Immagini
Riccardo Muti e gli ospiti
Il regista Giorgio Strehler
http://www.riccardomuti.com/gallerie.aspx

2007年12月15日 Corriere della Sera
«Il mio Strehler »

ジョルジョ・ストレーレルは10年前のクリスマスの晩に亡くなった。リッカルド・ムーティ(今夜はラベンナでチマローザ《ドン・カランドリーノの帰郷》を上演)が、18日火曜日にローマのValleで自分のオーケストラ、ケルビーニ管と開くコンサートは、ストレーレル崇拝者達による記念行事の頂点である。プログラムはPorporaの”Salve Regina”と Pergolesiの” Stabat Mater” で、歌手は Barbara Frittoli と Monica Bacelliである。
「私は、舞台では美のキングであったこの芸術家のために、ナポリ派音楽の二つの作品を考えました。純粋な美しさを備えている音楽で、外向的ではなく、名人的なところのある音楽です。」

ムーティとストレーレルはスカラ座で三つの上演を実現させた。1981年にモーツァルト《フィガロの結婚》、次に1987年にモーツァルト《ドン・ジョバンニ》、最後に1993年にヴェルディ《ファルスタッフ》。
マエストロ・ムーティ、二人はどんなふうに仕事をしましたか。
「指揮者と演出家の共同作業としてこうあるべきであろう、と思われるような最高のものでした。《フィガロの結婚》の写真で、客席で隣あって座っているのを写したものがあります。音楽のリハーサル、舞台稽古の二つはひとつになっていました。演出家は指揮者になり、またその逆もありました。彼は歌手を啓発していました。歌手達は最終目的を成し遂げるために、この二人によって稽古をつけられていたのです。こういうことはもはや起こりえません。非常に稀有なことです。」

リハーサルでは双子であり続けました。細かく気を配るムーティ、細心の注意を払うストレーレル。
「ひとつの言葉に20分間こだわりかねない人でした。かつらがふさわしくないと顔を曇らせ、照明のカットが熟慮された結果のものでないと顔をしかめていました。私は成長を助けられました。彼は、普遍性をもった美というものへの敬意を世の中に教えました。現在我々は、アルプスの向こう側ドイツによる、鈍重で、いつも重々しく、陰鬱な演出をしばしば崇拝しています。」

スカラ座開幕公演におけるワーグナー上演を指しているのですか。
「いいえ、シェローはフランス人です。ドイツ人演出家のことを言ったのです。」

でも、テレビで上演を観たでしょう?
「いいえ、不可能でした。12月7日はミュンヘンでコンサートの指揮をしていました。全く別の仕事で忙しかったのです。」

12月7日はあなたにとって特別の味わいがありましたか。
「私にとって全く重要ではありませんでした。それどころか、何年も、次のようなことをして、何の疑いもなくいつも論議を投げかけていました。夜会服やスパンコールのパレードのような、勲章をひけらかすような類いのパレードのような12月7日は、音楽とは何の関係もなく、廃止されるべきだと主張していたのです。12月7日にはミラノ市民にスカラ座を開放したらいいでしょう。今私はこのように最高にいい状態です。1968年から音楽監督に就いてきましたが、みずからの自由を喜んでいます。」

ストレーレルに戻りますが、彼から何を学びましたか。
「たくさんのことを学びました。既に身についているはずのことについても学びました。素晴らしいナポリ方言があるので、私が俳優や演出家になれると彼は言ったのです。おそらく、彼は指揮者になれると私が彼に言うことを、期待していたのでしょう。」

目を閉じて、彼の銀色の髪を思い出すと...
「ストレーレルの家でナイトガウンを着て彼と再検討しました。彼は演じながら、《ドン・ジョバンニ》についての想いを語っていました。それはひとつの舞台でした。何時間もそれを聞き続けることができました。ジョルジョはいつも不満足そうでした。非公開のゲネ・プロが終わり、私は指揮台の後ろのドアを開いて、客席にいる彼に近づきました。彼は頭を揺らせて、私の肩に手を置きました。顔つきは憂鬱そうで、憤懣やるかたない様子でした。『ねえ、リッカルド、我々の《ドン・ジョバンニ》は不十分だ。』そして、悪魔のような顔つきに変わりました。『でも、誰もこうは上演しないだろう!』そうです、まさにこういう人間であり、芸術家でした。」

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Thursday, 20 December 2007

レーピンのインタビュー

マエストロ・ムーティとベートーベンのバイオリン協奏曲を録音したレーピンのインタビューが、レコード芸術誌最新号に載っています。
とてもいいインタビューでした。素晴らしい録音が残せて、企画してくれた彼には心から感謝しています。

レコード芸術誌 2008年1月号
インタビュー ヴァディム・レーピン

リハーサルで最初にお会いして、作品について少し話し出したのですが、スコアを見ているうちにムーティさんが、「ちょっと弾いてみましょうか」と仰いました。ご存じのように、彼はピアノを素晴らしく弾きます。それで最初から始めたのですが、なんと最後の最後まで、止まることなく弾ききってしまったのです。我々の間に魔法が起こった、とでも言うのでしょうか。

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Sunday, 16 December 2007

マエストロの今後の予定

昨日のメッサジェーロ紙がマエストロ・ムーティとローマの関係についてインタビューを載せていました。これまでも繰り返し報じられてきたものです。

その中で、2008年《オテロ》、2009年グルック《Ifigenia in Aulide》、2010年モーツァルトのオペラを振ることが、また語られています。
マエストロは、今のところ、知らないオーケストラは振らないとしながらもローマ歌劇場は別としています。デビュー時からローマの聴衆には喜びを感じてきた、とのこと。

今後の予定に目新しいものはありませんが、ここでも、マエストロ・アッバードの求め(ケルビーニ管、モーツァルト管、イタリア・ユース管でベルリオーズ《テ・デウム》を演奏する)に非常に喜んで応じた、と言っています。

2007年12月15日 Il Messaggero
Il mio futuro a Roma

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Wednesday, 12 December 2007

ケルビーニ管はイタリアの誇り

昨日のレプッブリカ紙ボローニャ版にマエストロ・ムーティのインタビューが載りました。ケルビーニ管について語っています。
総仕上げは、来年3月の楽友協会での《ドン・パスクァーレ》。演奏会形式です。

発売されたDVDからも、期待は高まるばかりです。行けたらいいのに、と残念です。

インタビューは追って紹介します。

2007年12月11日 la Repubblica
Riccardo Muti "Nel cuore della musica coi giovani della Cherubini"

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Saturday, 17 November 2007

青空の美しさ

マエストロ・ムーティのインタビューが載ったIl Venerdi(2007年11月2日号)を、興味深く読みました。

その中に、マエストロが購入したプーリアの土地とtrulliの写った小さな写真が載っていました。その写真からも、マエストロのtrulliからカステル・デル・モンテが見えることがわかります。そして、空の美しい青!
かつて澁澤龍彦で知ったカステル・デ・モンテが、マエストロの心の地でもあることをはじめて知ったときの驚きが思い出されます。

Il Venerdi 2007年11月2日
Riccardo Muti
Io, La Scala, I Politici

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Thursday, 15 November 2007

美のために

今日のヴェネトの新聞に、マエストロ・ムーティのインタビューが載りました。パドヴァで16日に、ケルビーニ管とコンサートを開くことに関連したものです。

非常に忙しいスケジュールの中で、マエストロはこのようなコンサート、美しいもののためのコンサートには、喜んで時間を割いてきています。そのことをインタビューでもたずねられていました。

サンクトペテルブルグ、モスクワ、チマローザの《ドン・カランドリーノの帰郷》を上演したラス・パルマスと、あなたのスケジュールは非常に密です。けれども、パドヴァでのこのような夕べのためには、いつも時間を見つけています。
「もちろんです。美を回復することは最も大切であり、また、最も根源的なことでもあるからです。ウィーン、ロンドン、ミュンヘンに向けてすぐに発つことになりますが、今は、ここにいて美に囲まれ、美のためにここにいます。」

今、美への愛について語る意味があるとしたら。
「美への愛情のない世界、調和・ハーモニーへの愛のない世界は、混乱しきっています。実際、そこにあるのは、戦争や飢餓、といったすべての悪です。私は古代ギリシア人たちのいうところの美について語り、そのために活動しています。我々はそれによって導かれていかなくてはなりません。彼らにとって、美というのは、また、真、善でもありました。」

2007年11月15日 Corriere del Veneto
Riccardo Muti
«Il mio concerto in nome della bellezza»

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Monday, 12 November 2007

特別な初日はいらない

マエストロ・ムーティはケルビーニ管と16日にパドヴァで演奏しますが、それに関連して、長文のインタビュー記事が出ました。

朝で時間がないので、追って紹介します。

主に、自分の師、原典に忠実であることについて語っていますが、最後にスカラ座初日について話しています。

スカラ座は、バレンボイムによるトスカニーニ没後50周年記念コンサートが、スカラ座で働く人たちによる賃上げ要求ストライキ(公演数の増加に基づくもの)でキャンセルされ、さらに、シーズン開幕公演のキャンセルも危惧されているのは報道されているとおりです。

マエストロは、スカラ座初日が上流社会の社交行事(ファッションショーのランウェイと香水、という言い方をしています)になっていることを憂えて、歌劇場はそのようであるべきではない、と、記事タイトルにあるように、そのような「初日」をやめることができたら、どんなにいいだろう、と常に考えていたそうです。閉幕するから開幕するのであって、いつも開いていればそのようなことはなくなるが...とインタビューを結んでいます。

2007年11月11日 Il Gazzettino
Muti: «Aboliamo la prima alla Scala»

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Saturday, 10 November 2007

リラックスした姿のマエストロ

昨日載せたはずの記事が消えていました。ショックです。

マエストロ・ムーティのインタビューがグラン・カナリアの別の新聞にも載っていて、その素敵な写真とともに紹介したのですが。

マエストロはとても寛いだ風で、多弁な感じです。

言葉の遊びがたくさん見られる作品だけれども、ドイツ系の観客の多いザルツブルクで成功したことからもわかるとおり、音楽の美しさだけでも訴えかけるもののある作品だ、と《ドン・カランドリーノの帰郷》を紹介しています。

また、自分の《ファルスタッフ》や《オテロ》、ヴェルディ レクイエムはこれからも聴いてもらえる機会はあるが、《ドン・カランドリーノの帰郷》は今を逃したらだめだ、と是非、聴きに来て欲しいという気持ちを語っています。

2007年11月9日 Canarias 7
Riccardo Muti: «Hacer música es hacer política»
http://www.canarias7.es/articulo.cfm?Id=71812

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Friday, 09 November 2007

スカラ座のストライキ

グラン・カナリアを訪れているマエストロ・ムーティのインタビューが、ラス・パルマスの新聞に載りました。
主にチマローザについて語っていますが、将来を嘱望される若い歌手のキャリアが続かないことの問題の所在や、スカラ座であったような、音楽監督と歌劇場のマネジメントサイドの問題についてもたずねられています。

2007年11月8日 La Provincia
RICCARDO MUTI: "Al descubrir nuestro patrimonio musical hallamos el nexo de una Europa unida"

時間がないので、後でまた紹介します。

事前に危惧が報じられていたように、スカラ座のヴェルディ レクイエム公演が、ゲネプロだけ行われ、ストライキにより中止となりました。

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Sunday, 04 November 2007

将来を、未来のために考えよう

今朝未明に読んだマエストロ・ムーティのインタビューに、胸が熱くなりました。
マエストロ・アッバードとのコラボレーションを、音楽と若者達の未来のために遂行しよう、という決意を語ったものです。

スカラ座でストライキが予定されていることについても、求められて語っていますが、取り急ぎ、このプロジェクトに関するマエストロの言葉だけ、紹介します。
本記事のほか、昨日のスタンパ紙、今日のピアチェンツァの新聞もこの企画を紹介していて、どちらも二人の写真を載せています。スタンパ紙は一面全面を使った記事で、二人がそれぞれのオーケストラを指揮している様子をカラー写真で載せています。

ちょうど、イタリア上院クリスマス・コンサートの映像を観て、そこでのマエストロのスピーチ、若い音楽家達の将来を考えようというスピーチにあらためて感動を覚えた直後だけに、ますます、マエストロへの敬愛の気持ちを深めました。
オフィシャル・サイトにも感動を伝えるメールを出しました。

大好きです、マエストロ!!

2007年11月3日 Il Sole 24 Ore
Intervista a Muti: «Io e Abbado...»

マエストロ・ムーティ、この企画はどうやって生まれたのですか。

ベルリオーズの《テ・デウム》を演奏することについて、私が創設したケルビーニ管を説得するよう、同僚であり友人であるクラウディオ・アッバードから申し出を受けました。もちろん、そのことを最高に嬉しく思いました。いい兆候です。若者達の能力を十分発揮させるよう、二人とも何年にもわたって働いてきたからです。私達は二人とも、若者という将来のために働こうと決意してきた、国際的に活躍する指揮者です。アッバードはすべての若き演奏家達を活躍させたいと望み、素晴らしい団体を固めるために、彼によって創設されたユース・オーケストラであるモーツァルト管、ケルビーニ管、そして、私の友人であるマエストロPiero Farulliによるフィエーゾレ音楽院のイタリア・ユース管をまとめる決断をしたのです。

コラボレーションの始まりです...

もちろんです。アッバードと私は、若者達によるオーケストラの間のコラボレーションは、あらゆる党派性、地域主義、そして愚かさを超越すると確信しています。将来のための前提条件の創設です。それについては、政府もまた、それ相応の注意を払う可能性があります。音楽教育は、良き社会のための基礎となるものです。このことについては、決して倦むことなく、繰り返して言います。我々の教育制度の恥ずべき欠陥を改善するために、何か動きを続けていくことを望みます。私が先のラベンナ音楽祭で既に、ケルビーニ管とイタリア・ユース管を指揮してベルリオーズの幻想交響曲を演奏したことを、強調したいと思います。この体験は来年も繰り返されます。私はケルビーニ管及び非常に若い歌手達と、モスクワとサンクトペテルブルグで《ドン・パスクァーレ》を指揮したばかりです。圧倒的な成功でした。ケルビーニ管と私は、《ドン・カランドリーノの帰郷》のためにラス・パルマスへ向けて出発するところです。建築家Calatravaによる新しい歌劇場に招かれています。サンクトペテルブルグでも、最新のホールで演奏しました。本当に非常に素晴らしいホールです。この観点からも、なんと苦々しく思うことか!世界中で素晴らしい歌劇場が開場しているのに、私達の国でだけ、歌劇場が閉鎖され、我々の才能ある人達を活用させることについて、これほどまでにほとんど何もなされていないのです。

コンサートはアッバードが指揮するのでしょうか。

そのとおりです。私達の間にはいつも、互いに尊敬しあう気持ちと友情がありました。私にとっては、このことはその人柄と指揮者としてのあり方についての敬意の表れです。私達はいつも、ライバル関係があるという推測に基づいてなされるあらゆる憶測から、距離をおいてきました。そのライバル関係視は、いくばくかは新聞によってなされ、またいくばくかは、誰に帰するのかわからないような利益を求める、よからぬ人達によってなされていました。そうではなく、この企画は協力関係を生む可能性があるものです。二人とももう子供ではありません。どちらも将来を考え、若者達と音楽の将来を考えているのです。

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Thursday, 01 November 2007

Il Venerdi

レプッブリカ紙の金曜版には雑誌が差し込まれていますが、明日発売分にはマエストロ・ムーティのインタビューが載っているそうです。スカラ座についてまた語っているようです。
入手できたら、内容を紹介します。

2007年10月31日 la Repubblica
DOMANI SUL VENERDi' Dove corriamo, e soprattutto perché

Riccardo Muti. Io, la Scala, i politici e questo Stato che brucia cultura come i piromani estivi

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Monday, 29 October 2007

ロシアのオペラは(まだ)振らない

モスクワを訪れているマエストロ・ムーティへのインタビュー記事があります。

英語への自動翻訳で読む限りは、記者会見の内容と似通っています。

両方でたずねられていたのが、ロシアのオーケストラ音楽は演奏するのに、どうしてロシアのオペラは振らないのか、ということでした。

マエストロのファンならば、答えは十分推測できます。オペラには、言語が大きく影響しているからでしょう。

マエストロの答えも予想どおりでした。

今はロシア語が完璧に駆使できないから、でした。

(過去のロシア公演でもマエストロの情報がうまくつかめず、悲しい思いをしましたが、今度もため息ばかりです)

2007年10月28日 ГАЗЕТА.GZT.ru
"Сегодня режиссеры стараются поразить вульгарной яркостью"

http://gzt.ru/culture/2007/10/28/220019.html

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Saturday, 13 October 2007

イタリア女性誌のインタビュー

以前にも紹介しましたが、イタリアの女性誌DIVA e DONNA誌10月2日号にマエストロ・ムーティのインタビューが載っていて、本誌を入手しました。
マルタでの仕事を控えて、ケルビーニ管の若者達に音楽を教える使命感を、主に語っています。
写真もふんだんにあります。ドパルデューとのザルツブルクでの写真では、マエストロは真っ赤なレザージャケットを着てるようです!

過去にも語っていたことのほかにも、興味深いコメントがいくつかありました。

マエストロは自分は南イタリアの人間であり、南イタリアでは、死はひとつの世界から別の世界へ通過していく体験だ、とここで話しています。
10年近く前に古代地中海での死を扱った展覧会があり、手元のこの本『死後の礼節』(東京大学出版会)も出され、そこでは南イタリアの古代埋葬も論じられています。マエストロの語る南イタリアの死生観とはどんなものなのかは、後の時代も含めて検証した著作で詳しく知ることができるかもしれません。
また、竹山博英さんの大作『イタリアの記念碑墓地 その歴史と芸術』は素晴らしい写真集であり、イタリアの死生観に関する著作です(言叢社)。

マエストロはこんなふうに答えています。

―死後の別世界を信じていますか。
「もちろんです。この宇宙すべてを包囲している生命のエネルギーに、我々は支配されています。魂は身体とともに消えていくことはありえず、この総体的な生命のエネルギーの一部になるべく戻っていきます。その総体的なエネルギーは、ダンテが言うように、『太陽と星々を』動かしているものです。」

このコメントはマエストロの音楽観につながっていくものです。すなわち、我々には聴くことはできないけれども、天体の動きは音楽を奏でている。
そのような音楽と精神性のつながりが、砂漠への憧憬の言及となっています。
プーリアの隠れ家でも、夜空を眺めてマエストロは同じような気持ちを味わっているのでしょうか。

マエストロは本誌のインタビューでこう語っています。

「私はアフリカの多くの国々を訪れていますが、砂漠を愛しています。そこには、快い響きに満ちた静寂があります。砂漠は確かに、人間が神と確実に接っしていると感じる場所のひとつです。天は非常に近く見え、空気が澄んでいて、世界のどこよりも星が見えやすいところです。我々はこの宇宙に属しているという、まさしく重要な自覚が、このような人里離れた静寂における孤独の中にあります。」

DIVA e DONNA誌 2007年10月2日号
Riccardo Muti
Malta onora il Maestro

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Thursday, 27 September 2007

マエストロを迎えるトリノ

昨日のスタンパ紙のトリノ地方版に、トリノ公演に関するマエストロ・ムーティのコメントが載っています。

マエストロの記憶力が素晴らしいのは当然のことですが、古い公演の記憶がさっと口から出てくるようなのには、いつも感嘆します。
若い頃のトリノ公演について一言、二言述べています。

時間がないので、夜にまた。

2007年9月26日 La Stampa 紙
«Sono musicisti straordinari, intesa immediata»

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Tuesday, 25 September 2007

音楽を通じて社会とつながる

25日発売のイタリアの女性誌(週刊誌)に、マエストロ・ムーティのインタビューが載るそうです。雑誌名はDiva e donnaで、メディアグループのサイトはこちらです。

Cairo Communication
http://www.cairocommunication.it/article/articleview/37/1/14/

インタビューの抜粋が報じられていますので、紹介します。
マエストロにとって、音楽は人格を養い、社会でどう生きるかを教えてくれるものであり、そのことが、学校で音楽を教えるべきだと主張している理由のひとつにもなっているようです。

2007年9月24日 Adnkronos
Musica: Riccardo Muti, Preferisco Non Avere Istituzioni Sulle Spalle

「ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督になるよう、申入れを受けました。けれども、これ以上、団体の責任を双肩に担うことは選びませんでした。今は、やるべきことを選択することについて、完璧な自由があるほうが好きです。」

「仕事に縛られて留守がちにもかかわらず、子供達と多くの時間を一緒にいるよう努めて来ました。このことについて、今、告白しますが、非常に誇りに思っていますし、妻にも感謝しなければなりません。彼らの成長に関して、提示できる手本として、力になれたと思っています。時とともに、私は学びました。音楽について倫理的に学ぶならば、社会組織につながるという面でも人格が養われると。」

「このことが、ケルビーニ管を創設した精神的姿勢です。創設したのは、彼らがあることを理解するのを助けたいからです。この若者達に捧げている時間は、私自身のためにとっておくことのできたであろうもの、あるいは、別の仕事のために割くことのできたであろう時間でした。私のスケジュールは既に、これ以上になく立て込んでいますが、それでも、彼らが次のように理解することの助けになるための時間を見つけています。それは、音楽は単に演奏会を行うというだけのことではなく、使命感を持って遂行すべき重大な仕事に変わるような選択なのだということです。」

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Monday, 24 September 2007

自分の人生のシナリオは自分で書く(4)

シカゴのTribune紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。

社会でどう生きていくか、それは、ハーモニー、というのがマエストロの持論です。

マエストロは、常任の肩書き・仕事は持たずに自由を享受している、と頻繁に語っていますが、結局は、音楽にすべてを注ぎ込んで超過密なスケジュールとなっているのは、全く変わっていないようです。ただひとつ。管理面のわずらわしさから解放されて、本当に音楽を演奏するだけの楽しみを味わっている、ということなのでしょう。
追いかけるファンの大変さも、少しも変わりません...。

2007年9月16日 Chicago Tribune 紙
Riccardo Muti wants to conduct his own life

今後のシーズン

カードは、ムーティとは既に、次のシーズンにシカゴに戻ってくることを話し合った、と言っている。「来シーズンの発表をするときには耳にするような、計画中のものがあります。」と彼女は言う。「我々はどちらも、将来どのくらい、さらにたくさんのスケジュールを組むことになるかについて、今年の秋のこの仕事がどのように示すかを知りたいと考えていました。」

シカゴ響は番号札を持たなければいけないかもしれない。なぜなら、ムーティは今後何年間か、全く一部のすきもなく予定が入っているからである。ニューヨーク・フィルハーモニックと毎年活動するのに加えて、2009-2010のシーズンには、ヴェルディの《アッティラ》を振って、メトロポリタン歌劇場への遅れたデビューをする予定である。友人であるローマ市長Walter Veltroniの要請を受けて、2008年からはローマ歌劇場で4シーズン、毎年新しいオペラを指揮することになっている。

ムーティはthe Luigi Cherubini Youth Orchestraと共同して仕事をしていく関係について、特に熱を入れている。それはピアチェンツァとラベンナに彼が創立した、若いプロの音楽家達の合奏団で、オーストリアのザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭で毎年定期的に指揮する。彼は、自分の得がたい体験を、そのオーケストラによって代表されるような、次世代の楽器奏者達に次々と伝えることは、「道徳的な義務」だと考えている。

「大部分のメンバーが30歳以下のイタリア人です。イタリアに住むイタリア人以外の者も何人かいます。」彼は説明する。「このオーケストラは、若い音楽家達によいプロの演奏家になる可能性を与えるために存在しています。私は彼らに、音楽に対する倫理的なアプローチの心構えをさせようとしています。」

「彼らには、偉大な作曲家の素晴らしい世界を知る可能性を付与するだけでなく、社会でどう生きていくかを教えたいと思っています。それこそが究極のレッスンです。」

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自分の人生のシナリオは自分で書く(3)

シカゴのTribune紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューの続きです。

PMFのリハーサル見学で、マエストロのユーモアについて随分見聞きしました。記事にあるマエストロのジョークも、それを披露している光景がありありと目に浮かんできます。

2007年9月16日 Chicago Tribune 紙
Riccardo Muti wants to conduct his own life

ムーティは今はミラノに滅多に足を踏み入れない。そして、シカゴ響のイタリア旅行日程ではその街ははっきりと除かれている。

で、ミラノの不和によって一層燃え上がった、彼が傲慢だという評判はどうだろうか?ムーティをよく知る人たちはこう言っている。彼は要求が多いかもしれないし、自説を曲げないかもしれないが、規律主義の軍人のような人間ではない、と。

「真剣であるというのは、傲慢だということではありません。プロフェッショナルであることを意味します。」ムーティは、自分の意見をこう言明した。「だから私はこう言っているのです。芸術家である前に、プロフェッショナルであろうと。質を高めようとすると、ある種の抵抗にあうことは避けられません。今の私は、権力を求めたり、個人的な成功を求めて闘っているのではありません。真剣に働くことを欲しているのです。」

シカゴ響の音楽家達が、彼の仕事への献身が倫理的なものであることを裏付ける。今週始めに行われた同響との最初のリハーサルは、伝えられるところでは、少なくとも、彼らの側からすれば、恋愛のようだったという。

ムーティは、南イタリア譲りの暖かなバリトンでもってパッセージを歌い、オーケストラにどう演奏して欲しいかを表現してみせる(この人は、結局のところ、偉大なオペラ指揮者の一人なのだ)。特に複雑なフレーズを歌ってみせる彼に、オーケストラは喝采を贈った。彼らはムーティが、毒舌をつく指揮者をまねしてみせようが、ウィンナー・ワルツがどうやったら見る影もなく形無しにされうるかをみせようが、人を止まらないほど笑わせることに気づいた。

「世界中があなたたちのことを、最もパワフルなオーケストラだと知っています。」ムーティはシカゴ響に語った。「それでは、ここで、他のどのオーケストラよりもソフトに演奏することもできることを、世界に向かって見せてみましょう。」ファリャの《三角帽子》組曲の最初の小節で、彼はオーケストラを止めて、穏やかにとがめた。「昼食をとったばかりかのような演奏をしています。」彼はたしなめた。「スペイン人は怠惰だと言われています。けれども、そういうけだるさではありません!もっともっと心地よさが必要です。」

後で、副コンサートマスターのDavid Taylorがこう言った。「(ムーティとの)最初のときから、『この人は今までの私の人生のどこにいたんだ?どうしてもっと早く会わなかったのだろう。会えてとても嬉しい。』という幸せな気持ちでした。リハーサルの間中、互いを尊重する気持ちと快適さがありました。彼の音楽作りには素晴らしいエネルギーがあります。徹底してプロフェッショナルで、自分の求めていることを、無駄な時間を費やすことなく、どうやったら達成できるかを正確に知っています。これからも、この傑出した音楽家ともっともっとたくさん会う機会があるよう、望むことにしましょう。」

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Sunday, 23 September 2007

自分の人生のシナリオは自分で書く(2)

Chicago Tribune紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。

マエストロに接した人は、一人残らず誰もが魅せられてしまう、と言っても過言ではないでしょう。仕事においてもそうだと思います。
それが、どうしてスカラ座ではあのようなことが...。
マエストロの中では、美しい思い出と輝かしい業績が残っているだけのスカラ座で、いつかまたマエストロの演奏が聴ける日を、ひっそりとですが、心待ちしています。

2007年9月16日 Chicago Tribune 紙
Riccardo Muti wants to conduct his own life
Why the world's hottest maestro is not interested in CSO job

6~8週間はニューヨークに

ムーティは、徹底的な仕事のできるオーケストラに献身的なことで知られている。それには、フィラデルフィア管(1980年~1992年に音楽監督を務めた)、ウィーン・フィル(1971年以来、毎年指揮している)、そして、ニューヨーク・フィル(現在、彼のUSAにおける活動の第一の拠点である)が含まれる。

ニューヨーク・フィルは2ヶ月前に、2009年からムーティと1シーズンだいたい6~8週間活動する、と発表した。同オーケストラは2度彼に音楽監督を申し出、ムーティは2度それを退けた。このことは、シカゴ響のような、もっといい申し出をあくまでも要求しているのかもしれない、という推測に油を注いだ。マエストロは、ニューヨーク・フィルに関して自分の位置を明確にする一方で、そのような推測を無意味なものとして無視した。

「(ニューヨーク・フィルが)大好きですし、彼らは私を愛してくれています。」彼は言った。「けれども、私は彼らに非常にはっきりとこう言いました。完全に自由でありたい、何の肩書きも欲しくないと。」

素晴らしく知的であると同時に自尊心が強くて頑固なムーティは、自分自身や世の中と完全にうまくいっている人のような、寛いだ陽気な雰囲気を備えている。自分のやりたいところで、やりたい時に音楽を演奏するという理想を実行しているのは、明らかだ。

スカラ座というあの世界で最も名声ある歌劇場から、全従業員の不信任投票によって辞任を余儀なくされた後、彼は苦渋と苦痛を味わったと報道されたが、その気配は微塵も感じられない。

「あのことを話すには、本が3冊必要でしょう!」今ムーティは、笑いながら強い口調で語る。「あらゆるものが政治的になり、すべてがコントロールを失いました。際立っていたのが、芸術には全く関係ないということでした。こういったことは(イタリアの外にいる人たちには)非常に理解しにくいことです。私が続けることは困難になりました。自分の意見を強く主張する、と私は言われています。強情ではありません。しかし、ある時点で、妥協するかわりに、去ることのほうを選んだのです。」

常に高水準のオペラをムーティはそこで指揮し、スカラ座のオーケストラ(来月シカゴを訪れる)は、詩人肌のロマンチックな完璧主義者は高慢な専制君主だという非難を伝えた。争議が音楽上の要求よりも、内部の政治と労働組合の要求に、より大きく関係していたのは明らかだ。

ムーティは、19年間というのは、伝説的なマエストロ、Arturo Toscaniniを含めて、 スカラ座音楽監督としては最長だということを指摘した。そして、トスカニーニは監督を3度辞任したということにも皮肉っぽく言及した。「素晴らしい19年間でしたし、43の異なったオペラ作品をそこで指揮しました。」ムーティは言う。「けれども、今は別の時を歩み、ほかの道を歩んでいます。」

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Saturday, 22 September 2007

自分の人生のシナリオは自分で書く(1)

シカゴの新聞などに載ったマエストロ・ムーティの記事を順次紹介します。
まずトリビューン紙に載ったインタビューから。

マエストロのシカゴ響公演は大成功に終わり、メディアはその評価に慎重だった姿勢を覆しました。
ニューヨークもウィーンもザルツブルクも、マエストロをつなぎとめようとし、成功しました。シカゴはどうでしょうか。

2007年9月16日 Chicago Tribune 紙
Riccardo Muti wants to conduct his own life
Why the world's hottest maestro is not interested in CSO job

亡くなった伝説的指揮者Herbert von Karajanについて、広く伝わっている逸話がある。マエストロはタクシーに飛び乗った。「どこまで?」と運転手がたずねる。カラヤンは答える。「どこでもいい。どこでも私を必要をしている。」

これは、リッカルド・ムーティが最近の自分の状態について気づくことと、大体同じだ。

ナポリ生まれのカリスマ的なマエストロは、32年ぶりに今月、シンフォニー・センターでシカゴ響を指揮する。その後、同響を率いて秋のヨーロッパ・ツアーに出る。彼は自分が、クラシック界の元老達の中で、おそらく最も話題になっている宝だと気づいている。

2005年にミラノのスカラ座を離れたことは激しく、由々しく報じられたが、実際のところ、その結果、世界中のオーケストラや歌劇場によって、これまで以上に求められることになっただけのように見える。ロサンゼルス・フィルハーモニック会長Deborah Bordaが彼についてかつて述べたように、「自分自身のシナリオ書く」という自由な状態にあることの理由を、そのことは説明している。

そのシナリオにシカゴ響の今後のシーズンが際立った形で含まれているかどうかは、まだ解決されていない問題である。イタリアのラベンナの自宅にいる彼にした最近の電話インタビューは、率直で広範なもので、66歳のムーティは、自分は音楽監督候補ではないと主張する一方で、シカゴ響の比類ない芸術的質について心から称賛した。

「シカゴ響は音楽監督がいないので、ムーティがおそらく興味を持っていると考える人がいるかもしれません。」そのよく知られた、皮肉っぽいユーモアを発揮しながら、指揮者は言った。「けれども、私は、音楽監督であろうと、大統領であろうと、法王であろうと、何についても候補ではありません!」

「私は何かを求めて、あるいは、将来のことを思い描いてシカゴに行くのではありません。この偉大な名手オーケストラと音楽を演奏する喜びのために、そして、ツアーをするためにシカゴを訪れるのです。」

シカゴ響の管理サイドは、ムーティのように第一位的指揮者であり、魅力的な照明広告灯と、いつまでも続く関係を鍛え上げていきたいのはやまやまかもしれないだろうが、マエストロは今後の計画については身構えている。結局のところ、彼が前回シカゴ響を指揮したのは、はるかさかのぼって1975年のことであり、彼らが1ヶ月一緒に過ごすことからどんな種類の化学作用が起こるのか、誰がわかるだろうか。

「私はこのオーケストラを何年も聴いていませんし、彼らは、私の名前をどこかで聞いたことがあるにしても、私のことを知りません。」ムーティはこう言って、押しが強いという評判に抗した。そして、これからの1週間、シカゴ響と一緒に音楽を演奏する喜びが生まれたとしたらどうなるのだろうか。それによってより深い関係に必然的になっていくのだろうか。「私には将来を見ることはできません。」

シカゴ響会長Deborah R. Cardは次のようにムーティを説得したことに功績がある。同響に30年以上ぶりに戻ってきて、オーケストラを率いて2週間の7都市訪問ツアーを指揮する、ということについてである。そのツアーは、本拠地オーケストラ・ホールにおける2週間の定期公演に続くもので、イタリア、ドイツ、パリ、ロンドンを訪れる。

彼女は言う。「彼が仕事をしているのを見て、『何と言うこと!この人こそが、シカゴ響と一緒にやれば、素晴らしい化学作用を起こすだろう、と私が考えていたような、傑出した音楽家だ』と思いました。これらのコンサートはそれを大いに証明することになると信じています。彼は魅力のある、信じられないほど賢明な人で、素晴らしいユーモアのセンスを持っています。彼をここに迎えてオーケストラと一緒に仕事をするのを見るのは、私達にとってずっと夢のようなことでした。」

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レスプレッソ誌のインタビュー

マエストロ・ムーティのオフィシャル・ウェッブ・サイトのニュースによれば、レスプレッソ誌9月27日号にマエストロのインタビューが掲載されるようです。抜粋がマエストロのサイトに載っています。
雑誌が入手できたら、また紹介します。

「マルタ・アカデミーは、我々の西洋文化と中近東が出会う地点になることを望んでいます。マルタはその地理的位置から、この二つの文化にとって、海における理想的な十字路です。私のセミナーに参加した若者達が、たくさんの様々な国出身者であったこと、とりわけ、シリア出身者が大勢いたことをとても喜んでいます。」

「イタリアは歴史的には、世界で最も歌劇場の多い国です。けれども、その大部分は閉鎖されています。もしも、特に地方の歌劇場を若者達に任せる勇気と可能性があり、彼らに自己表現の可能性を付与するならば、新しい着想が生まれ得るのは確かです。」

「ヨーロッパ全体は、文化に対して非常に重要な貢献をしているとは言えなくなりつつあります。一方で、中国は西洋音楽に対してますます整備されてきています。そこには、3000万人のピアニストがいて、1500万人のバイオリニストがいます。アジアの他の国々が台頭してきている現時点において基金をカットするのは、無分別な態度です。」

スカラ座を去ってから、常任の仕事は持たないと決意しました。この路線を続けますか。
「ええ。私は27歳で音楽監督になり、40年近くその状態でした。現在は完全な自由を楽しんでいます。音楽を演奏するだけであり、音楽とつきあうのに何の関係もない問題を気にかける必要がありません。」

次の予定は?
「シカゴへ2週間行きます。また、ヨーロッパも周ります。ミュンヒェン、パリ、ロンドンだけでなく、イタリアも訪れるツアーです。」

Riccardo Muti Official Web Site
notizie 2007年9月21日

settembre 2007 "Muti mondiale" intervista su L'Espresso del 27/09/07
http://www.riccardomuti.com/Notizie.aspx?idNews=220

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Thursday, 20 September 2007

2008年のローマ歌劇場は《オテロ》

今日のスタンパ紙に、26日にシカゴ響とトリノを訪れるマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

主なテーマはシカゴのイタリア文化会館での講演でも話した、イタリアの学校教育における音楽です。
そのために闘ってきたけれども、現在の仕事はイタリアから少し距離を置いている、ただ、ラベンナ音楽祭、ケルビーニ管との仕事、ローマ歌劇場での仕事はあって、同歌劇場の2008年は《オテロ》で開幕する、キャストは今は言えない、と語っています。ザルツブルク音楽祭との共同制作になるそうです。

追って紹介します。

2007年9月20日 La Stampa 紙
Riccardo Muti "La Casta non ha orecchio per la musica"

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Wednesday, 12 September 2007

地中海で生まれた人間

マエストロ・ムーティはシカゴの新聞で、ラベンナやアニフに安住して寛いでいるのも好きだけれども、冒険も好きだ、それは地中海で生まれた人間の両面であり、シカゴ響は冒険だ、と語り、シカゴを訪れるのを楽しみにしているようです。

これは、マエストロがオデュッセウス、あるいは、『オデュッセイア』の特性を地中海の人間に見立てていることを思い出させます。
『オデュッセイア』の多面性はよく知られているところで、オデュッセウスは故郷イタケを目指してトロイアを出発し、数々の冒険を重ねます。望郷=安住、そして冒険。

ただ、この矛盾は果たして地中海生まれの人間だけなのかどうか。とりあえずは、マエストロの挑戦と冒険はいつまでも続きます。

ちょうど今夏、地中海文学についての本を興味深く読んだばかりでしたので、シカゴの新聞のインタビューは一層味わい深いものとなりました。

2007年9月9日 The Chicago Sun Times
It's his kind of orchestra

旅の地中海
丹下和彦
京都大学学術出版会、2007年6月
1800円

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Monday, 10 September 2007

シカゴを訪れる前に

パバロッティ死去のニュースを追うのは非常につらく、とても悲しいことでした。気力を奪われ、うちのめされてしまいました。

でも、日はまた昇る。

今週シカゴを訪れるマエストロ・ムーティのインタビューが、昨日のシカゴの新聞に載っています。内容はとりとめのないものですが、とても興味深く読みました。ザルツブルクのマエストロの別荘で行われています。マエストロの口にしているエスプレッソ、どんな味のものなのでしょうか...。
記事は追って紹介します。

マエストロが研究熱心で、完璧主義者であること、地位に全く拘泥しないこと、自由を享受していることがここでも語られています。

マルタの新聞に記者が、コラムのような肩のこらない形でマエストロのマルタ公演について書いていますが、そこでも、マエストロの公演における完璧性の追求に触れていました。

シカゴの新聞では、ナポリの図書館で古い楽譜の発見をしているときが幸せであり、そこが自分が幸せだと感じる場所だ、と言っています。

But do I play a piece of music without study? Without study until my bottom hurts? Never. Do you know where I am happy? In an antique music library in a monastery finding lost treasures of music.

このインタビューポイントのひとつは、マエストロに対して広く言われている誤った先入観、横柄で知的なところがあまりなく、カッとなりやすい、といったイメージが、インタビューによって払拭されたことでしょう。インタビュアーはそう書いています。シカゴの新聞が、マエストロについて懸念するところとして、上記の先入観を書いていたのには、本当に驚いたものでした。

ただ、シカゴとの確かな関係を求めているサイドにとっては、将来のことはわからない、と言われて、はぐらかされたような気持ちになったのではないかと思いますが。
もしかしたら、マエストロにとっては、ウィーンあるいはウィーン・フィル以外との確かな関係など、ないのかもしれません。

2007年9月9日 The Chicago Sun Times
It's his kind of orchestra
Why maestro Muti is spending quality time with the CSO

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Sunday, 19 August 2007

ピアチェンツァへの感謝(4)

マエストロ・ムーティがザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を前に、ピアチェンツァの新聞に語ったことの残りの部分を紹介します。

マエストロのイタリアへの警告と誇りには、常に敬意を抱きます。

音楽を愛し、音楽に情熱を持って接している人達と知り合いになりたい、とマエストロが思っていることには、あらためていろいろ考えさせられました。
新聞でこのインタビューを読んだ時、わたしは音楽への純粋な気持ちからマエストロのファンになりましたが、そのことがマエストロにきちんと伝わっているようなファンだろうか、ととても悩みました。マエストロは、本当に、すべてが音楽を中心に回っている人だからです。今でも、その悩みは抱えたままです。

2007年5月24日 Liberta' 紙
Il "grazie" di Muti a Piacenza
«Ha abbracciato con calore la Cherubini»

ケルビーニ管と計画中の夢はどのようなものですか。
「私の夢は既に、ケルビーニ管のメンバーでコンクールに参加している者達に起きつつあります。彼らの中には、優勝したり、最終選考に残ったりしている者達がいます。プロとして育つべく陶冶する仕事が実を結びつつあり、結果を出しつつあることには、満足しています。私の夢は、この若者達が将来も、このような情熱をもって行くことです。これからやってくる者達も同様です。ある時点で入れ替えがあるからです。こういう満足と喜びを、ピアチェンツァの人々やラベンナの人々に対してだけ、もたらしながら進み続けていけることを夢見ているだけでなく、イタリア全土にわたってそうすることを夢見ています。ケルビーニ管が常に、音楽というイタリア精神の、輝かしく湧き出る泉であることが、私の夢です。」

あなたは7月28日に66歳の誕生日を祝います。これまで非常に素晴らしいキャリアを積んできました。自分の前方を見たとき、何が見えますか。
「将来を見たとき、生き、仕事をしていくという歳月がまだまだたくさん見えます。どちらかというと、後ろを見たとき、非常に多くの出会いのあった人生が見えます。芸術の分野で傑出した人たちと知り合いました。クラウディオ・アラウ、ルドルフ・ゼルキン、ジーノ・フランチェスカッティ、ロストロポーヴィチ、作曲家のニーノ・ロータ、ペトラッシ、その他たくさんの人たちです。法王だったパオロ6世、同じくヨハネ・パオロ2世、ゴルバチョフ、ドブチェク、サハロフ、レーガン、エリザベス女王とも親しく知り合いました。エリザベス女王が前回訪れた時、私は英国のナイトに叙せられました。最高の栄誉のひとつです。彼らは傑出した人達ですが、特に極めつけの人達です。今後は、音楽の世界に、同じように喜びと愛情を持って接したいと思っている人達と知り合いになるよう、望んでいます。そして、人生の最晩年には、真の音楽家達、真の芸術家達が生まれるのが見られるよう、希望しています。ロストロポーヴィチのような芸術家が、音楽の特別な秘密、特別な啓示を理解するために楽譜の1ページに1時間もかけていたような、そういう熱意と情熱、決意を持って音楽を演奏できるような、真の音楽家達、真の芸術家達の誕生を望んでいます。現代はあまり時間がないように感じられ、すべてが恐ろしく速く流れていくように見えます。音楽の世界も、本質の中にではなく外見的な部分に、一層安易に楽しみを求め、一層表面的なところへ逃げ込んでいくように感じられます。」

あなたのキャリアを特徴づけている仕事があります。平和の手法としての音楽です。
「1年に1度、こういうコンサートをするのは、もう16年になります。サラエボから始まりました。音楽は常に人々を結びつけます。コミュニケーションするのに言葉がいらないからです。このコンサートでは様々な地を訪れていて、我々が参加しているオーケストラには、その地の演奏家や合唱団も組み入れることが起きています。彼らは仲間に加えられ、我々と全く同じように、音楽を通じて自分達の感じていることを表現していました。たとえアルメニア人であろうと、モロッコ人であろうと、他のどんな民族であれ、加わってきて、同じようにわくわくしていました。人種による違いも、外見による違いも、宗教による違いもありません。音楽はこういったことすべてを超越しています。すなわち、人々をしっかり結びつけ、十分近づける手段になり得るでしょう。イタリアとヨーロッパ全体が、音楽という行為のこのような必要性と関係を持つことを、なぜ喪失しつつあるのか、理解できません。我々イタリア人にとっては、これはさらに一層心から必要なものです。なぜなら、イタリアの歴史は、何世紀にもわたって音楽の歴史に根ざしているからです。従って、我々の輝かしい過去を無視することはできません。その過去を忘れたり認識しないというのは、つまり、我々の根元を破壊すると言っていいでしょう。根元を破壊すれば、木は死にます。」

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Sunday, 05 August 2007

ピアチェンツァへの感謝(3)

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の前に、ピアチェンツァの新聞がマエストロ・ムーティに長時間のインタビューを行っていますが、半分ほどしかまだ紹介していないので、続きを訳しました。

マエストロが『レバノンのためのコンサート』の際にも短くコメントしていた、学校における音楽教育について、ちょうど語っている部分があります。これは、マエストロの生涯にわたる主張だといっていいでしょう。

マエストロがヴェルディを評して言った言葉は、そのまま、マエストロに献上したいと思いました。
Io direi che Verdi è il musicista che ha portato l'Italia al mondo e quindi appartiene a tutti.

2007年5月24日 Liberta' 紙
Il "grazie" di Muti a Piacenza
«Ha abbracciato con calore la Cherubini»

ピアチェンツァはここ何年か、ジュゼッペ・ヴェルディにおける「ピアチェンツァ的なるもの」の復権をはかっています。彼はロンコレで生まれましたが、実際は、この地方で暮らし、仕事していました。地方議員もしていました。この主張を支持することをあなたに求めてはいませんが、しっかりした審判を下してほしいのです。
「非常にデリケートな問題です。どう思うかヴェルディにたずねる必要があるかもしれません。サンタ・アガタはピアチェンツァ県にあると聞いていますし、それはヴェルディが建て、生涯を通じて彼の本当の家でした。ヴェルディがピアチェンツァ県境にある家を選び、パルマの家を選ばなかった理由については、確かな答えをすることはできません。ヴェルディは世界市民であり、おそらく、この場所が素晴らしいことに気づいた、と言うことはできるでしょう。いずれにしても、私はピアチェンツァとパルマの間に大きな区別をおくつもりはありません。私に言えるとしたら、ヴェルディはイタリアを世界的にした音楽家であり、従って、あらゆる人のものだということです。ガブリエーレ・ダヌンツィオがヴェルディについてこう書いたとおりです。『あらゆる人のために涙を流し、あらゆる人に愛を向けた』」

あなたは、イタリアの才能ある若者達の、このオーケストラを作り、鍛錬しているところです。それは骨の折れる重要な仕事ですが、同様に重要なのは、若い聴衆がクラシック音楽について知り、熱心に聴くように仕向けていくことです。新しい世代に対してこのジャンルの音楽にますます親しみを持たせるためには、どのようなことが可能だと思いますか。
「何よりもまず、学校で音楽をきちんと教えることです。けれども、それは、何年も行われていたように、子供達に小笛を教え込むという意味での『きちんと』ということではありません。また、彼らに、イタリア国歌や《行け、我が想いよ》を歌わせることでもありません。音楽がすべての基本であることを理解させるという意味において、音楽を教えることなのです。一緒に歌い、一緒に演奏するというのは、ハーモニーをなすことであり、従って、社会的なことでもあります。ひとつのオーケストラに一緒にいるというのは、他の人の自由を侵害することなく、自分の自由を尊重させるということを意味します。そして、全員が最高の美の実現に貢献し、要するに演奏そのものが最高になるということです。芸術をこのように理解するやり方は、人生をきちんと理解すべきやり方と一緒です。私は、我々を超越したところにある結果への到達をめざして、他の人と協力しますが、その人の自由を壊すことはしませんし、その人の領域を侵すこともしません。こういう配慮をもって学校で音楽を教えるならば、社会的な観点での調和の中で生きていくことについて、もっと修練を積んだ市民が養成されます。これが第一の点です。すなわち、小学校時代から既に、若者達が音楽への愛と音楽について社会的な概念をを持つように教育していく、ということです。第二は、劇場体験を通じてそれに親しみを持つことです。従って、オペラやコンサート、室内楽、演劇、散文など、あらゆる芸術の形に私は言及しているのです。ここピアチェンツァで私は、学校の生徒達がしばしばリハーサルにやってきて、リハーサルを聴き、見守っている様子に接してきました。彼らは静かで、共感と好奇心、注意力をもって聴いていて、その様子は、音楽なるものに非常に高い水準で近づいていることを示しています。このことにはとても勇気づけられます。責任は決して若者達にあるのではなく、彼らを育てる側、こういったことを案じなければならない側にあります。」

こういう生徒達は、しばしば、ケルビーニ管のリハーサルを見学することが可能でした。児童や生徒という聴衆とこのように接することで、どんな印象に触れていますか。
「見てください。全く偶然ですが、今日まさに、Dante Alighieri学校のIª A クラスの生徒達から、これらの手紙を受け取りました。去る2月28日に、コンサートのゲネプロを聴きにきたクラスです。リハーサルの場に居合わせたことを感謝し、自分達の感想を私に書いてきたのです。どう言っているか、聞いてみてください。『とても興味深かったし、ひきこまれたし、教えられることが多く、とても幸せでした。感謝しています。』『私にとっては、とても大きなできごとでした。なぜなら、今までオーケストラを観たことがなく、こんなに素敵な交響曲を聴いたことがなかったからです。』『とても感動的で熱烈な音楽で、交響曲のメロディアスな音楽にうっとりさせられ、言葉が出ませんでした。』彼らは中学校の生徒で、これらの手紙は非常に大切なことの表れです。私に手紙を書きたいと感じたほどに感動したからです。」

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Saturday, 28 July 2007

朝日新聞大阪版の記事

25日の朝日新聞大阪版夕刊にも、PMFに出演したマエストロ・ムーティの記事が載りました。
既出の内容のようです。

2007年7月25日 朝日新聞大阪版夕刊
「若者の成長、うれしい」 指揮者ムーティ、札幌の音楽祭で指導

公開リハーサルでは、ひざを床につくほど曲げながら「ピアノ(弱く)!」と叫んだり、足を踏みならして大声で指示を出したりする場面も。時には笑顔で冗談も交えて、精力的に曲を作り上げていく(略)

「若い人たちに伝えていくのは大切な仕事だから」。自身もミラノ・スカラ座の音楽監督を05年に退任後は、若手を集めたケルビーニ・ユース・オーケストラの指導に力を入れる。

 若手の育成と同時に大切にしているのが、若いクラシックファンの存在だ。80年から92年まで音楽監督を務めたフィラデルフィア管弦楽団では、演奏会の始まる前に自ら客席に向かい、曲の説明をすることもあった。「いまの演奏会は儀式のようで、壇上の演奏家とかしこまって聞く人に分かれている。それでは音楽は楽しめない。もっと会場に一体感があればいい」

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Tuesday, 24 July 2007

北海道新聞によるインタビュー

23日の北海道新聞に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューを、とても興味深く読みました。マエストロがまさに現在進んでいる方向と、PMFのあり方が一致していることが、とてもよくわかります。
また、マエストロがスカラ座やケルビーニ管で行ってきたレクチャーコンサートの意図も、語られています。
マルタでの新しい試みも、それに沿ったものといえるでしょう。

2007年7月23日 北海道新聞夕刊
<PMF>首席指揮者 リッカルド・ムーティ氏*「世界は一つ」奥深い意義*現在の教育システム、継続を

--PMFの首席指揮者を引き受けた理由は何だったのでしょう。  

「いろいろな国の若者を集めていることに意義を感じた。私は四十年間、世界の文化が一つになればいいと願い、貢献し、闘ってきた。サラエボ、モロッコなどでの『友情コンサート』もその一つだ。自分の指揮するオーケストラを問題のある国に連れて行き、現地の音楽家を交えて演奏する。そこで感じたのは、人種などの違う人たちが音楽を通じて愛を育み、気持ちを合わせていくのがとても重要だということだ。その意味で、故郷、宗教、文化の全く違う人たちが参加するPMFは奥深く、幅広い意味と意義を持っている」

--後進の指導についてはスカラ座の音楽監督を退任後、特に力を入れていますね。  

「私自身、これまでスビャトスラフ・リヒテルら偉大な芸術家と一緒に仕事をして、彼らの技術を身近で学ぶことができた。伝統的なものを若者に伝えていくことは非常に重要な仕事だ。ただ、若手の育成も大きな課題だが、その前に演奏会を何とかしなければいけない。今の演奏会は儀式のように『演じる人』と『聴く人』に分かれてしまっている。私もフィラデルフィア管弦楽団でやったことだが、指揮者自身がまず音楽の分析を話して、客との一体感を作ってから演奏すると、客が非常に満足し、音楽を楽しむきっかけになるようだ」

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Monday, 23 July 2007

2013年に向けて

マエストロ・ムーティによるヴェルディ レクイエムの演奏が終わりました。

Lacrymosa の遅いテンポと深い悲しみ、慈しみこそが、この晩の演奏のハイライトかな、と感動を反芻しています。
おめでとうございます、マエストロ!

大統領のメッセージの後、マエストロの短いメッセージも聴けたのが幸いです。

詳細はまた夜に。

RAIの番組はまだ続いていて、過去の公演から《ナブッコ》序曲の演奏などを流しています。

昨日のメッサッジェーロ紙のインタビューを紹介します。

2007年7月22日 Il Messaggero 紙
Intervista

マエストロ、「友情の道」コンサートが、当初予定の場所で行われないのは初めてです。
「ナポリターノ大統領の強い関心と厚遇が、歩みが中断されるのを阻止しました。我々がその場所にいることによって問題が解決すると思い上がるようなことはありません。でも、音楽が、あらゆる差異を乗り越えて、我々の側をより深く結びつけることができるというようなことについて、サインを送り、強調することになると自負しています。レバノンの素晴らしい修道女Marie Keyrouzがコンサートの始めに古来の祈りを行いますが、彼女の存在もこの方向に沿ったものです。」

なぜ、ヴェルディの《レクイエム》がふさわしいのですか。
「その普遍的な価値のためです。それは、狭い意味での宗教的意義を超えたものです。なぜなら、それは日々、我々を取り囲む死について語っているからです。信仰があろうとなかろうと、あらゆる人に関わるテーマです。」

今日は大統領府で、9月28日にはParco della Musicaでシカゴ響と、来年はローマ歌劇場でヴェルディの《エルナーニ》です。あなたのローマとの関係は強まっていっています。
「ローマには非常に恩義があります。フランチェスコ・シチリアーニのおかげで、ここローマで私は歩み始めました。彼がRAIオーケストラの芸術監督だった頃です。オーケストラはまだ説明の必要な理由によって閉鎖されましたが。ローマは私が非常に愛していた街です。けれども、その後、望んでいながらも、フィレンツェ、ロンドン、フィラデルフィア、ミラノでの仕事のために、頻繁に来ることのできなくなった街です。」

どのような意図でローマに戻ってくるのですか。
「音楽家達と一緒に仕事をし、成長するという意図です。私がいつもやってきたことですし、2004年に創設したケルビーニ管が実証していることです。イタリアは動きつつあります。けれども、歌ったり、演奏したりしながら音楽を一緒にやることが、市民として生活することの基本的要素であるということの自覚は、まだありません。ひとりの大臣の善意では不十分です。国をあげての寄与が必要です。イタリアには並はずれた音楽の遺産があります。数ヶ月前、あらゆるテレビと新聞がナポリのゴミに関する醜聞を語っていました。同じ頃、1700年代ナポリ派音楽に捧げられたザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭が、全世界に向けて、そのスキャンダルの下にある莫大な宝物を知らしめました。」

サンタ・チェチリア・オーケストラを20年以上指揮していません。指揮しに戻りますか。
「その時間がありません。一流で高名な申し出を断ってきたにもかかわらず、2013年まで仕事が詰まっています。自由を感じていたいのです。それに、ローマ歌劇場では2008年~2011年まで、ひとつずつオペラを指揮することを承諾しました。Veltroni市長との友情の気持ちからです。」

計画中の夢はありますか。
「スタジアム・競技場のためではない、深みと優美さ、価値をもったイタリア・オペラを再構築することです。2013年(編集注:ヴェルディ生誕200周年)に向けて、イタリアがヴェルディのオペラを上演するにあたって、究極において導き手の役割を演じるよう、願っています。」

ローマはどうですか。
「兄弟が二人ローマにいますが、望んでいるようには、しばしば訪れる時間を見つけることができていません。あらゆる点で、夢の街です。ローマでは、いつも特別な時を過ごしてきました。将来もそうであるよう、願っています。」

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Sunday, 22 July 2007

2013年までスケジュールが詰まっているマエストロ

今日のメッサッジェーロ紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。明日、ファクシミリ版を入手できれば、と思います。

サンタ・チェチリアを振るつもりはないのか、とたずねられ、時間がない、2013年まで予定が詰まっている、と答えています。2013年はヴェルディの記念の年(生誕200年)です。マエストロがどこでそれを記念する演奏をするのか、とても楽しみです。

また、ローマにはご兄弟が二人暮らしているそうですが、会いに行く時間がなかなか持てない、とも言っています。

追って紹介します。

2007年7月22日 Il Messaggero 紙
ROMA - Riccardo Muti è a Roma per un concerto speciale.

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Monday, 16 July 2007

ローマの人、マエストロ

わたしにとってはTornado called "Riccardo Muti"、リッカルド・ムーティという名の竜巻が去って呆然とし、ほっとひと息つく間もなく、今日のCorsera紙にマエストロの大きな大きなカラー写真入りの記事が載り、ウェッブ版のページを開いた途端、どきっとした次第です。

内容は、7月22日のレバノンのためのコンサート、9月のシカゴ響、2008年のローマ歌劇場登場、というローマとのつながりの強めているマエストロの予定と、今年のザルツブルク音楽祭などについて語ったものです。

追って紹介しますが、ザルツブルク音楽祭で語りを務めるドパルデューについて、非常に魅力があり寛容に富んだ友人、と語っています。マエストロがパリの彼のレストランを訪れたことが報じられたこともありますが、わたしにとっては大好きな俳優のひとりです。記事は魅力的な人間は二人だと言おう、とマエストロの言葉を引き取った形で結ばれています。二人の並んだ写真が楽しみ!(ファンなのに行けなくて、恥ずかしい...)

2007年7月16日 Corriere della Sera 紙
Sempre più impegni nella capitale per il Maestro, che ringrazia Napolitano e già pensa all'Opera nel 2008
Muti (il romano)

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Tuesday, 10 July 2007

讀賣新聞北海道版の記事

マエストロ・ムーティへの共同記者会見の記事が、今朝の讀賣新聞北海道版にも載っています。
第一面に小さなカラー写真、そして、第30面に別のカラー写真と本文記事という嬉しさ!

今回各紙に載ったインタビューによって、マエストロがかねがね主張している、音楽は言葉の壁を越えるもの、という信条がPMFのあり方と一致していることがよくうかがわれます。

2007年7月10日 讀賣新聞北海道版
PMF首席指揮者ムーティ氏
「音楽通じ世界一つに」

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朝日新聞北海道版のインタビュー

今朝の朝日新聞北海道版にも、マエストロ・ムーティへの短いインタビューが載っています。カラー写真つき。

同紙によれば、9日にキタラホールで共同インタビューに応じたものだとのこと。(これは、他の新聞も買わなくては!)

(初対面の若者に教えて)
「彼らとの情熱に満ちた音楽づくりの過程は私にも喜びと発見が多い。」

(札幌の人々に伝えたいメッセージ)
「今後も力を貸してほしい。若いファンと音楽家を育てていきましょう。」

2007年7月10日 朝日新聞朝刊北海道版
PMF指揮者リッカルド・ムーティ氏に聞く

リハーサルを聴講していて、マエストロにここまで丁寧に指導されるアカデミー生をとても羨ましく思い、また、マエストロの指摘をすぐに演奏に反映させることのできる彼らの反応の素晴らしさを、本当に羨ましく思いました。

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北海道新聞のインタビュー

マエストロ・ムーティへの短いインタビューが、今朝の北海道新聞に載っています。

「PMFには故郷も宗教も文化も違ういろいろな国の若者が集まっていて、アジアの若者も多い。彼らが音楽の表現を通じて一つにまとまるのは、非常に意義のあること。」

「若い人は開放的で、私の言うことをどんどん吸収する。土に種をまき、花が咲くのを見るのはうれしいね。」

(キタラホールについて)
「こんなに素晴らしいホールがあるとは思わなかった。日本人は西洋文化をよく吸収したけれども、私も日本の文化に近づき、吸収したいと思っています。」

カラー写真もついていて、朝刊を開いた途端に歓声をあげてしまいました。

マエストロの指揮について、「大柄な体を震わせながら振り下ろすタクトは、気迫にあふれる。」と書かれています。指揮台上では、ジェスチャーが大きくダイナミックなため、マエストロは本当に本当に大きく見えます。

2007年7月10日 北海道新聞朝刊
ひと2007 PMF首席指揮者を務める リッカルド・ムーティさん
若手の成長が楽しみ

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Sunday, 01 July 2007

ナポリを応援

5月に出たIl Sole 24 Ore紙別刷り掲載のマエストロ・ムーティのインタビューを、やっと入手しました。
雑誌というよりも、新聞の別刷版、差込版のようなものです。

ラベンナ音楽祭のサイトでもポッドキャストによるダウンロードができるようになりましたが、マエストロのインタビュー記事の冒頭には、I-Pod? Cos'e'?というマエストロの言葉がありました。知らないわけはないでしょうが、使っていないのでしょう。

また、最後にスポーツのことをたずねられています。家族はみな、ユベントスのファン(キアラさんは随分昔、ユベントスのファンだと言っていました)だけれども、自分はナポリを応援している、と語っています。

好きな町はとたずねられて、ウィーン、と答えています。音楽が巷に普及している、とのこと。ナポリもイタリア音楽の中心だったことがある、と付け加えています。

興味深かったのが、搭乗待ちの間、何をしているのか、という問いへの答えでした。勉強したり楽譜をさらったりする必要がないときでも、物思いにふけって完全に休息している、読書はあまりしない、愛想がよくなかったり、よそよそしかったりして見えるだろうが、実際のところ、ひとり離れて、自分に集中させてもらっている、とのこと。

マエストロはファンに対してどんなに人懐っこく、優しい人であろうと、わたしにとっては、やはり、この世の中でいちばん気遣いをすべき人、その一挙一動に細心最大の気遣いをすべき人、最も畏敬の念を抱くべき人です。

2007年5月15日 Il Sole 24 Ore, Luxury 24
Giovani prendetevi la musica

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Sunday, 17 June 2007

ピアチェンツァへの感謝(2)

ザルツブルク聖霊降臨祭前にとられた、マエストロ・ムーティへのインタビューの続きを紹介します。

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の意図の中に、汎ヨーロッパ的なもののほか、イタリアへの強烈な想いと誇りがあることが、このインタビューからあらためて感じられます。

また、マエストロのファンならば、マエストロが音楽を愛する人々にはとても人懐っこく接してくれることを、よく知っていると思います。とても偉大で遠い遠い存在の人ですが、ファンに優しいところが本当に嬉しいし、そんなところも尊敬しています。いつか、是非、ピアチェンツァに行きたいと思うのですが。

2007年5月24日 Liberta'紙
Il "grazie" di Muti a Piacenza
«Ha abbracciato con calore la Cherubini»

現在、そして、オーケストラの近い将来には、非常に重要な国際体験が迫っていて、その中には、1700年代ナポリ楽派に関連した音楽プロジェクトである、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭への参加があります。ケルビーニ管のこの新しい重要な『ステップ』について、何か語っていただけませんか。
「長い間深めてきた昔からのプロジェクトです。私はナポリで生まれ、ナポリ音楽院でピアノを勉強し、卒業したからです。この町で、1800年代、1900年代ナポリ楽派の偉大なマエストロ達の空気を吸いました(原文どおり。In quella città ho respirato l'aria dei grandi maestri della scuola napoletana dell'800 e del '900)。歴史と栄光ある音楽院、conservatorio di San Pietro a Maiellaにおいて、そして、世界で最も絶大な図書館のひとつが入った歴史的建造物のひとつにおいて、その息吹に触れたのです。若い頃からこの図書館を閲覧でき、多数の眠っている書の数々に常に魅了されていました。すべて、偉大な音楽家達によるものです。Paisiello、 Traetto、 Pergolesi、 Cimarosa、 Iomelli といった人達で、非常に重要な音楽を書いていて、モーツァルトやハイドンを含む、ヨーロッパの重大な音楽家達に影響を与えました。この音楽院には多数の楽譜が眠っていて、いつもこう思っていました。1700年代にナポリとオーストリアの間に存在した、歴史的文化的に優れた関係を強調するために、これらの楽譜をいつか、何らかの光のもとに戻すことができたらどんなにいいだろうか、と。ナポリ王妃はオーストリアのマリー・カロリーヌ(マリー・アントワネットの姉)で、その時代、彼女はナポリの音楽と文化に強い影響を与えました。金融・経済・通貨の観点からだけではない、ひとつのヨーロッパを築こうとしている現在の世界において、過去様々な国が一体になって築いていたこの関係に気づくことは、今、大きな好奇心と興味の要素になると思います。ナポリ楽派の音楽家達がヨーロッパに君臨し、チマローザを含むイタリアの音楽家達がオーストリア、ドイツ、ロシア、フランス、イギリスに滞在し、イタリア文化の輝きを持ち込んだことを忘れてはいけません。その結果、彼らはヨーロッパ文化に影響を与えたのです。この要素を光の下に引き出すことは、イタリアにとって重要だと考えています。イタリアはしばしば、自分達の文化の由来を忘れています。」

あなたは既にピアチェンツァを我が家のように思っていて、この地の渓谷や城のことも知っています。世界の数々の主要都市の有様に慣れていますが、地方のこの小さな存在がどのように気に入っていますか。
「私はナポリに生まれ、そこは中心都市です。また、半分はプーリア人で、17歳までモルフェッタで育ちました。そこはGaetano Salveminiの故郷であり、従って、過去の偉大な文化を持った町です。1年の大部分をベルリン、ウィーン、ロンドン、パリ、東京、ニューヨークといった重要な中心都市で過ごし続けてきていますけれども、こういう小さな町の人間的な面を非常に愛しています。道を歩けばまだ自分の足音が聞こえ、道でその人だと顔の見分けがつけられる、といった面です。従って、ここにいると、私は我が家にいるような感じがします。結局のところ、とはいっても、私はラベンナに住んでいますが、そこもエミーリア・ロマーニャ州の町で、ピアチェンツァの側からポー川の向こう、アドリア海に面したラベンナに至る部分をひとつにつなげる、理想的な虹の橋を考えています。」

ピアチェンツァ生まれは、性格的には、最初は少しとっつきにくいけれども、時がたつと非常に穏和で、実際的だ、と言われています。あなたはナポリ生まれですが、音楽家としては国際人です。ここの人々との関係は寛いだものですか。
「人々が多く集まるようなところへ行く時間はそれほどありませんし、ケルビーニ管の若者達のために特に時間を割いています。けれども、道を歩いているときでも、人々は私に気づき、心をこめた優しい挨拶をしてくれます。従って、こう言うべきでしょう。この町の人々は音楽に関することに興味があり、このことは当然のことながら、私を非常に力づけてくれます。私とこの町のそういう人々との間には温かな人間味ある関係が生まれている、と。」

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ピアチェンツァへの感謝(1)

マエストロ・ムーティが札幌を訪れるまで、あと20日ほどになりました。
本来ならば夏休みがとれたのに、と残念です。それでも、指揮者とオーケストラの間には愛情の交流があると言っていい、というマエストロの言葉どおりに、マエストロとPMFオーケストラとの間にかわされる愛情を少しでも感じることができる時間があれば、と思います。
そんなことを一層強く感じさせてくれた、マエストロ・ムーティの聖霊降臨祭音楽祭前のインタビューを、遅くなりましたが、何回かに分けて紹介します。

2007年5月24日 Liberta' 紙
Il "grazie" di Muti a Piacenza
«Ha abbracciato con calore la Cherubini»

2004年にあなたはこう言いました。「偉大なマエストロ達から受け取ったものを、私は自分の祖国に返したいと思っています。つまり、イタリアの素晴らしいオーケストラを再編成するということです。」ほぼ3年がたち、使命は果たされたと言っていいでしょうか。
「芸術の分野では使命が達成されることは決してありません。使命に終わりはないのです。フィレンツェ五月音楽祭創設者であるマエストロ・ヴィットリオ・グイが、90歳になろうかという時に、私に言ったことを思い出します。その時若かった私はフィレンツェにいました。『指揮するということを習得しつつあったその時には、まもなく死が近づいているとはなんと残念なことでしょう。』彼は、指揮するということについて、それは拍子をとるのではなく、演奏家達から最大限の可能性を得ることだと理解していたのでした。芸術における我々の仕事では、向上すれば、ますます視野・限界が広がるということに気づきます。けれども、この数年間、我々がたくさんの種をまいたことは明らかです。ケルビーニ管の若者達は交響曲のレパートリーに取り組み、《カプレーティとモンテッキ》、《ファウスト》、ヒンデミットの《聖スザンナ》を演奏して、オペラのレパートリーにも取り組みました。また、1700年代ナポリ楽派のオペラを上演して、2007年、2008年、2009年に招聘されている聖霊降臨祭音楽祭にも参加します。若者達は室内楽の活動も熱心に展開しています。それは、自分達の芸術性や楽器演奏の質を磨くのに非常に前向きで好ましいことです。」

この2年間のブートニエール、勲章は何だと考えていますか。最も誇るべきものは何ですか。
「興味深い演奏会がありました。コンサートではどの瞬間も、ブートニエールとして誇らしく思うと言っていいでしょう。リハーサルから本番まで。オーケストラが創設された当初は同じことをするのに数ヶ月を要したのに対して、3日間でおそらくそれを達成し、さらにステップを上がったことに気づいたとき、などです。私は、ひとつのフレーズをどう演奏するかを語り、演奏者同士の関係をどう聴くかについて語り、オーケストラの中ではどうあるのかを語っています。なぜなら、このオーケストラがどうして生まれたかを忘れてはならないからです。世界中を巡っている指揮者の経験から、若者達が何かを学ぶために生まれました。ケルビーニ管は、たとえ、この国のたくさんのプロのオーケストラよりも素晴らしい演奏をしているとしても、それらと競合するようなオーケストラではありません。任務は若者達に経験を与えることであり、経験の結果を出すことに置かれています。」

あなたは、確かにこの若者達に自分の並はずれた経験のすべてを吹き込んでいますが、彼らはリッカルド・ムーティに何をもたらしたのでしょうか。
「指揮者と演奏家達の間の仕事というものは、演奏家達が若かろうが、それほどでなかろうが、熟練していようが、それほどでなかろうが、常に、言ってみれば、『愛情の交流』です。私は特別のことを求め、彼らはそれに応えます。ある時には彼らは私を驚かすような『反応』を見せます。それらは、オリジナリティ、情熱、新鮮さ、純真さといったものです。だから、私は彼らに与えていると同時に、彼らからも受け取っているのです。」

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Sunday, 03 June 2007

ナポリ民謡ナポリターナも好き

イタリアの女性誌のバックナンバー(1991年のもの)が、「イタリアの象徴」というタイトルのもと、各界の代表者を数人ずつ、写真とともに紹介していました。そのAMICA誌はワールド・マガジン・ギャラリーにも入っていて、マエストロ・ムーティ夫妻が自宅暖炉の前で寛ぐ写真などを、いつもため息をつきながら見ていました。

音楽界のトップはマエストロで、スカラ座で《椿姫》、《パルシファル》の上演が控えている頃の記事です(当時、マエストロ・アッバードとの双方から抜擢されたファブリッチーニも、この特集のひとりに選ばれています)。

当時ならではもの、というのが、マエストロ・アッバードについてその少し前に語ったことの引用でした。「アッバードを超えようとして自分のキャリアを刻んできたのではありません。彼への羨望は自分のキャリアの中に動機としてありません。彼も同じだと思います。」

ナポリターナも好きだと言っているそうです。古いナポリ民謡が大好きで、はるか彼方のことだが、年老いたら、カプリの小さな家にでも隠居して、もっと聴きたいと願っている、とのこと。

この頃はティナ・ターナーに魅せられていたようですが、それでも、やはりジャズのほうが好きだと言っています。

今のマエストロは、カプリではなく、プーリアに隠れ家を築いていますが...。

AMICA 誌 1991年2月25日号
Speciale Immagine Italia
Musica
Riccardo Muti

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Saturday, 02 June 2007

バンパイアの映画が好き

1987年のイタリアの映画雑誌に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っていました。ちょうど、スカラ座開幕公演で《ドン・ジョバンニ》を振る頃のものです。
去年、ローマ国際映画祭で演奏した折に、マエストロは映画について随分語っていましたが、この雑誌でも興味深い話をしています。もっとも、20年前のことなので、今は違うかもしれませんが。

こんなふうに語っています。

最初の映画は、定かではないが、おそらく、6歳の頃に観た、キリストの生涯を描いた無声映画。もっと記憶がはっきりしているのは、ソフィア・ローレンが出た《アイーダ》で、テバルディが歌っていた。いちばん鮮明に覚えていて自分にとって大切なのは、若い頃の1957年にナポリで観たDreyerの"Dies Irae"。
イタリアのネオレアリズモのものがいちばん好き。監督ではフェリーニが大好きだし、ベルイマンも好き。俳優ではゲーリー・クーパー、グレゴリー・ペック、ジェームズ・スチュアート。ジョン・ウェインはあまり好きではなく、理由がわからなかったのだが、今ならわかる、ランボーのようなところがあるからだ。女優では、キム・ノバク、リタ・ヘイワース、マリリン・モンロー。イタリアではアンナ・マニャーニ。
オペラのフィルムはそれほど観ない。オペラは舞台にかけるものだと思う。ロージーの《ドン・ジョバンニ》のコンセプトは好きになれない。よくできた映画だが、モーツァルトの《ドン・ジョバンニ》は映画ではない。何人かの映画監督とはオペラの演出で一緒に仕事をしてきた。フィレンツェの《オテロ》では、映画監督である演出家はオペラと闘ったが、音楽が勝った。

といったふうな感じですが、いちばん面白かったのが、ホラーにはわくわくする、特に、バンパイアの映画、古い映画の《吸血鬼ノスフェラトウ》からクリストファー・リー主演の《吸血鬼ドラキュラ》まで、どれも大好きだと言っていることでした。変身の様子の技巧(歯や血が目立てば目立つほど)を堪能している、とのことです。

マエストロがバンパイアの映画が大好きだ(1987年当時のことですが)とは...。
漫画《ポーの一族》や大好きな漫画家真東砂波の吸血鬼の漫画は好んで読んでいますが、ホラー映画は全く観ないわたしには、超驚きです。

CIAK 1987年12月号
Io e il cinema - Riccaro Muti

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Saturday, 26 May 2007

NEWS誌インタビュー

オーストリアの雑誌NEWS誌にマエストロ・ムーティのインタビューが掲載されていることは、既に紹介しましたが、現物を入手しました。

ピアチェンツァのTeatro Municipaleでのリハーサルの最中にとられたインタビューで、目次と記事トップの写真も同歌劇場客席でのものです(よく撮れていますし、若い!)。

インタビューでは、ウィーン国立歌劇場で《コシ・ファン・トゥッテ》を振り、日本公演にもそれを持っていく、とあらためて語っています。

また、ザルツブルク音楽祭の予定については、2008年にAleksandrs Antonenkoの演出で《オテロ》を上演し、この演出家については掘り出し物、新しい発見だ、と語っています。2009年のカラヤン没後20周年の日には、ブラームス《ドイツ・レクイエム》を振るそうです。

なお、ニューヨーク・フィルの音楽監督や、たとえば、ウィーン国立歌劇場の総裁といった、管理的なポジションに新たに就くことはない、と語っています。

追って紹介します。

NEWS誌 第20号 2007年5月16日号
Riccardo Muti 
"Ich brauche keine Macht"

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Thursday, 24 May 2007

今日のピアチェンツァの新聞

今日のピアチェンツァの新聞の第一面には、もちろん、チャンピオンズリーグ決勝戦で2得点したSuperpippoが、優勝カップにキスをしている写真が大きく載っています。

でも、真ん中にはマエストロ・ムーティの写真もあり、マエストロのインタビューが載っていることがわかります。文化面1ページすべてをマエストロにあてるという破格の扱いです。そこには、ピアチェンツァとマエストロのつながりを書いた記事のほか、長文インタビューが載っています。マエストロはケルビーニ管とのここまでを振り返り、今夏66歳になる自分を簡単に語っています。

喜ばしい日です!

追って紹介します。

2007年5月24日 Liberta' 紙
Il "grazie" di Muti a Piacenza

Ma il maestro si è "innamorato" anche di Castellarquato

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Monday, 21 May 2007

リチートラのインタビュー

レコード芸術誌最新号のリチートラのインタビューを興味深く読みました。
マエストロ・ムーティとの共演について、「芸術的なレヴェルを上げるために非常によかったと思います。」と語っているのを、とても嬉しく読みました。
リチートラは3年前にマエストロから、もうオテロを歌えると言われたそうですが、まだ3、4年は温めておくとのこと。ザルツブルク音楽祭の《オテロ》も彼ではなさそうです。
スカラ座での《仮面舞踏会》は、是非商品化されてほしいです。

リチートラのスカラ座のオーディションについては、フォンタナも自著で短く触れています。
「若きサルバトーレ・リチートラのことは好ましい良き思い出です。オーディションで聴いた後、彼をリッカルド・ムーティに《トロバトーレ》のマンリーコとして提案させてもらいました。ムーティによって入念に準備が重ねられ、挑戦の結果、勝利を勝ち得ました。」

レコード芸術誌 2007年6月号
Interview  サルヴァトーレ・リチートラ

Carlo Fontana
A scena aperta

Electa, 2006

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Sunday, 20 May 2007

聖霊降臨祭音楽祭を前に(3)

12日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。

マエストロは、じっくりと勉強し仕事をすることをすっとばして、センセーショナルな結果ばかり重視することへの疑問を呈しています。

マエストロは誤解されることの多い人だと、いつも思います。

オペラの来日公演に字幕はつけないで欲しい、と要望したことにしても、権威的だとか、オペラが広く楽しまれるという大衆化を妨げるものだとか、いろいろ言われました。
マエストロの意図は、事前にいろいろ調べて聴きにきてほしい、会場では舞台に視線と心を集中させてほしい、ということであり、自分達も一生懸命上演するから、聴衆も同じような心構えで来てほしい、日本の聴衆はそれができるような尊敬に値する人たちだ、という、ある意味、上演における演奏者と聴衆の真剣勝負を語ったものだと考えています。
マエストロが公開リハーサルや事前講演などで、オペラについて人々に深く知ってもらおうとどれほど努力してきたかを、もっと多くの人に気づいてもらいたい、と思います。
特に、日本の字幕システムとスカラ座(アルチンボルディ)などで採用されている座席字幕システムとは、同列に論じることのできないものがあるように思います。

2007年5月12日 la Repubblica 紙
Incontro col maestro che prova con l´Orchestra Cherubini alla vigilia della partenza per l´Austria
"Scelgo Vienna e Monaco sul podio come su una Rolls"

ひとつのオーケストラと仕事することを長く、深く続けるという関係がなくなってもいいのですか。
「先に述べたような限られた素晴らしいオーケストラと仕事をすることは、私にとって、我が家に帰るようなものです。何年もの間、正確さや音色を音楽家達によって維持するという、疲労困憊するような仕事を続けてこなければなりませんでした。現在、ウィーンやミュンヒェンに行くと、音楽を演奏するという純粋な喜びが、すぐに手に入ります。それは、メカニックの仕事の心配をすることなく、ロールスロイスを運転するようなものです。海外の多くの新聞が、ムーティが指揮台でこれほど幸せそうなのを観たことがない、と書いていました。」

紛糾が過去のものとなり、スカラ座での長い経験は尊重されて当然だということでしょうか。
「その19年間については、一日たりとも否定しさることはしません。それでも、私が今このように完璧に幸福であることに、変わりはありません。自由なのです。」

クラシック音楽の危機を語る人もいれば、その回復を語る人もいますし、また、偉大な演奏家達の時代は終わりを迎えている、と言う人たちもいます...。現在の音楽界をどのように見ていますか。
「聴衆が音楽界に入ってきていることははっきりしています。それは好ましい面です。けれども、音楽への近づき方が変わりました。かつては、演奏家達はじっと待つこと、待ち構えることができました。今は、《ドン・ジョバンニ》のように複雑な問題をはらんだオペラで、成熟と賢明さ、特にイタリア語について知悉していることが求められる作品について、イタリア語を話さない人やこのレパートリーの上演経験のない人が信頼されています。その結果、歌手も危機に陥っています。私がリヒテルやロストロポービッチと共演したときには、ひとつのフレーズを強調するために、ひとつのハーモニーの意味をくみとるために、ひとつの楽節を解釈するために、時間をかけました。今は、そのかわりに、効果がどう現れるかということに根ざした衝撃性に重きがおかれています。本物の炎を礼賛しているのではなく、煙を盲信しているのです。」

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Friday, 18 May 2007

NEWS誌最新号

オーストリアの雑誌NEWS誌最新号にマエストロ・ムーティのインタビューが掲載されています。
最新号の目次がInhaltsverzeichnisをクリックするとPDFで見られます。

http://www.networld.at/news/magazin/

バックナンバーとして入手できないか照会しましたが...。

NEWS 誌 2007年5月16日号 No.20
Kultur: Riccardo Muti

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Sunday, 13 May 2007

聖霊降臨祭音楽祭を前に(2)

12日のレプッブリカ紙に載った、マエストロ・ムーティへのインタビュー記事の続きを紹介します。

マエストロには、音楽以外のことでは神経をすり減らして欲しくない、と心から願い、気遣う気持でいっぱいです。

2007年5月12日 la Repubblica 紙
Incontro col maestro che prova con l´Orchestra Cherubini alla vigilia della partenza per l´Austria
"Scelgo Vienna e Monaco sul podio come su una Rolls"

新しい音楽祭は《ドン・カランドリーノの帰還》で始まります。どうして、この作品を選んだのですか。
「チマローザは基本的にはウィーン、しかも皇帝の宮廷にいた作曲家です。これは素晴らしい仕上げのなされたオペラ・ブッファで、モーツァルトにおいて再び見つけられ、そしてロッシーニに至るような要素を持っています。台本作家Petroselliniの貢献は抜きん出ています。彼はモーツァルトの《偽の庭師》の台本も書いています。彼の言葉遊びは楽しくて他の言葉に移し変えることはできず、Scarpetta、Viviani、De Filippo、Totò...に至る道を意味しています。偉大なナポリ演劇の伝統です。」

最近、あなたのニューヨーク・フィル常任について随分話が出ています。ニューヨーク・タイムズ紙のインタビューでオーケストラのマネジャーZarin Mehtaが、あなたはオーケストラに特に歓迎されている、と言っています。現在、あなたの辞退のニュースが明らかになっています。何が起きたのですか。
「真実は、常任の固定された地位は望んでいない、ということです。スカラ座を離れて以来、たくさんの申し出を受けてきました。けれども、どこかの団体の音楽監督でいることが40年間続きました。自由を感じていたいし、次のような、限られた絶大なオーケストラへ客演するような仕事の仕方を望んでいます。ウィーン・フィル―1971年からつながりがあります。ロンドンのフィルハーモニア管―そこでは音楽監督でした。ミュンヒェンのバイエルン放送響―世界で最も素晴らしい交響楽団のひとつです。フランス国立管―6月1日にモスクワでもっぱらシューベルトだけのコンサートを開きます。そして、ニューヨーク・フィル―6月に2週間、再び演奏します。実際の音楽監督が気にかけ、手がけなくてはならないといわれているようなこと、つまり、音楽団体の内部活動にはいっていくようなことに、これ以上関わりを持つ気にはなれません。しかも、アメリカのオーケストラでは(私はフィラデルフィア管との仕事について、長年にわたって責任を負っていました)、スポンサーなどと関わる活動にも参加しなければなりません。」

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聖霊降臨祭音楽祭を前に(1)

昨日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューを紹介します。
Spettacoliの面の第1ページ全面を使った記事で、マエストロの指揮姿全身の写真を大きく載せています。

ケルビーニ管とザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のリハーサルを行っている最中にとられたインタビューで、音楽祭の意義、ナポリ楽派の重要性を語り、ニューヨーク・フィルでの重要なポストを受けない理由を語り(いくつかの素晴らしいオーケストラと音楽を演奏する喜びを楽しみ、自由を享受する)、スカラ座について語り、成果を急ぎすぎる現在のクラシック界への憂いを語っています。

マエストロがあまりにも若く見えるので、時々、ああ、そうなのか、とあらてめて感銘を受けることが、これです。
すなわち、マエストロがよく口にする倫理的な義務、その歳になったからこそ、社会に向かってますます発言し、自分が受けてきた恩恵を還元する責務が、最近のインタビューで非常にはっきりと感じられます。もちろん、ケルビーニ管との活動はそのひとつの表れです。
先日のピアチェンツァでの即席サミットでは、マエストロは60代(とてもそうは見えません!)、市長は40代、ルテッリは50代で、経験豊かな年長として後生を導いていく人なのか、とピアチェンツァの新聞第一面の大きな写真を見ながら、ますます敬意を強くした次第です。

2007年5月12日 la Repubblica 紙
Incontro col maestro che prova con l´Orchestra Cherubini alla vigilia della partenza per l´Austria
"Scelgo Vienna e Monaco sul podio come su una Rolls"

「マリアの悲しみは悲嘆と優しさに満ちています。イタリアの聖母を、ミケランジェロの《ピエタ》を想い起こしてください。」そして、さらに進める。「この音楽からは、ほら、聴こえてくるでしょう?、イタリア南部のプロセッションが浮かんできます。」リッカルド・ムーティはピアチェンツァのMunicipaleの指揮台で、スカルラッティの四声のための荘厳なオラトリオについて説明しながら、ケルビーニ管の若者達とリハーサルをしている。ひとつのフレーズにこだわり、旋律の進行を歌ってみせる。エピソードや思い出を引用する。そして、リハーサルに没頭することに戻る。熱烈で、根気強さを見せ、熱意をこめてたがねをふるって磨き上げる。若者達は彼に従う。ふわふわした巻き毛、ジーンズ、髪をたばねてまとめた男性達がいる。音楽を演奏することを喜び、集中している。ザルツブルクで跳躍する前の、長時間のリハーサルだ。ザルツブルクとは、国際的な舞台、モーツァルトの町の最高に厳しい聴衆、ウィーン・フィルを夏に歓迎するのと同じオーケストラ・ボックスを意味する。あとわずかの後ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭が任せられるのは、ムーティによって創設されたイタリアの若者達の楽団に対してである。今年モーツァルトの最高の演奏家であるマエストロはザルツブルクへ、1700年代ナポリに捧げる3年間の計画とともに、その創設者として登場する。1700年代ナポリはモーツァルトの天分が大いに依拠するところのあった音楽世界である。1700年代ナポリではScarlatti、 Piccinni、 Paisiello、 Jommelli、 Fioravanti といった音楽家達のオペラ、ミサ、オラトリオがくりひろげられ、ムーティが言うには、彼らは啓蒙の世紀のチャンピオン達だった。ムーティはナポリで生まれ、そこで勉強し、この計画の意義についてこう言う。「それは、ナポリ楽派の重要性、特に、ウィーンとの関係においてそうだったことを意味します。演劇や音楽だけでなく、文学や絵画がより合わさって生まれたもので、二つの都市のつながりは強く、ヨーロッパ文化にとって無視できない存在でした。ヨーロッパ統合を形成することが模索されている現在において、ナポリの音楽家達が既にそのことを成し遂げていた様子を示すのは、興味深いことです。」

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Saturday, 12 May 2007

レプッブリカ紙のマエストロ特集

今日のレプッブリカ紙はマエストロ・ムーティとザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の特集を組んでいます。

昨日のIl Mattino 紙によれば、ナポリ音楽院の貴重な楽譜、絵などがザルツブルクでの展示に向けて、送り出される予定です。
同音楽院の図書館サイトでもいくつかの所蔵を確かめることができます。

追って、紹介します。

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Tuesday, 08 May 2007

パノラマ誌のインタビュー

マエストロ・ムーティのインタビューがパノラマ誌最新号に載っていることは、マエストロのサイトで知り、ここでも紹介しました。
5ページにわたる記事(1ページは指揮姿の写真)ですが、読後に重いものも残る記事でした。

一方では、若い音楽家たちからなるケルビーニ管にうちこんで、《トリスタンとイゾルデ》や《魔弾の射手》といった多数の有名作品をうちやって、ナポリ楽派のオペラを上演し、他方では、ニューヨーク・フィルやウィーン・フィルといった偉大なオーケストラと共演する、というのがスカラ座を去った後のマエストロの様子だと書き、フィルハーモニア管とのヴェルディ《レクイエム》の新聞評やニューヨーク・フィルとのリハーサルの様子、ニューヨーク・フィルの第一の音楽監督候補にあがっていることなどが書かれています。

もちろん、これまでにも書かれてきたように、マエストロは現在の自由を存分に楽しんでいると、この記事にもあります。

でも、マエストロの憂いのようなものも少し書かれています。音楽が表面的な現象になっていないだろうか、センセーショナルな話題を提供することに終始していないだろうか、ということであり、若い演奏家、演出家などが仕事を急ぎすぎていないか、十分なたくわえがないうちに仕事をしすぎていないか、ということです。ミュンヒェンでブーレーズとバレンボイムのコンサートにはたくさんの空席があるというのに、話題性だけの歌手の800ユーロのチケットが売り切れている、あるいは、ザルツブルクで舞台リハーサルなしに《ドン・ジョバンニ》を指揮した者がいた、と語っています。若い演奏家たちがどれほど音楽を知っているのか、どれほど勉強できているのか、どれほど勉強したいと思っているのか、懸念しているようです。
そして、どうすればいいか、には、lavorare 勉強、と答えています。

追って、紹介します。
ケルビーニ管のコンサートミストレスと、楽譜を手に話し合っている写真は、とてもいいな、と思います。

Panorama 誌 2007年第19号
L’INCONTRO A colloquio con MUTI dopo la scala

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Thursday, 03 May 2007

31年間の成熟

フィレンツェ五月音楽祭出演に際して行われた、マエストロ・ムーティの短いインタビューを紹介します。

2007年4月28日 Avvenire 紙
Muti: «Dedico Orfeo al coraggio dell'amico Slava»

「グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》をSlavaの思い出に捧げます。死に打ち勝った人生を描いたオペラです。」リッカルド・ムーティの声は強い感情に揺さぶられていた。今晩、彼のフィレンツェへの帰還はめでたい祭典になるはすだった。そのかわりに、この指揮者にとって、「とても親しかった友人で、共演したことを誇りに思い、その傑出した音楽解釈にいつも魅了されていた友」への最後の敬意を表す場となるだろう。ロストロポーヴィチは、2004年のスカラ・フィルのロンドン・ツアーについて、ムーティの代わりに指揮するよう依頼されたが、断り、その行動を、困難なときにある友に対する友情の表明だと説明したが、まさしく、そのロストロポーヴィチのことである。今晩と明日、ムーティは五月音楽祭の指揮台に戻ってくる。1976年にLuca Ronconiの演出とPier Luigi Pizziの舞台美術の助力も受けて、イタリア・オペラの歴史に痕跡を残した作品を、指揮するのである。ムーティは説明する。「コンサート形式でなされ、始める前に友ロストロポーヴィチを偲びます。」

マエストロ・ムーティ、このロシア人チェリストの死去で、音楽から失われたものは何でしょうか。
「しばらく前から、音楽界はロストロポヴィチの健康状態を心配していました。彼の死去は、今、音楽と文化から、我々の時代における最も傑出した人物のひとりを奪いました。崩壊したベルリンの壁の前でチェロを演奏したSlavaを忘れることはできないでしょう。偉大なチェリストであり、素晴らしい指揮者であった彼は、同時に、強い熱意をもって、平和、友愛、自由を倦むことなく求めたひとりの人間、市民でもありました。」

なんというのでしょうか、グルックのオペラのテーマは...
「《オルフェオとエウリディーチェ》のテーマは永遠の夢、伝説です。妻のエウリディーチェを取り戻しに地獄へ降りてゆき、オルフェオは実際には自分自身を探し求めます。だから、ここで、スコアは聴衆に深い省察をうながしているといっていい、ということを、私はもう一度持ち出します。フィレンツェではじめて《オルフェオとエウリディーチェ》に取り組みました。31年間に聴衆は悲惨なことや損失を体験しましたが、希望を抱かせるできごともあり、それは歌劇場に通う人の中に深い文化的精神的姿勢を生み出すのに貢献しました。」

そして、あなたの演奏も成熟しましたか?
「この時の流れの間に、古典といわれる音楽だけでなく、現代音楽にも向き合うという、たくさんの円熟した体験のおかげで豊かになったんですよ。」

1976年の歴史的上演の後、今回は、《オルフェオとエウリディーチェ》はコンサート形式です。
「私のスケジュールによるやむをえない選択です。あと1ヶ月でザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を予定しているからです。そこではケルビーニ管と1700年代ナポリ楽派見直しをします。私の人生における最も重要な体験のひとつを築いたオペラを、フィレンツェに戻って指揮する感動は隠しません。《オルフェオとエウリディーチェ》は音楽的な演奏面で素晴らしい成功を収めましたが、ロンコーニの舞台にとってみてもそうでした。それは、アルプスの向こう側では扇動的なものに形を変えてしまったような歪曲を行うことなく、現代的な演劇の根本を提示したのです。」

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Tuesday, 24 April 2007

バイロイトはいつ?

1982年12月のマエストロ・ムーティへのインタビューに、バイロイトの話が少しだけ出てきます。マエストロを紹介する記事で、しばしば出てきていたエピソードです。

その5年前に、バイロイトから《パルシファル》の指揮を求められて、辞退した、と語っています。30代なかばのマエストロに《パルシファル》を持ちかけた、というのは驚くべきことですが、いつの日か、バイロイトに登場するのでしょうか。

1982年12月13日付 Europeo 誌
Mi volete divo? Cosi' sia

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Sunday, 15 April 2007

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭への意欲(2)

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のサイトに載っているマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。
英語よりも独語のテキストのほうがわかりやすい部分が多かったとはいえ、このようにマエストロの言葉で作品の様子がわかるのは嬉しいことです。
演奏にも、せめて録音録画で接することができたら、と願っています。

知識がなくて、イタリア式のバイオリン奏法の教授には興味津々です。

PFINGSTFESTSPIELE 2007
Interview mit Maestro Riccardo Muti

http://www.salzburgfestival.at/pfingsten_start.php?lang=de&goto=interview

ムーティはライブラリアンの準備作業を称賛した。無尽蔵のソースから、さらにきめ細かに閲覧するために、ある30の作品、オペラとオラトリオを選出したのである。ムーティはこの選択の中からオペラをひとつ、オラトリオをひとつ、2007年聖霊降臨祭音楽祭のために選んだ。ドメニコ・チマローザの《カランドリーノの帰還》、アレッサンドロ・スカルラッティの《四声のためのオラトリオ》である。両作品とも全く稀有なものだ。そして、このソースがすばらしいのは、非常に明瞭できちんとした手書きであるため、使用するためにそのまま直接コピーできることである。

ムーティによれば、これらの作品はナポリ楽派の発展を描いている。スカルラッティのオラトリオは1717年から始まっているし、チマローザのオペラは1778年からである。これは様式の巨大な進展を示している。

申し分のない音楽家として、ムーティはこれらの作品の質をどうみているのだろうか。ここでも、マエストロは興奮に満ちている。「ナポリが歌劇場の町だったことに気づかなければなりません。人々は楽しみを求めて歌劇場に行っていました。文化的な教育のためではありません。当時の歌劇場は今でいう映画のようなものでした。」だから題材は人気のあるもの、滑稽ものでさえあるものが使われていた。「しかし、《カランドリーノの帰還》はメランコリーの要素をもったオペラ・ブッファです。それはナポリ楽派に典型的なもので、常に物悲しさtristezzaの気味があります。」筋書きは、「愛について問題を抱えている」二人の女性と、謎めいた男性(ドン・カランドリーノといって、外国から自分の生まれた町へ戻ってきた)、そして、一風変わったフランス人、Monsieur Le Blondeを扱っていて、Monsieur Le Blondeは骨董品と考古学に非常に興味を持っていて、「しかしながら、誰もが彼を無視しています。」

チマローザは、自分のユーモアを、第一義的にはバーレスク・コメディーからではなく、基本的に台本の巧妙な言葉、著しくうまく書かれている会話の、至るところではじけているだじゃれから引き出している。音楽的には、作品は傑出したメロディーラインの上に築かれている。特に、テノール、ドン・カランドリーノは高度のテクニックを求められる。「彼が大活躍する場面にはある意味、全く現実離れした、狂気じみたものがあります。自分を殺そうとする嫉妬深い友人から逃れるシーンです。それは、あたかも、音楽の様式でもそうですが、理性を実際に失ったかのようです。長いアリアを伴ったおおがかりなレチタティーヴォでは、チマローザは激しい雨と風を伴った雷雨の音響効果を作曲していて、自然の素晴らしい描写となっています。」

ムーティは、同じような「光景」が、スカルラッティのオラトリオにおいて、キリストの死に伴う地震の場面にあると語る。オラトリオはオペラよりはるかに禁欲的、厳格でまじめである。自由奔放な即興精神に由来するものではない演奏様式、もっと統制のきいた演奏様式が求められる。「我々は非常に厳格正確に様式に従って演奏しなければなりません。」とムーティは言う。しかしながら、彼は、演奏の遂行に関して教義的独善的ではない。

スカルラッティのオラトリオは聖母マリアの生涯を全体的に反映している。そこには、マリア、ヨハネ(キリストのお気に入りの弟子)、ニコデモ、そしてユダヤ教の大祭司オニアスが登場する。音楽はアリアと二重唱(合唱はない)を含み、「高音を伴うバッハ・トランペットのある、非常に興味深い器楽演奏が見られます。」このような細部は、ムーティが言うには、スカルラッティがどれほどドイツ音楽、バッハに大きな影響を及ぼしているを示している。それは、チマローザがモーツァルトに大きな影響を与えているのと同じである。《ドン・カランドリーノ》の台本作家Giuseppe Petrosinelliはモーツァルトの《偽の庭師》のテキストも書いた。

ムーティだけがルイージ・ケルビーニ・ユース・オーケストラを称賛しているわけではない。オーケストラはイタリア中の音楽院出身の最高の音楽家たちから構成されている。「Gerard Mortier は《ドン・パスクァーレ》を聴き、演奏の生き生きとした活力を喜んでいました。」メンバーたちはナポリ精神を心から感じている。「この音楽は演奏するのが非常にむつかしいものです。なぜなら、特別な様式を要求しているからで、特にバイオリンの左手の技術に高度の技巧が必要です。あらゆることがそれにかかっています。ケルビーニ・オーケストラは、このバイオリン奏法におけるイタリア楽派を自然なものだと感じています。この奏法は我々の教育の一部にすぎません。それは音楽と関わる際の、自然で直接的な方法です。」彼の情熱に境界はない。「私達は昼も夜も練習にのめりこんでいます。」これは本物の情熱だ。

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フィレンツェ時代を振り返る(3)

4月6日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。
地理が大好きで、地図が大好きで、マエストロがここで暮らしたのか、と想いをめぐらすのは、幸福なひとときです。

2007年4月6日 la Repubblica 紙
70° MAGGIO MUSICALE
Parla il maestro, uno dei miti del festival
Muti: "Che favola quel mio debutto col grande Richter"

フィレンツェのテアトロ・コムナーレは、非常に有名なオペラに関するオリジナルスコアへの絶対的な忠誠を、あなたがはじめて試した歌劇場です。たとえば、1977年にはヴェルディの《トロバトーレ》で、《見よ、恐ろしい炎を》からフィナーレのドをとり、長く続く避けがたい論議をもたらしました。1978年に上演された《ノルマ》では、ベッリーニが当初考えていた配役どおり、アダルジーザの役に(メゾソプラノではなく)ソプラノを割り当てました。
「たとえ、ヴォットー自身は、すでにとりきめとなっていたようないくつかの慣習に適応してはいたとはいっても、彼が私に伝授したトスカニーニの教えがそれです。作曲家が書いたことに従って演奏することは、かつても今も大切にされていませんが、偽造、省略、厚かましさ、放縦を避けた解釈です。要するに、これらはすべて、作品の正当性をしばしば損ない、作者の意図を裏切ることです。《リゴレット》を例に挙げてみましょう。自分の声のテクニックを見せようとする、最高の能力の誇示を許容するような慣習、慣習上、演奏者に"ah no, e' follia"の部分で(ヴェルディが望んだミ音のかわりに)ソの最高音が求められる意義は何でしょうか。ジルダが水に沈められるクライマックス、まさしく光が炸裂する瞬間を邪魔するだけです。サーカスのような音をそこに期待することは、作曲家への裏切り、そして、また、演劇についての考えへの裏切りを意味します。グイも、モーツァルトについて言おうと、ヴェルディあるいはワーグナーについて言おうと、根拠のない、侵略的な越権行為に反対でした。私も同じです。」

五月音楽祭では、すでに迫ってきていますが、グルックの《オルフェオとエウリディーチェ》をコンサート形式で指揮します。1976年にこのオペラで、音楽祭の歴史にとって忘れることのできない決定的な友情が始まりました。Luca Ronconi 、Pier Luigi Pizziとの友情です。
「そのとおりです。強烈なトリオです。当時グルックは演奏されることの少ない作曲家でした。非常に難しかったからです。モーツァルトやハイドンのような、非常に人気のある作曲家にはない音の響きやパッセージが、実際、求められています。ローマでスポンティーニのAgnese di Hohenstaufen を指揮しました。このグルックのレパートリーに私を導いたオペラで、フィレンツェでも1974年に上演しました。Leyla Gencer の共演で、舞台はCorrado Cagliが担当しました。《ナブッコ》も《オルフェオとエウリディーチェ》と一緒で、1977年に上演し、議論は避けがたいものでしたが、リソルジメントと古代を重ねあわせるという、最高に素晴らしいアイデアを承認した上演でした。同じように《オルフェオ》も、イタリアのオペラ劇場を打ち破るようなプロダクションでした。Ronconi とPizzi の舞台は次のようなコンセプトに根拠をおいていました。全く新しい領域に属するコンセプト、舞台の本質、鏡を用いた暗示的な効果などです。毎晩、幕を開けるたびに、堂々とした糸杉と白い仮面をかぶった脇役たちの光景が見られ、身震いと感動が生まれました。私とともに、聴衆もそうでした。」

フィレンツェの多くのファンが、今は、あなたの友人になっています。
「最高に忠実な友人たちです。熱狂して叫ぶような人たちは私の好みではありませんでした。彼らはそうではなく、尊敬できる人たちで、教養があり、テアトロ・コムナーレとフィレンツェを愛しています。彼らは私が非常に恩義を感じている町との絆です。そういう理由から、3人の子供はフィレンツェで生まれて欲しいと思っていました。via de' Rucellaiの家です。そこへ戻ると、歩いて回るのが喜びだし、気づかれるのが嬉しいです。そして、人々がそばにいる人にこうささやいているのを見るのが楽しいです。ほら、ムーティさんたちだ。」

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Tuesday, 10 April 2007

フィレンツェ時代を振り返る(2)

6日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。

マエストロのサイトには若い頃の写真、フィレンツェ時代の写真がたくさん載っていて、どんな青年だったのかを想像するのがとても楽しくなります。

Riccardo Muti Official Website, immagini
Un giovane Riccardo Muti

http://www.riccardomuti.com/gallerie.aspx

2007年4月6日 la Repubblica 紙
70° MAGGIO MUSICALE
Parla il maestro, uno dei miti del festival
Muti: "Che favola quel mio debutto col grande Richter"

「今でも、このコンサートは私のキャリアの中で最高の頂点のひとつだと思っています。Leonardo Pinzauti がLa Nazione紙で、リヒテルのようなピアニストの伴奏をすることがどれほど困難であるかを強調し、それをやってのけた私を称賛していたことを思い出します。この記事ではじめて、言外にですが、私が常任指揮者の役割で契約することが提案されました。オーケストラが大声をあげて求めていた任務です。Paoneは若者に好んで焦点をあてていましたが、1968年秋のコンサートに私を望みました。プログラムはGhedini、リヒャルト・シュトラウスの《イタリアから》、そして、モーツァルトのクラリネット協奏曲K622で、ソリストはDetalmo Cornetiでした。彼はフィレンツェ五月音楽祭管の素晴らしい首席奏者で、尊敬と親愛の気持ちとともに思い出されます。リハーサルの間、雰囲気は平穏でした。ボックス席にはPiero Farulliがひとり、非常に注意深い様子でいました。素晴らしいバイオリニストであるだけでなく、フィレンツェの歌劇場の理事会のメンバーのひとりでした。この若い指揮者について、理事達は彼に好感を伝えていたのです。このコンサートも成功で、私を任命するための接触が始まったのでした。それは、事実としては1969年に行われました。私がフィレンツェではじめてオペラを指揮したときのことで、ヴェルディの《群盗》、演出家はPiscatorでした。」

緊迫したときもありました。1973年10月に当時のフィレンツェ市長Bausiに辞任の手紙を手渡し、その中で、Carlo Marinelliを芸術監督に任命した後の劇場の将来を憂える、と断言しました。彼はかつて一度も劇場運営の経験がありませんでした。
「フィレンツェ歌劇場にとって非常に難しい時でした。異常とも思える政治的分割が劇場を襲ったのです。それは今でもあることですが、でも、当時は落ち着いて仕事をすることの妨げとなっていました。私にとっては、芸術上の虐殺でもありました。」

フィレンツェ時代には、ヴィットリオ・グイと堅い真心のこもった友情関係を結んでいました。
「アントニーノ・ヴォットーとともに、師であると同時に、父でもありました。彼の妻Eldaに私の娘キアラの代母を頼むほどまでに、根源的な深いつきあいをしていました。フィエーゾレの彼の屋敷にしばしば会いに行ったものでした。そういった午後を、まるで大いなる人格形成の場であるかのように、音楽について語り合って過ごしたことを思い出します。グイは生ける歴史の一片、証人でした。彼の語りを通じて、シュトラウスやドビュッシーといった、私が勉強を通じて知っていた音楽家たちとの出会いがよみがえりました。ヴェルディやロッシーニ、グイのことは今でも最高のロッシーニ演奏家のひとりだと考えていますが、そういったレパートリーにおける解釈の問題を話しあっただけではありません。それだけでなく、Francesco Sicilianiとの協力によって刺激され、私が自分のものとして消化吸収していたスポンティーニやケルビーニといった作曲家達についても、その解釈問題を話し合いました。《ファルスタッフ》についての彼の貴重で啓蒙的な助言を思い出します。ある日、グイは、一度も手離したことのないワーグナー風の黒のビロードの帽子の陰で、私にこう耳打ちしました。頼むから、ムーティ、この作品にとりかかるときは、始まりの部分が室内楽であることを思い出して欲しい、と。今でも、ヴェルディの最後のオペラを指揮するときは、この素晴らしい洞察を尊重しています。」

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Sunday, 08 April 2007

フィレンツェ時代を振り返る(1)

マエストロ・ムーティがフィレンツェ時代を振り返ったインタビューを、何回かに分けて紹介します。
6日のレプッブリカ紙フィレンツェ版は、その若い頃の写真を載せながら、マエストロを大きくとりあげていました。
マエストロは、古くて長い親交をとてもとても大切にする人です。インタビューを読みながら、いつまでも誠実なファンであり続けようという気持ちを、ますます強く持ちました。

なお、このインタビューの冒頭部分は、マエストロのサイトにも載っています。

Riccardo Muti Official Website
notizie 06 aprile 2007

Muti:” Che favola quel mio debutto col grande Richter” nel 1968

http://www.riccardomuti.com/Notizie.aspx?idNews=118

2007年4月6日 la Repubblica 紙
70° MAGGIO MUSICALE
Parla il maestro, uno dei miti del festival
Muti: "Che favola quel mio debutto col grande Richter"

偉大なピアニストを指揮する誇りと恐れ。グイとの親交。ロンコーニとの連帯友情。リッカルド・ムーティはそのフィレンツェ時代、そして、いまだに彼をフィレンツェにつなぎとめている交友関係について、すすんで語った。

マエストロ、1968年のテアトロ・コムナーレへの、まさしくデビューのときから始めましょう。
「カンテッリ・コンクールでの優勝の後、フィレンツェにやってきました。当時、若いオーケストラ指揮者たちには今日のような特典はありませんでした。重要な音楽団体が不慣れな音楽家たちに、中心的な役割を提供するようなことはなかったのです。Remigio Paoneが五月音楽祭管の指揮台に立つ機会を提供してくれました。それはとりわけ、非常に重要な機会でした。スビャトスラフ・リヒテルが加わったオーケストラ・コンサートだったのです。有名なピアニストに対して、若い指揮者との仕事に反対する理由はないかがたずねられました。彼は承諾し、音楽的であれば十分だ、と言いました。けれども、リハーサルをもたされました。1968年3月に行われるはずだったコンサートの数ヶ月前に、Accademia Chigianaで会うよう、求められたのです。1967年11月の雨の晩にシエナに着きました。脇には、モーツァルトのピアノ協奏曲K450と、ブリテンのピアノ協奏曲ニ長調の楽譜を抱えていました。リヒテルが2台のグランド・ピアノの傍らで待っているホールに入りました。すぐに、何を求められているのか、理解しました。二つの作品の演奏において、彼の伴奏をしなければならなかったのです。オーケストラ・パートは私にまかされていたようでした。そんなわけだったのです。終わったとき、リヒテルは立ち上がり、私の方にやってきて、言いました。この演奏のように指揮するならば、あなたは本当にいい音楽家です、と。君と大いに喜んで共演しましょう、と言ったのです。今でも、このエピソードを思うとき、感動と恐れとで身が震えます。私のフィレンツェ・デビューはドラマのようでした。」

けれども、コンサートは目的地に着きませんでした。
「リハーサルは順調に行われ、オーケストラは私の仕事の仕方に非常に感銘を受けました。すぐに最高の関係になりました。そして、五月音楽祭管の団員たちがストライキに入り、演奏会の晩は飛ばされてしまいました。けれども、Remigio Paone総裁はリヒテルをフィレンツェで聴く機会を失いたくないと考え、五月音楽祭のプログラムにコンサートを挿し入れました。変更は有益でした。なぜなら、オーケストラに戻ってきたとき、騒動は過ぎ去り、オーケストラは、再び、私と会いたがっていたからです。演奏会は大成功の結果を出しました。」

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Friday, 06 April 2007

マエストロを待つフィレンツェ

今日のレプッブリカ紙のフィレンツェ版に、マエストロ・ムーティとフィレンツェ五月音楽祭の強いつながりをとりあげた記事がいくつか載っています。

ひとつは、マエストロへのインタビューです。ここでも紹介した、リヒテルとはじめて共演するにあたって、2台のピアノでリハーサルを行った話に始まり、グイからいろいろなことを学び、素晴らしいトリオを組んだロンコーニやPizziとともに、話題をさらい続けたオペラを上演したことなどを語っています。
フィレンツェへの愛情を率直に熱をこめて語るマエストロは、だから、3人の子供はすべてフィレンツェの家で生まれて欲しいと望んだ、と言っています。その家とはvia de´ Rucellaiにありました。

フィレンツェ時代からのマエストロのファンは、今や、マエストロの友人となっています。彼らについてのマエストロの次の言葉には、いろいろな意味がこめられているように思えてなりません。

Fedelissimi. I fanatici urlanti non sono mai stati di mio gradimento; loro, invece, sono persone rispettose, colte, che amano il Comunale e Firenze.

「最高に忠実な人たちです。熱狂的にわめきまくることは私の好まないところでした。彼らは、そうではなく、敬意の払える人たちで、教養があり、フィレンツェとテアトロ・コムナーレを愛しています。」

マエストロにこういうふうに思われるようなファンになれたら、静かにマエストロを見守り続けるファンになれたら、どんなに素晴らしいことでしょう。

インタビューは後で紹介します。

2007年4月6日 la Repubblica 紙
70° MAGGIO MUSICALE
Parla il maestro, uno dei miti del festival
Muti: "Che favola quel mio debutto col grande Richter"

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Sunday, 01 April 2007

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭への意欲(1)

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のサイトに載っているマエストロ・ムーティへのインタビューを、2回に分けて紹介します。
マエストロが長い長い間心で温めてきたプロジェクトも、気づいてみたら、もう、2ヶ月ほどで開幕です。

後半では作品について簡単に語っています。

http://www.salzburgfestival.at/pfingsten_start.php?lang=en&goto=interview

WHITSUN FESTIVAL 2007
Interview with maestro Riccardo Muti

リッカルド・ムーティは新しいプロジェクトに情熱を注いでいる。それはこれからの3年間、聖霊降臨祭音楽祭で実行するために、ザルツブルク音楽祭が彼を招いたものである。2004年にムーティが創設したルイージ・ケルビーニ・ユース管弦楽団が同行し、ラベンナ音楽祭の協力のもと、18世紀ナポリ楽派の知られざる傑作を発見するために、ムーティがナポリへの特別な旅に乗り出すものである。

このようにマエストロは自分のルーツに帰っていく。ナポリで生まれ、ナポリ音楽院で勉強してその歴史を吸収した。今、そのことを彼は、「ナポリ―回想の街」という題名で語ろうとしている。「ナポリ音楽院は」と彼は言う。「世界で最も古い音楽院のひとつです。the Convent of San Pietro a Maiellaの最初の院長は、Giovanni Paisielloでした。彼はナポリの四つのcollegeを、それらはすべてヨーロッパで重要なものでしたが、ひとつの音楽院に結合させました。これらの四つのcollegeには素晴らしい教師と学生、歌手(ファリネッリといったような)、Porpora、 Jomelli、 Leo、 Picinni、 Traetta、 Scarlatti、 Pergolesiといった素晴らしい作曲家がいました。ナポリ楽派は他のヨーロッパの水源のようなものだったのです。」

ナポリで100年以上にわたって創られた宝物は、次のところで収集されている。「そこは、世界でいちばん途方もなく素晴らしい図書館のひとつです。私はそこを毎日訪れたものでした。ただ入って、スカルラッティの自筆稿を取ってきてくれと館長に頼むだけでよかったのです。何の問題もなく楽譜を吟味することができました。アメリカやオーストリアの図書館のような、慎重で細かなシステムでは全くありませんでした。これが南イタリアです。」とムーティは言って目を輝かせた。「200年前は世界と直結していたのです。」

この「何千という自筆譜を収めた」図書館の雰囲気は、それ以来ずっとムーティの中に残った。「当時でさえこう思っていました。もしもある日、音楽家としてこれらの宝物のために何かできるとしたら、そのときは、この文化・教養を受け継ごうと。この文化・教養は結局、私自身のものなのですから。このためには、組織が、それを実現する場所が、演奏者たちが、お金がもちろん必要です。そして、それにふさわしい国際的関心が必要です。今、その時が来たのです。」

「Jürgen Flimm は、ラベンナの私を訪れ、ケルビーニ管とのリハーサルを聴いたとき、構想を持ちました。彼はその構想が非常に気に入り、ザルツブルクの聖霊降臨祭音楽祭でナポリ楽派の作品を選んで紹介しようと、提案しました。何といっても、18世紀には、ナポリとオーストリアには緊密な歴史的関係がありました。ナポリはヨーロッパの中心地のひとつでした。ヨーロッパ内の文化交流、特にウィーンとのそれは活発で実り多いものでした。興味深いことです。今、我々は好んでヨーロッパの共同体について語ります。200年前は、ヨーロッパをひとつにしようとしていたのは、芸術家たち、文化人たちだったのです。」

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Wednesday, 21 March 2007

スカラ座の音楽監督になった頃

失ってしまって残念に思っていたマエストロ・ムーティに関する資料が、またひとつ、再入手できました。
opera news 誌でLebrechtが行ったインタビューで、1986年夏にラベンナの自宅でとられたものです。

スカラ座音楽監督前任のマエストロ・アッバードとの違いを暗に、そして執拗に問い質しているのには、苦笑します。音楽評論家というよりも、ジャーナリスト、それもかなりセンセーショナルな書きぶりを見せる、彼らしいインタビューです。
内容は、受け継いだときのスカラ座の状態に始まり、インタビューのポイントが音楽家の政治的スタンスに重点を移してしまったかのようにも読めるものです。マエストロは丁寧にまともに答えています。

添えられている写真はわたしが気に入っているもののひとつ、フィラデルフィア管の音楽監督室で、赤いセーターを着ているシリーズの1枚(そのシリーズの1枚はジャケット写真にもなっています)。40代前半にしては信じられないほど若くて美しい、bello、のマエストロです。

政治的思想がどうであれ、オーケストラのメンバーたちがどのような組合に属しているのであれ、指揮台に登れば100パーセント音楽に没頭する、と当たり前のことを何度もきちんと答えているマエストロにブラボー、お疲れさま、と声をかけたくなるインタビューでした。

追って紹介します。

opera news 誌 1987年1月17日号
Muti of Milan

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Friday, 16 March 2007

Andrew Clark の記事(3)

フィナンシャルタイムズ紙に載ったAndrew Clarkによるマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。

マエストロとグイの写真は、マエストロのサイトでも見ることができます。
Riccardo Muti Official Website
immagini

Riccardo Muti e gli ospiti
Il direttore d'orchestra Vittorio Gui
http://www.riccardomuti.com/gallerie.aspx

フィルハーモニア管を指揮してジャネット・ベーカーと共演したのは、手持ちの資料では次の折です。

1978年6月15日 ロンドン
フィルハーモニア管
ベルリオーズ 序曲《ローマの謝肉祭》
ベルリオーズ 夏の夜
ベルリオーズ 《ロメオとジュリエット》抜粋
ジャネット・ベーカー

2007年3月6日 The Financial Times 紙
Passionate believer in pausing for thought

スカラ座ではその抵抗が激化した。もっとも、ムーティの音楽面での要求の結果というよりは、内部の政治的な理由によるものだったが。2005年の突然の辞任以来、スカラ座の多くの演奏者メンバーたちがわざわざ彼と接触し続けている。ムーティはできごとについて自分の解釈を述べることを明らかに嫌がっているけれども、自分が時として「(スカラ座を第一義のものとみなす)馬鹿であった」ことを認めている。「けれども、私は正しかった。自分のしたことに誇りを持っています。これが傲慢に聞こえるとしたら、残念に思います。スカラ座では43もの異なったオペラ作品を指揮しました。あの19年間をいつまでも忘れないでしょう。でも、今は扉は閉じられました。」

そういった言葉が未練のほろ苦さと戻ることのない決断を表しているとしても、それらはまた、どんどん進んでいきたいという気持ちも象徴している。元気を回復して若返ったムーティは、ニューヨーク・フィルハーモニックとの恋愛を楽しみ続けてきた。同フィルは、彼が言うには、「私のために演奏しているように思えます。」ウィーン・フィルとの仕事は続いている。1971年から毎年指揮しているオーケストラである。ロンドンはどうかと言えば、「そこは(イタリアを卒業して)二つ目の学校でした。忘れることのできないいくつかの事柄があります。それは若かった指揮者として非常に大切な事柄でした。たとえば、ジャネット・ベーカーと《夏の夜》を演奏したようなことです。後に女王がスカラ座を訪れて、南イタリアの人間である私に名誉ナイト爵位の栄誉を与えたという事実は、私をとても誇らしい気持ちにしています。」

ヴェルディ《レクイエム》の演奏ほど強く、彼のロンドン時代初期の思い出を喚起するものはない。1970年終わりにフィルハーモニア管とこの作品を録音したし、来週それを指揮するために戻ってくる。フィレンツェでムーティは、高名なヴィットリオ・グイの下でその解釈を学んだ。グイは85歳、ムーティは30歳だった。「《レクイエム》の手がかりは"Libera me"の終わりにあります。」こうムーティは言って、自分の心にとって大事なテーマについて、リラックスしながら入っていった。「スコアに書かれている言葉はlunga pausa(long silence長い静寂、沈黙)です。ソプラノはこう言い続けています。『神様、お願いです、私は守られていません、助けてください』。長い静寂、沈黙。神の答えは何でしょうか?ズドンッ!―ドシンとくる和音の"Dies irae"です。何の慈悲も無いのでしょうか?あるいは、ヴェルディはおそらく希望をもたらすものは何もないと考えていたのでしょう。非常にやっかいです。これは現代の人間のドラマです。lunga pausaは音楽の一部であり、強烈な空虚、空白です。けれども、たいていの指揮者たちは我慢できず、腕を動かしたがります。彼らは休止を無視し、進み続けます。指揮することは病気だと私が言っているのは、こういう理由からなのです...。」

ムーティの場合は異なる―しかし、『マエストロ』との議論はない。晩のコンサートのための休息の時間がきたからだ。ムーティはスコアをとりあげ、ステージドアに向かい、ピアチェンツァの歴史的な中央広場を横切って、ホテルに向かってぶらぶら歩いて行った。

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Tuesday, 13 March 2007

Andrew Clark の記事(2)

フィナンシャルタイムズ紙に載った、マエストロ・ムーティのインタビュー記事の続きを紹介します。
質を高めようとすればある種の軋轢は避けられない、というその言葉に、ここでも紹介した、フィルハーモニア管のかつてのクラリネット奏者のマエストロ・ムーティ観を思い起こしました。妥協せずに高い理想を追求しようとする、芸術家としてのそのあり方は若い頃と変わりありませんが、人々をそこに向かわせる方法がより洗練され、説得力を増したという実際面とともに、端的に言えば、人々が従うだけのカリスマ性が一層備わった、というのが今のマエストロだと思います。

2007年3月6日 The Financial Times 紙
Passionate believer in pausing for thought

ムーティは、演奏解釈の細部よりももっと、心構えのほうを徐々に教えていきたいと思っている。リハーサル後、また煙草を手にリラックスしてムーティは、イタリア音楽の将来を代表するような人たちと一緒に仕事をする幸せの一方で、次のような印象をもつことで、自分がますます過去に向かって引き寄せられていくのに気づいたと認めた。すなわち「ヨーロッパ文化のあらゆる思想が突如として取り残されつつあります。なぜなら、世の中とテクノロジーが別の方向へ非常に速く動いていっているからです。古くさい心情のように聞こえて欲しくないのですが、私がキャリアの始めの頃に、リヒテル、クラウディオ・アラウ、ロベール・カサドシュといった偉大なソリストたちから学んだことのひとつは、倫理的な取り組み方でした。リヒテルと仕事をしたとき、彼は、最初のリハーサルのずっと前に、ホールではなく部屋であらゆる変化について議論して何時間も過ごしたものでした。彼は私によくこう言っていました。『我々は思いもよらないようなことを発見すべく努力しなければなりません。』彼はイタリア語のsorpresaという言葉をいつも使っていました。そして、驚きは一瞬のうちに作り出せるものではありません。それは長い思考の結果なのです。」

ムーティはハムレットの"To be or not to be" を引用し、こう問いかけた。「この最もシンプルなせりふの真髄に達するために、英国の偉大な俳優たちはいったいどれほど長い時間を要したことでしょうか。今日ではすべてがあまりに速くなされすぎます。時間と研究と熟考が必要です。」彼の結論はこうである。現代の若い音楽家達のあまりに多くが、成功への近道をとりたがっている。ムーティはスカラ座ではトスカニーニの範にならい、歌手達は20日間のピアノリハーサルによる準備に参加するよう、よく主張していたものである。

しかし、この非妥協的な姿勢が原因で、傲慢だという非難を免れずにいるのではないだろうか?ムーティは微笑した。そういう言いがかりは彼のキャリアにいつもついてきたからだ。「真剣であることは傲慢だということではありません。それはプロフェッショナルだということです。だから私はこう言っているのです。芸術家である前に、プロフェッショナルであろうと。今私は、権力や個人的な成功を求めて闘っているのではありません。私が欲しいのは真剣に働くことです。我々は質について語っているのであって、量について語っているのではありません。質を高めようとすると、いつも問題が起こります。ある種の反抗にあうのは避けられないのです。」

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Sunday, 11 March 2007

Andrew Clark の記事(1)

フィナンシャルタイムズ紙に載った、マエストロ・ムーティへのインタビューをまじえたAndrew Clarkの記事を、何回かに分けて紹介します。

ピアチェンツァの新聞はこの記事を、この記事の紙面を写真にしたものとともに紹介していました。

2007年3月9日 Liberta' 紙
Ampia intervista di Andrew Clark
Anche il Financial Times loda il maestro e l'orchestra

また、マエストロのサイトもニュースでとりあげていました。

Riccardo Muti Official Website
Notizie

07 marzo 2007 Passionate believer in pausing for thought
http://www.riccardomuti.com/notizie.aspx

2007年3月6日 The Financial Times
Passionate believer in pausing for thought
By Andrew Clark

ピアチェンツァのTeatro Municipaleの控えの間は上品な家具が入れられているが、そのドアは開いている。どこへ行っても「マエストロ」として知られているリッカルド・ムーティは煙草を手にして座って、リハーサルの休憩時間に会見をしていた。その会見には、彼のキャリアが始まったフィレンツェから来た友人たち、19年間最高位にあったミラノ・スカラ座にいたチェロ奏者、音楽地図に載るのを彼が手助けしているピアチェンツァの文化長官が含まれている。ジョークを飛ばし、ヴェルディ、トスカニーニ、スビャトスラフ・リヒテルといった自分のアイドルたちについて物語り、生地ナポリの18世紀音楽楽派を称賛した。その音楽については今年のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭で擁護者を務める。

65歳になってムーティは、これまでずっとそうだった以上にさらにリラックスしているように見える。2年前にスカラ座音楽監督を辞任するに至った痛みは、目に見える痕を何も残していない。従業員たちによってつきつけられた不信任投票が内攻することは少しもなく、それどころか、ムーティは事態が好転してより幸せな生活が送れていることを楽しんでいる。来週はフィルハーモニア管へ長い間待たれていた再来を果たす。同管は1970年代に彼を国際的な存在として確立させた。2009年には遅すぎたニューヨーク・メトロポリタン歌劇場デビューを果たす。ローマ歌劇場との新たな関係が約束され、ケルビーニ管との定期的な仕事を享受している。同管はピアチェンツァで彼が創設したイタリアの若者たちのアンサンブルだ。

眠り姫のようなこの街は、ミラノからパルマへ至る道で簡単に迂回され、世界的な一流指揮者のひとりの逃避場所としてはありそうにないところのように思える。しかし、ピアチェンツァはムーティの本拠であるラベンナと同じ地方に属している。2年前、両市は協力してひとつのオーケストラに資金供与することになった。そのオーケストラは、カレッジ・音楽学校卒業者たちに専門職への階段の足がかりを与えるものである。

ムーティが、誉ある得がたい体験を伝えるこの機会においてどれほど精力的かに気づくのは、彼がここで仕事をしているときだけである。ムーティのリハーサルというものは他とは全く異なる。それは、かつての学校のような雰囲気をもった彼の統制がその理由であるだけではない。そういう雰囲気では、がんこなオーケストラにおいてさえも「マエストロ」が敬服の状態をもたらしている。けれども、それだけではなく、彼の比類なきソルフェージュがパターソングのように音のつながりを示してみせる(「ファ~ソ~ソ~ラ...」)ことも、その理由である。プッチーニの交響的前奏曲の最後のころ、教会に適した("come in chiesa")静かな音色で演奏するようにと、木管群に言った。ドボルザーク交響曲第5番の第一楽章では一層暗い響き("il sono scuro")を求めた。後でこう説明した。イタリアの弦楽器奏者たちは、ドボルザークが称賛したブラームスのような音で演奏するよりも、むしろ、ヴィヴァルディやジェミニアーニ、タルティーニに適した軽いスタイルで演奏するという、先天的な傾向に陥りがちなのだと。

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Tuesday, 06 March 2007

サルヴェーミニ

今日のフィレンツェの新聞にマエストロ・ムーティへのインタビューが載っています。
マエストロのサイトでもその一部が紹介されています。

記事は、シエナ大学からの名誉学位授与に際して行ったマエストロのスピーチの一部とともに、それを敷衍したインタビューを載せたものです。、マエストロは、ハーモニーや対位法といったものを音楽と政治の中で考え、イタリアは音楽に投資しなければいけないし、音楽が学校教育の中で果たすべき役割を再確立しなければいけない、と主張しています。

マエストロが、ここでも歴史家ガエターノ・サルヴェーミニについて言及しているのをとても興味深く思いました。同郷ですから、当然のことでしょう。マエストロは、自分が若い頃は、白いパナマ帽に黒い蝶ネクタイをした教官たちと様々なことについて論議した、彼らから、まじめに勉強することの大切さを学んだ、彼らはサルヴェーミニのような人物を知るための旅の道連れだった、とも語っています。
彼については英語の著作しか読んでいませんが、マエストロももちろん読んだ本なのだろうなあ、と思っています。

インタビューは後で紹介します。

2007年3月6日 Il Tirreno紙
La musica? Una cenerentola
Il Maestro accusa: politici poco sensibili, giovani trascurati
Il celebre direttore d’orchestra ha ricevuto ad Arezzo la laurea honoris causa

Riccardo Muti Official Website
Notizie
2007年3月6日

La musica? Una cenerentola

http://www.riccardomuti.com/Notizie.aspx?idNews=91

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Sunday, 04 February 2007

ナポリに戻って小さな劇場でナポリ楽派を上演する夢

今春マエストロ・ムーティは、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭でナポリ楽派の音楽を上演します。
それにあたって、ナポリ楽派についていろいろ調べていますが、フィラデルフィア管時代のインタビューを興味深く読みました。今後、ナポリ楽派関連記事が少なからず出てくるでしょう。できれば、ザルツブルク音楽祭の機関誌も入手したいと思っています(残念ながら会員ではないのですが)。

上記インタビューは、マエストロがスカラ座でペルゴレージ《妹に恋した兄》を上演したあと、フィラデルフィア管とカーネギーホールでペルゴレージとケルビーニの声楽曲を演奏するにあたって、とられたものです。

その中でマエストロは、ナポリの音楽院でナポリ楽派の精神を呼吸するように教育された、と語り、ペルゴレージのオペラ《妹に恋した兄》は1972年にフィレンツェで上演したいと考えていたけれども、かなわなかった、と実現を喜んでいます。でも、夢はキャリアの後年にナポリへ戻って、小さな歌劇場でナポリ楽派のオペラを上演することで、おそらく10年後くらいだろう、ナポリ音楽院にある自筆稿を上演したい、つまり、自分はナポリから出て、ナポリに戻ることになる、とも言っています。

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭でナポリ楽派の音楽を演奏することについて、それが長年の夢であったとマエストロは話していましたが、ここでも、まさに、その夢が語られています。

また、マエストロがこのインタビューで話す、スカラ座でのオペラ《妹に恋した兄》のリハーサルは、まるで、ケルビーニ管との《ドン・パスクァーレ》のそれのようでした。若い歌手達との40日間に及ぶリハーサル、シンプルな舞台..。

ケルビーニ管創設といい、ナポリ楽派の作品の上演といい、マエストロが自分の夢の実現に向けてどのように歩んできたか、どれほど長く熱い心を持っていられる人かが、とてもよくわかります。本当に尊敬できる、素晴らしい人です。

インタビューは後で紹介します。

1990年2月10日 The New York Times 紙
MUSIC; Riccardo Muti's Journey To 'the Father of Us All'

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トスカニーニ神話

パルマの新聞がトスカニーニの特集をした際、ある記事で、マエストロ・ムーティのインタビューをいくつか引用しています。

この3週間近くずっと、その引用されたひとつにとらわれています。
マエストロについてもトスカニーニと同じように、ステレオタイプ的なとらえ方がなされていて、ひとことでその人を表して、わかったつもりでいてはいけない、という強い自戒ともしています。
もっとも、トスカニーニについても、マエストロについても、原典との乖離についてはそれなりの合理的な理由があるということなのだ、と理解しています。その部分を考慮せずに、絶対的・原理主義的に○○ととらえることの無意味さを考えなければ、と思っています。むつかしいことですが。


同記事はトスカニーニの神話をひとつひとつ検証しています。マエストロは「原典に忠実」«fedeltà al testo» というトスカニーニ神話の、ステレオタイプなとらえ方に疑問を投げかけています。

厳格、客観主義、速さ、などなどといったトスカニーニ観は、もっと深く掘り下げた省察で反証される。誤った神話だ。それにはブラームスの交響曲の録音を聴けば十分だ。そこでは、ドイツのある種の指揮者たちよりも非常にゆったりとして遅いことに気づく。

このようにマエストロは語っていました。

2007年1月16日 Gazzetta di Parma 紙
Il tempo rafforza il mito

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Saturday, 03 February 2007

ナポリにおける音楽文化(2)―ナポリの声楽の伝統

ナポリの音楽を扱った本に載っているマエストロ・ムーティへのインタビューから、ナポリにおける声楽の伝統について語った部分を紹介します。

ファリネッリについては映画『カストラート』を観ましたが(ファリネッリの描き方には落胆しました...)、その頃、関連してカストラートやナポリの本を何冊か読みました。いつかまた紹介します。

ナポリの歌手について書かれた本が出され、マエストロが称賛のコメントをしていたことを新聞で読みましたが、オンライン書店で見つけることができず、イタリアへ旅行するまで待とうと思っていました。ところが、昨秋、ウィーンのアルカディアで見つけ、大喜びで購入してきたことは、ここでも紹介しました(後に、音楽関係のイタリアのオンラインショップで購入できることを、教えていただきましたが)。
ナポリの歌手総覧であるばかりでなく、その記述を通じてナポリの詩人や芸術家についても知ることのできる、興味深い本です。
マエストロがミラノ音楽院でピアノ伴奏者として助手をしていた、Carboneについての項も、もちろんあります。

All'ombra del Vesuvio
Vincenzo Ramon Bisogni
Azzali, novembre 2005

また、マエストロがスカラ座で、アカデミアを設立して若い歌手たちの育成に力を注いだことは、よく知られています。

Le Capitali della Musica   NAPOLI
Amici della Scala, 1987

Intervista a Riccardo Muti
Aspetti della civilta' musicale nella Napoli dei nostri tempi

ナポリ楽派は過去、声楽芸術において素晴らしい特徴を見せています。
1900年代のナポリの歌手が象徴しているものは何ですか。現代の期待される若い歌手たちについてどう思いますか。

ナポリの歌手について話すときは、ひとりを引用すれば十分です。Carusoカルーゾです。カルーゾは現在でも伝説を代表しています。それはテノールにとってだけでなく、発声器官を使っているすべての音楽家たちの象徴です。カルーゾはナポリでした。女性ではMaria Canigliaカニーリアがナポレターナでした。

確かに声楽のナポリ楽派は存在します。我々の世紀について話す前に、1600年代のナポリの歌手が、世界中の歌劇場の代表だったことを思い出す必要があります。Giuseppe Farinelliについて話さなければなりません。彼はナポリの音楽院、Conservatorio della Pieta' dei Turchiniで勉強しました。Caffarelliについて話さなければなりません。彼はビトントBitonto出身で、Porporaと一緒に勉強しました。二人は1600年代の声楽芸術を代表する偉大な人で、おそらく彼らに匹敵するような人は世界にはいないでしょう。現在、ナポリでまだこう言われていることを考えてください。「Non fare il Farinelli. ファリネッリのようになるな。」俗語のナポリ語ではこう言います。《Nun fa' o farenello》人々はこれが何を意味しているか、知っています。恋に浮かれて女性を追い回してばかりいるな、気どるな、といった意味です。けれども、人々は、farenelloという言葉がどこから来たかは覚えていません。まさに、図抜けたこの音楽家、声楽家の名前から来ているのです。彼は当時の音楽界に大きな影響を与え、その結果、彼自身の性格や彼が出演していた歌劇の一部をなす、ある種のキャラクターの象徴となるほどだったわけです。こういう歌劇場が再登場することはないでしょう。けれども、この歌手達はベルカントにまで伝承されていくような根本的な影響を及ぼし、別の道が始まったのです。確かに、現在のプリマドンナのいくつかの態度、すなわち、ある種の突飛さ、華やかさを求めて主役でありたがるある種のスタイル、あるいは、ときどき音楽を必要以上にしのぐことは、この歌手たちから生まれています。本当にたいしたことのないことがらですが、歌手がこの社会に存在し、影響力をもっていたことの印でもあります。

期待すべき歌手かどうかはわかりませんが、若いナポリ生まれの歌手たちを知っていますし、彼らが再び、栄華を作り上げることができるよう、願っています。現在は、スカラ座やサン・カルロ歌劇場に至るまでの、昔の偉大な栄光の時代とは非常に異なっています。歌のための大きな一連の研修所を創設する精神がみられません。そこでは、才能ある声が支援され、まさに歌劇場の内部で上達が促進され、若者たちがこういう特別な雰囲気を呼吸できるような、そういう場所です。それはアメリカの大きな大学や、海外の歌劇場では再提案することは無理であり、状況を変えることはほとんどできません。

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Tuesday, 30 January 2007

Salvatore di Giacomo

マエストロ・ムーティがスカラ座開幕公演で《ナブッコ》を指揮するにあたって、スカラ座でのこれからの抱負(とても気概に満ちたものです!)、《ナブッコ》についてなどを語ったインタビューを読みました。

EPOCA 誌 1986年12月5日号 
Muti, I Fatti Sono Musica

その中で、指揮者が歌手のリハーサルにつきあうことの大切さを訴え、自分はみずからピアノを弾いて、たくさんの美しい声と一緒にリハーサルをしてきた、と語っています。
その「美しい声」という話の枕になっているのが、サルバトーレ・ディ・ジャコモの詩でした。自分はナポリっ子で、サルバトーレ・ディ・ジャコモがこう言っていた街の出身です、と、マエストロは彼の詩の次の一節を口にしてみせています。

Quanto na bella voce
vurria sentì cantà!

上記はナポリ語で、イタリア語では

Quanto una bella voce
vorrei sentire cantare!

これは、満天の星と月が輝き、甘くやさしい風のふく美しい真夜中にピアノが聴こえてきて、美しく優しい声が聴けたらどんなにいいだろう、と思いながらも孤独の中に沈んでいく、というような詩です。

ナポリ生まれのサルバトーレ・ディ・ジャコモへの興味がますます深まりました。

Pianefforte e notte

Nu pianefforte 'e notte
sona, luntanamente,
e 'a museca se sente
pe ll'aria suspirà.
       
E ll'una: dorme 'o vico
ncopp a sta nonna nonna
'e nu mutivo antico
'e tanto tiempo fa.
       
Dio, quanta stelle ncielo!
Che luna! E c'aria doce!
Quanto na bella voce
vurria sentì cantà!
      
Ma sulitario e lento
more 'o mutivo antico;
se fa cchiù cupo 'o vico
dint'a lI'oscurità.
       
Ll'anema mia surtanto
rummane a sta fenesta.
Aspetta ancora, e resta,
ncantannose, a penzà.

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Tuesday, 23 January 2007

《ドン・パスクァーレ》について

ケルビーニ管と上演した《ドン・パスクァーレ》について、マエストロ・ムーティのインタビューがプログラム・ブックに載っていますが、Teatro Alighieriのサイトにその全文が掲載されています。嬉しいです!

後で紹介します。

Teatro Alighieri
http://www.teatroalighieri.org/stagione_opera_balletto/dentro_opera/

DENTRO L'OPERA
DON PASQUALE
Riccardo Muti sul "Don Pasquale"
a cura di Franco Masotti
Ravenna, ottobre 2006

http://www.teatroalighieri.org/stagione_opera_balletto/dentro_opera/pagina26.html

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Monday, 22 January 2007

CLASSIC Voice 誌1月号

トスカニーニについてのマエストロ・ムーティのインタビューが載っている、CLASSIC Voice 誌を入手しました。
表紙はマエストロで、トスカニーニの後継者としてのマエストロが語る、4ページもの長文インタビューです。師であるVottoから聞いたトスカニーニのエピソードをいくつも語り、それを通じてトスカニーニについて考察しています。

トスカニーニといえば、オーケストラの若いチェロ奏者が《アイーダ》で突然指揮したことがいつもセンセーショナルに語られるけれども、彼が作曲とピアノのコースを卒業していて、その上で弦楽器についても知識があるという、音楽の基本を備えていたことが忘れられている、と、指揮者ならではの視点を提供しています。

また、カラスを見たときのトスカニーニのコメントも紹介していました。
"Signora, le parole."
マエストロにとって、それはとても印象深いコメントで、トスカニーニが指揮したNBC響による《オテロ》では、そこで発せられている言葉の明瞭な発音は強烈で、まるでミケランジェロの彫刻のようだ、と語っています。

また少しずつ紹介していきます。

CLASSIC Voice 誌 2007年1月号
Un direttore di POLSO
Segreti svelati dall'erede di Arturo, Riccardo Muti


なお、同誌はすでに、スカラ座の《アイーダ》でアラーニャが退場したこともニュースとして載せています。
また、スカラ座のロッジョニスティによる野次についての記事も載っています。
2世紀にわたるブーイングの歴史の中には、マエストロ・ムーティの上演に対するものも挙げられています。1982年開幕公演《エルナーニ》、1989年開幕公演《シチリア島の夕べの祈り》です。
スカラ座でのブーイングについては、スカラ座に関する本にも、1965年から1987年の主なものが載っています。

CLASSIC Voice 誌 2007年1月号
FISCHI per fiaschi

Due secoli da loggionisti


La Scala RACCONTA

Giuseppe Barigazzi
SB Saggi 2001年11月
Serate calde, fischi, beccate: ce n'e' per tutti

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Sunday, 21 January 2007

ナポリにおける音楽文化(1)―ピアノのナポリ楽派

ナポリの音楽史を扱った素晴らしい本に、マエストロ・ムーティへのインタビューが載っていることは、以前書きしました。

その中から、まず、冒頭にあるマエストロのピアノの師であるVitale(1984年ナポリ没)に関する部分を紹介します。マエストロへのインタビューで、ピアノのナポリ楽派の概要がとてもよくわかりました。

なお、ピアノのナポリ楽派、ナポリのピアニズム、ナポリ派ピアノ、ナポリピアノ奏法など、いろいろな表現をウェッブで見つけましたが、とりあえず、ここではピアノのナポリ楽派としておきます。

Le Capitali della Musica - Napoli
Amicare Pizzi 1987

Intervista a Riccardo Muti
Aspetti della civilita' musicale nella Napoli dei nostri tempi

ピアノのナポリ楽派は何世紀にもわたる重要な伝統を持っています。おそらく、オペラのナポリ楽派に比べれば、それほど多くの聴衆に知られているとは言えないでしょう。19世紀~20世紀に、ピアノのナポリ楽派は卓越したソリスト・教育者を輩出しています。それは、一般に流布しているナポリ的なものという概念とは対照をなしている、洗練された様式に従ったものです。しかし、一方では、ナポリ文化の最も真正な特徴を備えています。ピアノのナポリ楽派について話していただけませんか。

統一の後、ナポリは2世紀にわたる首都としての役割を失い、落胆の時代を生きています。けれども、ブルボン王朝の衰退とピエモンテによる征服に伴ってまどろんでいた文化活動が、ナポリの典型的な活力のおかげで、1870年代はじめにはすでにあらゆる面で誇らしく再開していました。ナポリの真の情熱は、とりわけブルジョア階級のもとでは音楽に残っていました。絶え間なく増していく教育の要求に応じ、Coservatorioという名前のもとにピアノ楽派が再組織されました。それはとりわけ、Mercadanteの後継者であるPietro Plataniaの功績によるものです。楽派の整備は若いナポリ生まれのピアニストBeniamino Cesiに託されました。彼はSigismund Thalbergの教えを活用しました。Thalbergは30年以上にわたって世界的な活躍をした非常に有名なピアニストで、1871年に亡くなったナポリで活動を終えました。

Cesiの天賦の才に、次にThalbergを通じて、とりわけRubinsteinによって知られているような、ヨーロッパの非常に傑出した文化教育面が加えられました。RubinsteinはCesiを、ペテルブルク音楽院の教師に招いています。

Cesiの弟子は次のとおりです。
Martucciはナポリで器楽音楽の普及に何よりもいちばんに貢献しました。もちろん、Coservatorioの教師さらに学院長としての貢献、また、コンサートの開催者としても貢献し、ドイツ音楽文化特にワーグナーの普及者として貢献したのに加えて、ということです。
次にRossomandi、Longo、Cileaなどたくさんの音楽家、ピアニストが続き、他のピアノ楽派に生涯を捧げた音楽家たち(Finizio、Aprea、Romaniello、Palumbo)もいて、ヨーロッパにどれほど生まれていたか、いつも興味深く見ています。

Paolo DenzaはBusoniの弟子で素晴らしいピアニストですが、早いうちにコンサート活動から隠退し、ナポリで非常に興味深い20世紀ピアノ楽派を始めています。彼の弟子で、いまだに教師としてあるいはコンサート面で活動している人たちがいます。Ciccoliniはパリで活動していますし、フィレンツェ人やスペイン人の弟子がナポリで、そのほかたくさんの人たちが教育面で重要な価値を担っています。

ナポリではここ数十年間、Vincenzo Vitale の熱心な仕事が特に重要でした。彼は、ピアノのナポリ楽派教授方法全体における共通の特徴を、強固なものにしました。それは、ナポリの外から、そしてイタリアの外から到来する多くの有効な方法と、常に比較されることになっています。ナポリでRossomandiに師事したあと、パリでCortotと学びました。Vitaleは素晴らしい教養の持ち主で、Martucci、 Cesi、 Thalberg、 Longoの伝統と同じ道を歩みました。教育にとどまらず、ナポリ派音楽の普及という面では、研究者やオルガナイザーのような仕事もしました。(スカルラッティ管の創設者のひとりです。)ナポリ派音楽は、1世紀以上も前から既に、非常に重要な発案をすることや国際的な体験という面では、地方に限定されることなく、むしろ開放的であったのです。

この特徴が現在どれほど残っているかを述べるのは困難です。今はCoservatorioにおける音楽教育が危機に瀕しているからです。ナポリ人の天才的な好奇心と豊かな想像力については、地方の領域に限定されることなく、多くの素晴らしい例が尊重されうるならば、成果を生み続け、ピアノ文化とピアノ教育において貢献し続けていくことは間違いないでしょう。

この伝統的なピアノのナポリ楽派を、あなたは特に身近に感じていますか。

Vincenzo Vitaleが師でした。『血統』を下がっていけば、それゆえに私はこの伝統に源を持っていたことになります。この系統ではVitaleはおそらく、最高の代表者のひとりだったでしょう。完成した技術への苦闘に満ちた探究に土台を置いていた楽派というだけでなく、ピアニズムを真の完全な音楽へ到達するための手段だと考えていた楽派でもあります。ピアノのためのピアニズムではありません。音楽文化という星雲、迷路の中に入っていくための道具、楽器としてのピアノです。

この意味で私はしばしばこう言っています。私の指揮者としての準備や音楽的方針は、このナポリ楽派に由来する教授法に負っていると。ピアニストが演奏するように指揮するということではありません。でも、私が受けた教育は、ひとつの楽器を通じて表現されていた音楽文化を、深く掘り下げていくことに根ざしたものであることは確かです。

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Thursday, 18 January 2007

Porta a Porta

16日にRAI UNOで放映されたPorta a Porta は、18.6%の視聴率で、178万人の人が番組を観たそうです。

2007年1月17日 Il Velino
Ascolti tv: il ruggito di Canale5


フリットリのサイトには、そのときの彼女の写真が載っています。

http://www.frittolibarbara.com/cms/index.asp

http://www.frittolibarbara.com/cms/index.asp?cmd=OUTSTAGE

マエストロ・ムーティが番組の中でトスカニーニについて語ったことの一部が、今日のパルマの新聞や、マエストロのサイトで紹介されています。

クレモナの新聞はまだウェッブで読めないので、パルマの新聞記事のほうを先に紹介します。

2007年1月18日 Gazzetta di Parma 紙
TV PORTA A PORTA
Il commosso ricordo di Simionato e Valdengo

リッカルド・ムーティはVottoに学んだが、一方Vottoのほうはトスカニーニの弟子であり、そういうムーティをトスカニーニの後継者だと指摘する向きもある。彼は、歴史的な大切さを強調した。ナポリ生まれの有名な指揮者はこう言った。「歌手や指揮者が我が物顔にしていた時代に、トスカニーニは、オペラにおける様々な要素の間にバランスをもたらしました。歌の独立性と劇の登場人物、そしてオーケストラの重要性の間のバランスをとりました。彼を祝賀するには、コンサートで演奏することでは不十分です。トスカニーニがどういう人で、現代とどういう関係を持っているかについて、音楽学者たちが研究する必要があります。」

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Wednesday, 17 January 2007

パルマの新聞のトスカニーニ特集(再掲)

(2007/1/17(水) 4時12分の記事です)

昨日のパルマの新聞が16ページのトスカニーニ特集を組んでいて、マエストロ・ムーティのインタビューも引用されています。おそらく、雑誌Classic Voice誌のインタビュー記事からのものだと思います。記事については、ココログのほうで改めて紹介します。

2007年1月17日 Gazzetta di Parma 紙
Il più grande
Il tempo rafforza il mito
Il rigore che non annullava la libertà: in questo è la vera portata della sua rivoluzione musicale Fu il contatto con l'arte di Wagner ad aprirgli

また、トスカニーニについて様々な人が語ったものを掲載した本の中から、マエストロのインタビューを以前にココログで紹介しましたが、パルマの新聞でもその本が紹介されていました。
いくつかのイタリアの報道では、トスカニーニ→Vottoいうラインがマエストロ・ムーティに引き継がれ、(演奏スタイル・心構え・信条のみならず、その意味からも)マエストロはトスカニーニの継承者といえる、と書かれています。同紙は、そういうマエストロだけでなく、上記本から何人かの指揮者について、そのカラー写真とともにトスカニーニに関するコメントを並べて紹介しています。
掲載されている指揮者は、マエストロ・アッバード、ブーレーズ、ゲルギエフ、メータ、小澤さん、プレートル、バルトレッティ、シャイー、マゼール、マエストロ・ムーティ、パッパーノ、テミルカノフ。

マエストロのコメントは次のように引用されています。
«Il suo lascito più importante è l’atteggiamento etico verso la musica: fedeltà al testo e ri­spetto per il compositore»
「彼が遺したもの、その遺産で最も大切なのは、音楽に対する姿勢です。すなわち、原典に忠実であることと、作曲家への尊敬です。」

To­scanini secondo me
Il più ce­lebre direttore d’orchestra in un secolo di testimonianze
Mauro Balestrazzi
L’Epos Ed.

2007年1月17日 Gazzetta di Parma 紙
I grandi di oggi ispirati a lui
Modello citato da tutti

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Sunday, 14 January 2007

トスカニーニについて語る

イタリアの音楽雑誌 Classic Voice 1月号でマエストロ・ムーティがトスカニーニについて語っている、ということを前に紹介しましたが、マエストロのサイトにもそのニュースが載りました。

http://www.riccardomuti.com/Notizie.aspx?idNews=63

13 gennaio 2007: Muti ricorda Toscanini: " Non disturbare l'orchestra"

要約引用されている記事にはこう書かれています。

ムーティはトスカニーニの指揮法の秘密について明かし、面白いエピソードを通じてトスカニーニとオーケストラの関係を語っている。それは、助力を求めるという中に要約される関係である。「トスカニーニは、指揮するときにはオーケストラをうんざりさせないようにしていました。それは、『オーケストラの好きにさせる』という意味ではありません。そうではなく、一度エンジンをかけてある程度の状態までもっていってしまうと、指揮者自身も目指していたような途上にある演奏家たちの歩みを、邪魔してはいけないということです。」

2007年1月13日 La Gazzettino 紙
Muti ricorda Toscanini: «Non disturbare l'orchestra»

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Monday, 08 January 2007

1971年のマエストロ(2)

マエストロ・ムーティの1971年のインタビューについて、残りの部分を紹介します。
このインタビューにみられた素晴らしい将来が、現在、すべて現実になっているのはとても興味深く、感動的なことです。

カバリエとの《ジョヴァンナ・ダルコ》のディスク録音が実現しなかったのは残念です。そのかわりに、あの歴史的名演の《アイーダ》が世に出ました。
パリ管へのデビューは、わたしが個人的に作成してきたスケジュール表にもありますが、キャンセルされたようです。

記事にあるマエストロのフィレンツェでのコンサート、オペラは次のものです。

1968年6月18日 テアトロ・コムナーレ
モーツァルト 交響曲第34番
モーツァルト ピアノ協奏曲K450
ブリテン ピアノ協奏曲
ブリテン 《ピーター・グライムス》から四つの海の間奏曲
ピアノ スビャトスラフ・リヒテル
フィレンツェ五月音楽祭管

1968年10月27日 テアトロ・コムナーレ
Ghedini: Appunti per Un Credo
モーツァルト クラリネット協奏曲
R.シュトラウス イタリアから
クラリネット Detalmo Corneti
フィレンツェ五月音楽祭管

1969年12月16日、18日、21日、28日 テアトロ・コムナーレ
ヴェルディ 《群盗》
フィレンツェ五月音楽祭管
同合唱団
同バレエ団
合唱指揮 Adolfo Fanfani
演出 Erwin Piscator(realiazzazione: Giulietta Seylaz)
装置 Paul Walter
衣装 Ursula Walter Aman
振付 Marianne Wick
Massimiliano: Carlo Cava
Carlo: Renato Cioni
Francesco: Licinio Montefusco
Amalia: Luisa Maragliano
Arminio: Dino Formichini
Moser: Graziano Del Vivo
Rolla: Valiano Natali

Teatro Comunale di Firenze
Maggio Musicale Fiorentino
Catalogo delle manifestazioni  1928-1997

Casa Editrice Le lettere
1998年11月

Radio TV Corriere誌 1971年5月16-22日号
Muti ha battuto tutti i record

だが、ムーティがはじめて聴衆の前でオペラを指揮したのは、1965年にOrchestra dell'Angelicumとである。フランコ・アッビアーティをして、これまでにない評価と熱烈な評価を書かせた、コンサート形式のものである。それどころか、会場にはFrancesco Sicilianiもいた。スカラ座芸術監督に再び就いて数ヶ月たっていた。おそらく、その晩彼は有名な「タレント・スカウト」の品定めを再び現していて、誰もが素晴らしくよく言っていた、この蒼白でやせたナポリ出身の青年に目を定めていただろう。そして、ムーティの正真正銘のキャリアが始まった。非常に速く進んで評価の高いキャリアで、今では、彼のその頃が信じられないくらいである。1967年にはオーケストラ指揮者のためのカンテッリ賞を勝ちとり、それが、あらゆる歌劇場の関心を彼にひきよせた。すでにフィレンツェ五月音楽祭は1968年にリヒテルとの協奏曲のためにムーティを招いていて、オーケストラは聴衆とともに熱烈に彼に喝采を送り、自分たちの常任指揮者に早くなれるよう望みはじめていた。このオーケストラはそういう指揮者を長い間求め、探していたのである。その成功は素晴らしく、ムーティは10月にフィレンツェに戻って、さらにコンサートを指揮したほどである。テアトロ・コムナーレの聴衆は、そのときも、普通は「偉大な名前の演奏家たち」に対して見せるような特別な歓迎を、彼に捧げた。

これまでに、ムーティはスカルラッティの《ディリンディーナ》でナポリ9月音楽祭を開幕させた。1969年7月にはラジオで《清教徒》をパバロッティ、フレーニの出演で、評価が高まってきているローマRAI管弦楽団を指揮して上演した。そして、フィレンツェでの《群盗》によって、彼は正真正銘の新星登場だと言われた。ムーティは、はじめての舞台上演の仕事において、まるで何年も経験があり、古参のベテランであるかのように見えた。その間に、フィレンツェ五月音楽祭管の常任指揮者になり、ミラノ音楽院の同窓生と結婚した。1969年6月からフィレンツェに住んでいる。テアトロ・コムナーレと近い地区である。フィレンツェではじめてオーケストラと関係をもっているが、ここでは「硬骨漢」で、威信があり、御しがたい性格のように見えた。いくつか不和もあった。しかし、当初は不可避な摩擦があったが、今では、テアトロ・コムナーレにおいても、ムーティは熱烈な愛情に囲まれている。オーケストラについてだけでなく、劇場組織のすべての関係者についても同様である。「まじめな人です。」とすべての人が言う。「そして、何という力量、何という天性でしょう!...その上、それを鼻にかけようとしません。」ムーティは今、「自分の」オーケストラについて感動とともに語っている。「この奏者たちの優秀なところは、音楽を演奏する喜びをあらゆるメンバーがもっている数少ないオーケストラの中で、いまだにそのひとつでいるということです。」オペラを演奏するには、オーケストラ曲を演奏するよりももっと普通に、品位と正確さが求められているといえるだろう。「歌劇場ではまだスター主義が過剰で、我が物顔にふるまいたがっているようです...。」で、彼のこれからの仕事の予定は?たくさんの重要な仕事がある。スケジュール帳はもう1974年までいっぱいに埋まっている。フィラデルフィア管、フィルハーモニア管、ベルリン・フィル、パリ管、ザルツブルク音楽祭、プラハ音楽祭、ルツェルン音楽祭。ザルツブルクでは来年夏、《ドン・パスクァーレ》、ウィーン国立歌劇場では1973年に《アイーダ》の新演出、1972年にはカバリエと《ジョヴァンナ・ダルコ(ジャンヌ・ダルク)》のディスク録音、などなど。これまでに、「海賊盤」でローマRAI管弦楽団との《アッティラ》と《アグネス・フォン・ホーエンシュタウフェン》が出ている。だが、フィレンツェにとどまるのか?多くの人がしている質問である。おそらく、イエス、だろう。よく言われているように、まだまだ研鑽を積むのが可能な街だからである。「電話や仕事から切り離され、何ものにも強制されずにいます。そういったことがこの街では心から感じられます..ここでは最高に素晴らしい仕事をしています。それにもうたくさんの友人がいます。オーケストラの中にもです。」

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Sunday, 07 January 2007

1971年のマエストロ(1)

1971年春にマエストロ・ムーティとマエストロ・アッバードが、フィレンツェ歌劇場に相次いで登場したことに関する記事(Due Giovani in Cattedra)を、以前紹介しました。
その記事のインタビューでマエストロは、自分の学生時代を振り返っています。60歳の誕生日インタビューなどでも語っていますが、あらためて載せます。
この記事は二人のマエストロへのインタビューを併載しています。この頃から、すでに、ライバルと目されていたのですね。

Radio TV Corriere 誌 1971年5月16-22日号
Muti ha battuto tutti i record

(略)ナポリの方言で話さないときには、彼のイタリア語はプーリアのアクセントになる。(略)男ばかりの5人兄弟で、芸術を勉強してプロの芸術家になることは、誰もありえないような家族だった。現在、ムーティの5人の兄弟はイタリア中に散らばっている。ひとりは精神神経医、もう一人は会計士、リッカルドより年下の双子は電子工学技師である。「南イタリアの家族にはよくあるように」とマエストロ・ムーティは微笑しながら言う。「私は弁護士になるように仕向けられていました...南イタリアの家族には、少なくとも一人は弁護士が必要だったのです!...」実際のところは、母親によってモルフェッタの素晴らしい女性ピアノ教師のもとへ送り込まれる一方で、後期中等学校に通い、1957年にバーリ音楽院に現れて、ソルフェージュと第五年のピアノ・クラスの試験を非常に優秀にやってのけたので、ニーノ・ロータが両親に音楽家にならせるよう助言したというわけである。

特に、母親はロータの言葉に感銘を受けた。そうこうするうちに、父親がナポリに移ることになり、リッカルドはVitaleに学びはじめる機会ができた。しかし、高校の卒業証書は間違いなかったとはいえ、とらなければならなかった。そして、実際、1959年に「高校卒業資格試験」を受け、ナポリ大学の文学・哲学学部に入学した(彼を弁護士にするという家族の計画からすれば、すでに小さな裏切りだった)。1961年にピアノの卒業証書をとった。Vitale教室は、その頃、しかし、非常に苛烈な厳格さをもっていた。(「今でも」、とムーティは言う、「マエストロVitale家の階段を昇ると、レッスンに行っていた頃のように、その厳しさが意識しなくても蘇ってきます。」)その教室に熱中し、彼のおかげで、本当に音楽を「発見」した。音楽家になれるかもしれないと考えた。ピアニストである。しかし、1962年に両親を説得してミラノへ行ったのは、それはJacopo Napoliのおかげである。彼はナポリ音楽院院長時代にすでに、ムーティの中に指揮者としての天分があるのを直感していた。

ミラノでムーティは、1966年まで老婦人の部屋をひとりで借りていた。10年間の作曲コースを5年で終え、オーケストラ指揮者の卒業証書もとった。ピアノでは10点満点プラス最優秀賞をとって卒業し、作曲と指揮のコースは10点満点だった。「ほとんどお金がありませんでした。」と言う。「何をやりたかったというのでしょう?日曜日でさえ、かばんに五線譜を少しつめて、公園のベンチに座って、午後中、対位法の勉強をしていました。《iustis intervallis》の無限のカノンに夢中になって興じ、《ノルマ》をテーマにフーガを発展させることに夢中になり...次から次へとノートを書きつくしました..私は青白い顔色をしていて、自転車に乗ることさえできませんでした...。」ミラノでは、しかし、音楽院の学生の中では、後のムーティ夫人、Cristina Mazzavillaniと知り合った。ラベンナ出身の生き生きとして知的な若い女性で、歌を勉強し、まだ学生だった頃、ムーティがTeatro dell'Arteではじめて指揮したオペラに出演した。パイジェッロの《マレキアーロの居酒屋》である。

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Saturday, 06 January 2007

トスカニーニから学んだこと

マエストロ・ムーティのサイトに載っている写真に、ファンがボックス席にバナーを掲げて、マエストロのスカラ座での10年間を感謝しているものがあります。

http://www.riccardomuti.com/gallerie.aspx

immagini
Riccardo Muti durante i concerti
Decimo Anniversario come Direttore Artistico e celebrazioni al termine della rappresentazione del Nabucco il 3 Marzo 1996.

同じバナーの写真を載せていた記事については、以前、《コシ・ファン・トゥッテ》に関連して紹介しました。Bruno Vespa によるインタビューが載った、1996年4月のイタリアの雑誌です。
この1996年3月3日には、マエストロ・ムーティのスカラ座音楽監督就任10周年を祝うイベントが《ナブッコ》上演後に行われていて、マエストロの写真集などにもその様子が載っています。

このとき、1986年12月7日の《ナブッコ》上演時同様、《Va' pensiero》《行け、我が思いよ》がアンコールとして繰り返して歌われました。
Vespaはそのことについてマエストロにインタビューし、練習が重要であるという言葉を最後に引き出し、それが、Vespaも同行した前年のスカラ座来日公演での、東京における《トラヴィアータ》の入念なピアノ・リハーサルの記述につながり、そこでは作品を非常に尊重したリハーサルが行われ、それが、トスカニーニの指揮のあり方に関するマエストロのコメントへ進んでいく、という見事な記事展開になっています。
以下にその部分を紹介します。

10年後、3月3日の初日に、アンコールが新たに許可された。「1986年のときと同じような雰囲気に再び遭遇しました。」とムーティは言う。「当時の子供たちは若者になり、その頃の若者は既に立派な大人になっています。感動の重みは一緒でしたが、演奏は10年間のlavoro 練習、研鑽の影響を受けています。lavoro 練習という言葉をあえて使います。洗練さと完璧さとを備え、徹底的な厳格さでもって行われた lavoro 練習がなければ、芸術は生まれ得ないといっていいでしょう。」

私は、成功に終わった昨夏終わりのスカラ座東京公演で、ムーティがlavoro リハーサルをしているのを見た。なかでも、《トラヴィアータ》が上演された公演である。それは、マリア・カラスの亡霊によって非常に長い間スカラ座に欠けていたもので、マエストロ・ムーティが再びスカラ座にもたらしたオペラである。ムーティは当時Tiziana Fabbricini を見つけ出した。彼女には美しい声と素晴らしい演劇的気質があった。それで、5年後、最新の再演を何度かこなした後、ムーティとFabbriciniが(La Scola とConiがオペラの男性歌手として一緒に)午後中ずっと、ピアノ・リハーサルでレチタティーヴォを次から次へと見直しているのを、私は見た。長い話し合いと度重なるリハーサルが、あらゆる言葉、あらゆる息継ぎ、あらゆる間合いについて行われた。ムーティはヴェルディがありきたりのものになることを常に恐れている。彼はヴェルディの演奏を、いわばトスカニーニから学んだ。「もちろん、直接に、ということではありません。」とマエストロは言う。「彼を直接知っている時代には間に合いませんでした。けれども、彼の指揮方法はAntonino Votto によって理解しています。トスカニーニと1920年代を通じて一緒に仕事をし、スカラ座オーケストラを長い間指揮していた人です。トスカニーニは音楽に、規律という面を強固に刻印しました。何と言えばいいのでしょう?作曲家にとってかわることはしない演奏の、最高の模範を示した、という意味です。それはすべての人にとって模範になると思います。」

Chi 誌 1996年4月19日号
Riccardo Muti
Il suo amore per la Scala

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Wednesday, 03 January 2007

モーツァルトをイタリアへ戻す(3)

Opera Now 誌に載ったマエストロ・ムーティのモーツァルトに関するインタビューの、残りの部分を紹介します。

モーツァルトのオペラは人間を糾弾しない、とマエストロはよく語っています。一昨年スカラ座で信じられないできごとが起きたとき、マエストロもモーツァルトのように考えたのでしょうか。そのときのことを黙して語らないマエストロに、あらためて深い尊敬の気持ちを抱くとともに、そういう想いを強くします。

Opera Now 誌 1991年1月号
Bringing Mozart back home to Italy
Riccardo Muti talks to Nigel Jamieson

ムーティがスカラ座のオーケストラから引き出す、モーツァルトの豊かな響きには、どんなオリジナル楽器奏者たちも本当に卒倒させられそうである。しかし、ムーティ自身の立場は、人々が彼について考えているかもしれないものと比べて、それほど非妥協的ではない。

「私は、原点の正しさを推し進める動きの拡大を関心をもって追ってきましたし、オリジナル楽器を使用する可能性を排除していません。それは、オリジナル楽器の使用によって、もはや存在しない世界を、それゆえに再構築している、というようなことを思い描くのではない限りにおいて、ですが。どんな楽器を使用しようと、私たちは、私たちの表現によって音楽を再生させなければならないのです。」

「現代の楽器は、かつてよりも大きな幅にわたる音の質を備えていて、指揮者が、古楽器による演奏の実践を可能な限り完璧に知った上での解釈に基づいていれば、現代の楽器も選択肢として受け入れられるものだと私は考えています。」

ムーティは続ける。「私は《皇帝ティトスの慈悲》が、多くの人が見ているように後退した作品だとは考えていません。この作品は、第一幕フィナーレに見られるように、グルックを昇華させたもので、ベートーベンに進展していくものです。これは新しいモーツァルトであり、将来を見据えているものです。演奏するのが非常にむつかしい作品です。おそらく、最も大きな問題は次のようなことです。作品がアリア、二重唱といったものの連続となってしまって、いわば、美しいけれども、全体としては関連性のない絵が飾られたギャラリーのようなものになるのを避けること。そして、多くがモーツァルトの手によったものではないレチタティーヴォを、すべてひとつのつながりにまとめあげて、全体として首尾一貫性のあるものに作り上げる手法を見つけること。これらが最も大きな問題でしょう。」

「《皇帝ティトスの慈悲》は本来、確実に傑作であるものです。たとえ、ダ・ポンテ作品のような即時性・直接性を備えていなくても、です。ダ・ポンテ作品は台本自身が絶対的な傑作なのです。この台本がモーツァルトの三つのオペラにどれほど貢献しているか、それは飛びぬけたものです。メタスタジオ(マッツォーラ)による台本はもっと複雑です。その台本では言葉はきれいですが、自然で自発的という点では、非常に劣っています。」

「私たちは、モーツァルトのオペラを精神的な、魂の遺言だとも考えていいかもしれません。ティトスが、すべての人が自分を裏切ったことを糾弾したとき、モーツァルトがその人生の終わりに語った声が聞こえてくるを、想像できるでしょう。『あなたたちは私を裏切りました。けれども、私の赦しの気持ちはあなたたちの邪悪さよりも強いのです。』」

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モーツァルトをイタリアへ戻す(2)

Opera Now 誌のバックナンバーに載っていた、マエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。
マエストロがスカラ座で上演したオペラがすべてDVD商品化されるといいのに、と思います。

Opera Now 誌 1991年1月号
Bringing Mozart back home to Italy
Riccardo Muti talks to Nigel Jamieson

モーツァルト・オペラのイタリア性という要素について、ムーティは確信を持っているにもかかわらず、彼の上演や録音では英米の歌手たちが強い特徴になっている。というのも、イタリア人歌手にはモーツァルトのスペシャリストが非常に少ないからである。

「イタリアの音楽院はこういう状況に責任があります。多くの教師がモーツァルトを歌った経験のない元歌手であり、だから、彼らは自分たちが知っていること、まさにそのことを教えていて、それはしばしば、19世紀レパートリーに捻じ曲げられたものです...でも、それは別の話です。」

「イタリア人歌手で、テクニックも自由に駆使できるし、モーツァルトを歌う様式も持っている人たちが歌うのを聴くと、輝かしい効果をあげているのがわかります。なぜなら、言葉と声の関係が完璧だからです。すべての言葉が持っているといえるニュアンス、言葉の陰影に対して、彼らが感受性を持っていることがすぐに明らかになります。これは根本的なことです。彼らの多くがイタリア語の響きを正確に表現することができます。彼らが言葉の意味を心と魂とで本当に『感じている』と、説得されるまでもないことです。」

《コシ・ファン・トゥッテ》に言及する彼の見解が多く例証しているのが、おそらく、それがモーツァルトのオペラの中で、ムーティがいちばん愛しているものだ、ということである。

「私がザルツブルクではじめて《コシ・ファン・トゥッテ》を演奏したとき、多くの人が『衝撃を受けた』―『衝撃を受けた』というのが、おそらくふさわしい言葉でしょうが―ことに驚きました。衝撃を受けたのは、イタリア・オペラの愛と裏切りもののように扱ったからです。それが、そのオペラのありのままの姿です。けれども、我々の世紀においては、このオペラはドイツのオペラと化していました。それは発音すら異なっているほど、全く別の代物です。」

「そして、指揮も異なっていたのは確かです。ドイツの指揮者の中には、第一幕を非常に重々しいペースで演奏する人たちがいます。純粋な音という意味において、できるだけ美しくしようとしているのです。けれども、第一幕では、まだ劇は深刻になっていません。第一幕のフィナーレは基本的にはオペラ・ブッファです。そして、彼らによれば、そのまま最初から何も起きなかったかのように第二幕のフィナーレへ、すっと進んでいきます。実際には、すべてが変わり、誰もがもはや何者も信じられなくなっている、自分自身さえも信じられなくなっている、そういう状態なのです。そこは、私がゆっくり進めていく部分です。」

「そして、言葉と音楽の関係の問題があります。《Per pieta'》《お願い許して恋人よ》というアリアを例にしましょう。カール・ベームがかつてよくやっていたように、ゆっくりしたテンポでやるとしたら、Schwarzkopfのような歌手でさえ、言葉の意味を理解するのは困難だったでしょう。この歌は嘆願であり、嘆きではないのです。スコアはアダージョの指示ですが、その文字上の意味は『くつろいで』、ということです。『非常にゆっくりと』という意味だと考えている人たちもいますが。」

「ベームは次のような理論を提示したことについても責任があります。《コシ・ファン・トゥッテ》全体が、メトロノームにしたがった理想的なテンポでもって、すべてのアンダンテとアレグロを演奏できるし、そうすべきだとまで言っているのです!これ以上に詩的でなく、劇的でないことを想像できますか?スカラ座でのモーツァルト・オペラの全チクルスの中で最も詩的な瞬間は、《Soave sia vento》《風よ穏やかに》が終わるときでした。ビオラが高まり、その高まりが、心安らかに慰められる波の中に引いていく。これこそ、私がこの世を去るときにほしい音楽です!」とムーティは言った。"E' il piu' bell'addio."「最も美しい別れです。」

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Tuesday, 02 January 2007

モーツァルトをイタリアへ戻す(1)

マエストロ・ムーティがスカラ座でモーツァルトを盛んに演奏していたことを、非常に好意的にとらえた記事とインタビューを、古いものですが、紹介します。モーツァルト記念年の2006年は終わりましたけれども、マエストロのスカラ座への貢献の一端を知ることができます。

Opera Now 誌 1991年1月号
Bringing Mozart back home to Italy
Riccardo Muti tlaks to Nigel Jamieson

リッカルド・ムーティが、スカラ座における4年間の音楽監督としてなしとげた最も顕著な功績は、モーツァルトのオペラをプログラム作りの中心に持ってきたことである。モーツァルトのオペラがそのような位置におかれたことは、実際、以前にはなかった。たとえば《ドン・ジョバンニ》は、19世紀には6回上演されただけであり、ムーティが職務に就いたときには、20年間スカラ座で聴かれたことがなかった。

彼のオペラへのアプローチは、とりわけ、劇に重きをおいたものであり、オーケストラの貢献が常に離れがたく舞台と結びついている。そして、ムーティが特に親密な関係をもっている歌手―たとえば、Ann Murray、 Thomas Allen ―が舞台に乗っているときには、声とオーケストラの状況がなす完璧な造形には、飛びぬけて素晴らしいものがある。

オーケストラは、何時間も果てしなく続くリハーサルに対して、第一級のモーツァルト奏者集団として応じ、スカラ座の弦の自然な暖かみが、木管の美しく刻まれた正確さと結合して、非常に類いまれなキャラクターを生み出す。けれども、その過程は段階的で、彼らが1987年~1988年のシーズン・オープニングに慣れない《ドン・ジョバンニ》を上演したときは、演奏は印象的だったけれども、ムーティが自分のアイデアの実現に向けて、まだ奮闘中であるような感じがあった。2年後に再演されたとき、オーケストラのスコアへの展望と指揮者への感度は全くみごとだった。

《イドメネオ》で今シーズンをオープンさせるが、ムーティはモーツァルトのイタリア語による五つの傑作オペラすべてを、スカラ座で2年間にもならないうちに指揮することになる。モーツァルト・オペラの様々な上演チクルスの中で、ムーティはそれらの作品をどう観ているかについて語った。

「モーツァルトのほとんどのオペラはイタリア語で書かれていますし、それらの初演のほとんどはイタリア人によって歌われています。だから、それらはオーストリア文化の表現であると同時に、イタリア文化の表現でもあるわけです。けれども、それらのほとんどが我々イタリアの歌劇場から長い間消え去っていました。それは、イタリアの関心の焦点が、ベッリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディに第一に置かれていた期間であり、そのとき無視されていたのはモーツァルトの音楽だけではなく、18世紀ナポリ派のすべての作品が無視されていたのです。18世紀ナポリ派音楽はイタリア音楽の最も偉大な栄光であり、見過ごされてもいました。」

「ですから、このモーツァルトによるイタリア・オペラはドイツ、オーストリア、英国の歌劇場の特権となり、言葉の重要性が非常に無視された上演の種類になっていました。多くの歌手は自分が歌っている言葉の意味を本当には理解していませんでした。そして、作品は劇というよりも交響曲のように扱われたのです。もちろん、例外はありました。たとえば、Ezio Pinza、 Cesare Siepi は二人とも素晴らしいドン・ジョバンニでした。」

「イタリアでは、モーツァルトの上演は稀で、人々が劇場に群がることは確かにありませんでした。今は状況が全く変わりました。私たちスカラ座は《ドン・ジョバンニ》を13回、どれも満員で上演できました。この変化は、我々が今、イタリア的な面に一層大きな重点を置いていることに反応したからに違いないと思っています。そのようにイタリア的な面を強調するようになったのは、ブッシュ、カラヤン、グイド・カンテッリといった別種類の指揮者たちが全面的な貢献したからです。」

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Monday, 01 January 2007

完璧な傑作は《コシ・ファン・トゥッテ》

昨年12月のFamiglia Cristiana誌に載ったマエストロ・ムーティのインタビューから、同じ時期にとられたもの(ケルビーニ管との《ドン・パスクァーレ》について、多くの紙誌で語っています)にはないような部分を紹介します。

昨年最も嬉しかったことのひとつが、マエストロのザルツブルク音楽祭での《コシ・ファン・トゥッテ》のDVDが、商品化されたことでした。当時NHKで放映されたものを何度も何度も観ていますし、FMで放送されたものも繰り返し聴いています。その後、スカラ座で同じプロダクションが上演されてやはりDVDになり、ラベンナ音楽祭のプロダクションも放映されています。
それでも、このザルツブルク版には、若いマエストロの弾むような、鋭角的で、生気溢れる音楽と、若い歌手たちの素晴らしい演技があり、笑いと涙とほろ苦さを心に残して演奏が終わります。《コシ・ファン・トゥッテ》の世界が、まさしく歌手たちにもピットにもあった、と感じられます。そういう上演をより多くの人に、きちんとした映像で観てもらえるのは、ファンとして、大きな喜びです。
特に、FMでも何度も笑いが聞こえてきたバトルの演技と愛らしい声を聞くたびに、今は失われてしまったものを思います。

スカラ座来日公演でも上演の話があったと噂では聞いていた、マエストロの《コシ・ファン・トゥッテ》が、日本にやってくる日が楽しみです。

Famiglia Cristiana 誌 2006年12月10日号
RICCARDO MUTI DIRIGE L’ORCHESTRA GIOVANILE LUIGI CHERUBINI NEL "DON PASQUALE"
I RAGAZZI DEL MAESTRO

ケルビーニ管との仕事の時間は長期間にわたるのですか。
「ええ、いつも準備期間だといっていいでしょう。リラックスしながら、つぶさに詳細にわたってリハーサルする必要があります。そして、長い生命を保ち、非常に多くの人々の間を伝播してきている作品について作り上げていくのです。けれども、こういったことは、歌劇場やオーケストラではいつも起こるはずのことだと思います。スビャトスラフ・リヒテルのような偉大なピアニストと、私が自分のキャリアの始まりにおいてした仕事のことを思い出します。あらゆる小節が研究の対象であり、手直し・再考の対象でした!」

で、演出は?オペラの準備をするというのは劇をやることを意味します...
「私はいいものをもっています。それは、芸術の極致のような立派さや美しさに関する感覚を私に伝えてくれた、教師やマエストロたちによって形作られたものです。残念ながら、劇場では、自分自身についてだけ語ろうとする演出家たちをしばしば見かけます。それは扇情的な舞台だったり、台本に関連のないような舞台装置を伴っています。こういったことは、多くの場合、アルプスの向こう側、とりわけドイツで起きていると言わなければなりません。でも、新聞の第一面を制することは、劇を上演することとは違うのです。」

あなたはしばしば、楽団、楽器といった我々の音楽的遺産がなおざりにされていることについて、忠告してきました...
「イタリアの遺産は巨大だと、想いをはせ続けています。イタリアは音楽に非常に負うところがあります。しかし、もしも、それを忘れたら。作曲家や音楽院だけのことではありません。楽団や楽器、演奏される音楽について考えていきましょう。完全に忘れられている楽器もあります。でも、どうしてザンポーニャのような楽器を忘れてしまえるのでしょうか!パイジェロはオペラ《ニーナ、または恋ゆえに狂った娘》でその楽器を使いました。スカラ座でこの作品を指揮したとき、ザンポーニャのいちばんすぐれた奏者をオーケストラにほしいと思いました。名前をPiero Ricciといいました。その演奏のおかげで彼は有名になり、楽器について語ることが復活しました。楽器は絵画のようなもの、素晴らしい美術品です。保護されるものです。」

で、音色は?イタリアの響きについてはたくさんのことが語られています...
「ブルックナーが演奏されるとき、イタリアの音色は生じえません。イタリアの若者たちに、弦楽器の弓の先でばかり演奏するよう教えている音楽院が時々あります。響きは形造ることができますし、変化させることもできます。」

2006年はモーツァルト年でした。モーツァルトに会ったら、何を話したいと思いますか。
「私はモーツァルトを演奏してきましたし、モーツァルト演奏家としての名声も個別に切り抜かれています。モーツァルトに寄与してきました。でも、彼に会うことには少し恐れがあるといっていいでしょう。何か間違っているところがあったと批判されたら、と想像してみてください!」とムーティは微笑した。「でも、実際は、モーツァルトは人間に向かって、人間について、神の声でもって語りかけています。そして、彼の完璧な傑作は《コシ・ファン・トゥッテ》です。人間について表現しています。判断するまでもありません。普遍的なものなのです。」

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