ストレーレルの思い出(2)
マエストロ・ムーティがストレーレルを偲んでいるインタビューの残りの部分(一部)を紹介します。
2007年12月15日 Corriere della Sera
«Il mio Strehler »
最も貴重な思い出は手紙である。
「《ファルスタッフ》上演の後、《アイーダ》のためにしばしば会いました。私のところに彼から、ナイルについての本が持ちこまれました。ナイルの世界や砂漠、空の写真が載っていました。彼はシンプルで、何もないタイプの《アイーダ》を望んでいました(黄金もなく、大道具もないタペストリーによる《アイーダ》)。そこでは主演者達の魂が主役で、時と、どこまでも続く地平線の空間があるだけです。サバンナの典型的な夕暮れの絵も送られてきました。空はストレーレルによくあるブルーが暮れていっているもので、暗闇の影がところどころに見えます。亡くなる2ヶ月前にはこんな表題のついた手紙をもらいました。『我々が決して上演できない《アイーダ》のために』はたして、死を予感したものだったのかどうか。この手紙を読むと、今でも胸がつまります。」
激論になったことはありますか。
「芸術上のことではありませんでした。何度か歌手達について口をはさみ、もうひとりの中心人物になっていました。指揮台で腕が4本動いているようなもので、彼には腕は2本で十分だとわかってもらいました。」
ヴィスコンティ、ストレーレル、ロンコーニ。歌劇場における彼らの演出出現の意義は何でしたか。
「De Chirico と Maccari が、Francesco Sicilianiによってフィレンツェに招かれたのを別にすれば、当時まではスペイン、フランス、ドイツ、そして東欧の演出家の独壇場でした。しかしながら、独創性・活気・メランコリー・イタリアの素晴らしい美的センスといったものを備えたインスピレーションを歌劇場にもちこみながら、ヨーロッパ文化と関係を持たせたのが、この3人の偉大な名前でした。これまで、たくさんの重要な演出家達とオペラを検討してきました。1970年代には、フィレンツェ歌劇場にイタリアではじめてVitezのような演出家を招き、そして、《オテロ》をJancsoと上演しました。」
ストレーレルがミラノのピッコロ劇場を去ったことは議論をよびました。彼の長きにわたる協力者Nina Vinchi は、ミラノは彼を横柄に扱ったと言い、政治家達を不適格だと告発した。
「当然の言い分です。ストレーレルはミラノに大いに貢献しました。ミラノは彼にほとんど寛容ではありませんでした。」
彼の傑作はモーツァルトですか。
「私との《ファルスタッフ》の演出とアッバードとの《シモン・ボッカネグラ》の演出が、基準となる二つです。けれども、確かに、モーツァルトは彼の最高峰でした。」
人間としてのストレーレルは?
「気分屋で、人好きがして、子供のように純真で、無邪気な面を持っていました。その伝説からは外れていて、本質的には傷つきやすい人でした。私達は、いつも互いに好意を持っていました。」


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