49 posts categorized "団体:Philadelphia Orchestra フィラデルフィア管"

Monday, 16 March 2009

フィラデルフィア管についても心配

マエストロ・ムーティはイタリアの文化についてもの言いを続ける一方で、フィラデルフィア管の行く末も心配しています。

インクワイアラー紙によれば、オーケストラのポストは6席が空席のまま、そして、12人がレイオフ、現在72人のメンバーになっていて、90年代半ば以来、最も小さな規模になっています。財政問題、そして、音楽監督も決まらず、オーケストラの会長も空席、といったリーダーシップの欠如が、フィラ管をむしばもうとしています。

マエストロは、ヴェスパの催した晩餐会は、政治やローマ歌劇場の話をするような場ではなかった、もちろん、フィラデルフィア管の危機についての記事を読んで、そちらを心配しているのだ、と語っています。

2009年3月16日 Il Tempo
Le verità di Muti

2009年3月11日 The Philadelphia Inquirer
Staff Cuts At Philadelphia Orchestra

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Friday, 14 November 2008

フィラデルフィア管登場20周年記念CD

マエストロ・ムーティのフィラデルフィア管デビュー20周年を記念したCDを入手しました。譲ってくださった方には、心からお礼申しあげます。

The Philadelphia Orchestra
Riccardo Muti ,Music Director and Conductor
In Celebration of his 20 Years in Philadelphia

ヴェルディ 序曲 シチリア島の夕べの祈り
1985年5月1日

マルトゥッチ ノットゥルノ
1986年6月1日

ストラヴィンスキー バレエ組曲 火の鳥
1986年6月1日

エルガー 南国にて
1986年9月19日

ベートーベン 序曲 プロメテウスの創造物
1987年4月14日

ヴェルディ 行け、我が想いよ
1989年2月10日

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Sunday, 17 February 2008

フィラ管新シーズンには登場せず

フィラデルフィア管の新シーズンが発表になりました。残念ながら、マエストロ・ムーティの演奏会はありません。

The Philadelphia Orchestra
Orchestra Announces 2008-2009 Season
http://www.philorch.org/index2.html

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Sunday, 01 July 2007

ナポリ地震のための救済コンサート1981

マエストロ・ムーティがルドルフ・ゼルキン、フィラデルフィア管と、ナポリ地震のための救済コンサートを行ったことは、以前紹介しました。プログラムが判明しました。

1980年のナポリ地震については、マエストロのご親族も影響を受けた、と報じられていましたが、このコンサートではスピーチなどは行われず、音楽だけが演奏されたとのことです。プログラムがすべてを語っています。

1981年2月17日(火) フィラデルフィア管、アカデミー・オブ・ミュージック
ヴェルディ 歌劇《運命の力》序曲
ベートーベン ピアノ協奏曲第5番《皇帝》
チャイコフスキー 交響曲第6番《悲愴》

1981年2月19日 Philadelphia Inquirer
MUTI JOINS WITH SERKIN IN BENEFIT

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Saturday, 30 June 2007

《さまよえるオランダ人》

ドイツの音楽ライターによるマエストロ・ムーティのインタビューを読んで、久しぶりにマエストロとフィラデルフィア管の《さまよえるオランダ人》のテープを聴きました。1986年10月9日、11日、14日にコンサート形式で演奏されたものです。
手元にある当時の新聞記事には、次のようなマエストロの短いコメントが載っています。

ムーティは《オランダ人》をワーグナーの作品中、最もイタリア的なものに属しているとみなしていた。「ワーグナーの叙事詩は、各場面が境目なく連続してまじりあっているような、より一層長いタペストリーとなっているものですが、このオペラは、合唱、アリア、各場面から構成されています。おそらく、こういう構成が、ヴェルディの初期中期の作品に見られるナンバー区分による構成と類似していることも、要因のひとつでしょう。」

Philadelphia Daily News 紙 1986年10月9日
MUTI PICKS 'DUTCHMAN' FOR THE OPERA CONCERT

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Sunday, 06 May 2007

1984年フィラデルフィア管ツアー(4)

マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管の1984年ヨーロッパ・ツアーのうち、イタリア・ツアーの部分をとりあげた記事の続きを紹介します。

このツアーの演奏曲は次のとおりです。
バルトーク 二つの映像
マーラー 交響曲第1番
フランク 交響曲二短調
ヒンデミット 弦楽と金管のための協奏音楽
シューベルト グレイト交響曲
プロコフィエフ 組曲《ロメオとジュリエット》
ファリャ 《三角帽子》組曲2
チャイコフスキー 交響曲第4番

Attenzione誌 1984年10月号
Bravissimo!

フィレンツェはフィラデルフィアの姉妹都市だ。そして、1970年にフィレンツェ五月音楽祭のオペラ上演のリハーサルをしているリッカルド・ムーティを、長期にわたってフィラデルフィア管の指揮者を務めたユージン・オーマンディが聴いたのは、ここのテアトロ・コムナーレにおいてであった。それは、その若い音楽家をフィラデルフィアに客演させ、現在の地位に導いた出来事だった。ムーティが戻ってきた晩はやや小さなホールは満員で、手すりの中には、立見の客が2列になっていた。聴衆の反応は非常によく、オーケストラがステージを去るという仕草を見せるまで、何度も繰り返されたカーテンコールに喝采を送っていた。コンサートの後、ムーティは引きつったような顔と疲れ切った様子で、あっというまにラベンナに連れ去られた。フィレンツェから75マイルほど離れていて、クリスティーナや子供達とめったにないオフを過ごすためだった。ヴィヴォリVivoliのおいしいアイスクリームで精をつけ、オーケストラはピサを経て次のコンサート旅程の地へ飛んだ。トリノである。

ピエモンテの首都にある乾いた音響のTeatro Regioは、元々建てられていた場所にある。最初の建物は1937年に焼け落ちてしまったが、1896年2月1日にプッチーニ《ラ・ボエーム》が初演された。曲の合間にムーティは楽屋裏にひょいと入り込み、見回して、最近の《ボエーム》に使われたカフェ・モミュスのセットに気づいた。メンバーの中には、自分達の受けた喝采が劇場の音響によって、枕を一斉にたたいているように聴こえたことに気づいた者たちもいたが、拍手喝采はフィレンツェでと同じくらいの間続いた。

トリノからミラノへの列車内でのなごやかなポーカー・ゲームでは、芝居っ気たっぷりなプレーヤー達がベットを3000にレイズしたり、4000がコールされたりするのが見られた。立見している者たちは、賭けがリラで行われているのに気づくまでは、この大きな浪費に驚いたことだろう。この陽気に見える雰囲気にもかかわらず、スカラ座で演奏することの懸念が、その底には強く渦巻いていた。ほとんどの演奏達にとって、クールなミラノっ子達は打ち勝つべき聴衆だったからだ。

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1984年フィラデルフィア管ツアー(3)

マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管の1984年ヨーロッパツアーを取り上げた記事の、続きを紹介します。

ツアー中の大変さが想像を絶するものであることはよく知っているつもりですが、ベストを尽くそうとするマエストロ・ムーティとオーケストラにはいつもいつも心から感謝しています。

Attenzione 誌 1984年10月号
Bravissimo!

ムーティはローマのアカデミア・サンタ・チェチリアにおいて、過去最も若い演奏家として栄誉を受けた。「永遠の都」での歓迎振りはナポリと同じくらいにぎやかだった。現代的なAuditorio Pioに登場したオーケストラ一行は、満員のホールで演奏した。ファン達は両壁際に立ち、最前列を埋めたファン達は弦楽器奏者達の弓にほとんど触れることができるほどだった。両サイドエプロンに座った人達は、ムーティの表情やジェスチャーを見ることができた。フランクの二短調交響曲とプロコフィエフの《ロメオとジュリエット》組曲を彼が指揮した際のしかめっつらや、眉をつりあげた様子、指揮棒での突き、ジャブ、ソロ奏者を突然直視する姿といったものである。 演奏が終わると、聴衆にまじめな顔つきを向ける前に、オーケストラに向かって大きな笑顔を見せていた。アンコールであるヴェルディの序曲は、今度は、聴衆を座席に釘付けにした。演奏が終わり、ロックコンサートでのように、女性ファンたちの大きな波がコントラバス奏者Neil Courtneyを踏みつけんばかりになり、彼は本能的に自分の1540年製楽器を護ろうと動いたほどだった。

ツアーの間、オーケストラのメンバー達の会話はコンサートホールの音響、レストラン、バーゲン、美術館といったことに傾きがちだった。この順番は彼らが観光している短い間にちょっと聞き取ったものによった。彼らは、自分達の旅程とイタリアの生活様式があわないことに気づいていた。そのバスと列車はどの都市にもいつも午後3時ごろに到着し、開いているレストランや店を見つけるには遅すぎた。レストランが開く7時には、彼らはちょうどバスに乗ってコンサートホールに向かうところだった。さらに、最適の状態で連続して演奏しようとすることは、常に存在する、言葉にならない緊張感を生み出していた。彼らのマエストロの誇らしげな笑顔は、聴衆からもらう勲章と同じくらいの重みがあったのである。

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Saturday, 05 May 2007

1984年フィラデルフィア管ツアー(2)

マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管の、1984年ヨーロッパツアーに関する記事の続きを紹介します。
マエストロはいつでも、今でも、ナポリではヒーローです!

手元の資料によれば、1984年のツアー日程は次のとおりです。ラベルの左手のための協奏曲を弾くはずだったリヒテルは、キャンセルしています。

1984年5月17日、18日 ミュンヒェン
1984年5月19日、20日 ウィーン
1984年5月21日、22日 ナポリ
1984年5月23日 ローマ
1984年5月25日 フィレンツェ
1984年5月27日 トリノ
1984年5月28日 ミラノ
1984年5月29日 ベローナ
1984年5月30日 ロンドン
1984年6月1日 ベルリン
1984年6月2日 パリ

また、1984年以前のマエストロのナポリ公演については、手元の資料では次のとおりです。1980年のナポリ地震については、フィラデルフィアでも慈善コンサートを開いています(1981年2月17日)。

1968年10月19日 ナポリ秋季音楽祭、RAI響
1978年4月14日 フィルハーモニア管
1982年4月8日 フィルハーモニア管

Attenzione 誌 1984年10月号
Bravissimo!

ムーティとフィラデルフィア管のツアーは、ミュンヒェンで2回、ウィーンで2回行うことから始まった。ピアニストのスビャトスラフ・リヒテルとのミュンヒェンを始めとする5回の共演は、彼の病気のためにキャンセルせざるを得なかったが、オーケストラのメンバーたちは、5月21日のナポリ公演での溢れんばかりの歓迎振りを楽しみにしていた。実際、報告が伝わってきていて、ボックスオフィスでコンサートのチケットを求める人たちの騒動を統制するために、警察の出動が要請されたという。オーケストラのナポリ滞在中、ムーティは、18世紀に建てられたナポリの堂々たる歌劇場テアトロ・サン・カルロを、イタリア最古の歌劇場であり、ロッシーニとドニゼッティがかつて最高の状態を過ごした場所であることを、大いに誇りにした。彼はすべての人に次のことを思い出させた。「かつてはあらゆる指揮者がオペラ出身だったのです。」

最初の晩には、ナポリ地区のムーティ・ファミリーが35人、妻のクリスティーナ、父、二人の兄弟がエレガントに盛装した聴衆の中にいた。一方、オーケストラの家族たちの中には、気後れするようなイタリアの劇場マナーにまごついている人たちもいた。二つあり、ひとつは、チケットの値段が券面から省かれていて、チケットの価値は需要と入手可能性によって変わるということ。もうひとつは、チケットには通路表示、列表示、座席表示がなくて、当然、意欲的な案内係へのチップが必要なこと。

アメリカのオーケストラは、個々にばらばらとステージに現れて、楽器を弾いて音響を確かめるのに対して、ヨーロッパのオーケストラは隊列をなして一斉に登場する。合唱団のやり方である。フィラデルフィア管はホールに登場したとき、赤と白の花が楽譜台にあるのに気づいた。ステージ裏では、好意を寄せる人たちと、ムーティが短時間談笑していた。明らかに彼は寛いでいた。

ムーティが自分の町に戻って指揮したのは4回だけで、前回の公演は1980年地震救済のための慈善コンサートだった。コンサートゴーアーのひとりは、ムーティのいちばん最近のナポリ登場への期待を、こう言うことで強調した。「彼が戻ってくるためには、また地震が必要なのかもしれないと我々は思っていました。」ムーティの登場は大きな反応を巻き起こしたが、いつものように、彼は即座に聴衆に背を向けた。それは、あたかも、オーケストラの素晴らしさを証明する仕事にただちにとりかかりたいかのようだった。作品が終わるごとに、ムーティは、自分が聴衆のほうを向いて歓呼を受けるよりも前に、オーケストラに起立するよう求めていた。

オーケストラとともに成果を共有するということを強調しようとしたのは、今回がはじめてではなかった。フィラデルフィアで彼は、オーケストラのメンバー達にこう言ったことがあった。「思い出してください。拍子をとることは楽器を上手に演奏するよりは容易なのです。」鮮やかに演奏されたコンサートは激しく興奮した喝采で終わり、やがて、短いアンコールによって鎮まった。天井桟敷で高ぶった誰かがこう叫んだ。「戻ってきてくれて、ありがとう」そして、ムーティが彼らしくなく(訳注:uncharacteristicallyが原語。マエストロはスカラ座でや最近は、アンコールの前などに聴衆となごやかなやりとりやスピーチを行うことが多いように思いますが)答えた。「私達を聴きにきてくれて感謝しています。オーケストラも同じ気持です。」

翌朝、ムーティと妻はホテル・エクセルシオールのロビーで客達の歓迎を受けた。二人が通りを横切って、ナポリ湾に突き出た要塞沿いをぶらぶら歩いていると、カメラマンたちが二人の一挙一動を写真に撮った。ムーティの顔があらゆる新聞に載り、すべてのレコード店のショーウィンドーを飾っていて、彼は音楽界のヒーローとして故郷に戻っていたのだった。

その晩、バルトーク、ヒンデミット、シューベルトのプログラム(訳注:バルトーク 二つの映像、ヒンデミット 弦楽と金管のための協奏音楽、シューベルト グレイト交響曲)を堪能した聴衆の構成は、前の晩に比べて、まじめなコンサートゴーアー達は多くなっていて、社交界の人たちは少なくなっていた。劇場を揺るがした狂乱の喝采を鎮めるかのように、ムーティが突然指揮棒をとって、管楽器の三つの不吉な音を導き、そして、それが繰り返され、沈黙の叫び声が出た。突然聴こえたあえぎが、ヴェルディの《運命の力》序曲における運命に苦しむメロディだとわかった。オーケストラがアンコールの最後の音を演奏したときには、聴衆は立ち上がっていた。喝采はオーケストラのメンバー達がステージを去った後も続いた。ムーティがこのオーケストラの有名な弦楽器セクションの椅子の間から現れ、天井桟敷に向かって手を振ったとき、彼は間違いなく、自分の運命の力を証明して見せたのだった。

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1984年フィラデルフィア管ツアー(1)

マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管の、1984年ヨーロッパ・ツアーをとりあげた記事(原文は英語)を紹介します。

この頃、マエストロはしばしば、オーケストラとの結びつきを結婚にたとえていて、イタリア人だからなのか?と苦笑させられていたのを、久しぶりに思い出しました。

Attenzione 誌 1984年10月号
Bravissimo!

その輝かしいキャリアの過程で、リッカルド・ムーティはおそらく、これまでに書かれたすべての交響曲を演奏したか、聴いたかしたと思われる。けれども、新しく任命されたスカラ座音楽監督を歓迎する、ミラノの聴衆から受けた喝采ほど甘美な響きは、かつて彼は聴いたことがないだろう。

指揮者リッカルド・ムーティは今年5月に故国イタリアを訪れたが、それは普通の旅行ではなかった。フィラデルフィア管を伴って、キャリアの若い頃に成功を収めた都市に戻ったムーティは、クラシックの演奏界で最も高位の贈り物を受けることが決まっていた。ミラノの名高いスカラ座の音楽監督である。訪れる6ヶ国のうち、そのひとつであるイタリア・ツアーの7演奏会は売り切れ、20日間のヨーロッパツアーの目玉だった。一方、フィラデルフィア管のメンバー達(彼らにとっては1955年以来4度目のイタリア訪問)は、自分達の43歳のマエストロにとって、これらのコンサートが特別な意味を持っていることに気づいていた。

イタリアに向かって出発する前、ムーティは、ツアーが持つ個人的な面については控えめに語るように努めていた。人懐っこくて、しばしば、いたずらっ子のように見える微笑で中断されたとはいえ、彼の鋭く率直な話し方は、その突き刺すような黒い瞳によって強められていた。「音楽はヨーロッパで生まれました。」とムーティは注意を促した。「そして、ヨーロッパの聴衆は手厳しいです。彼らは、ニュー・フィルハーモニア管と訪れた頃から私を知っていますし、フィラデルフィア管とのこの結婚、結びつきについて知りたがっています。私達のためにgrancassaバスドラムを鳴らす必要はありません。この結びつきが機能していることについて彼らを納得させることさえできれば、拍手を送ってくれるからです。」

「スカラ座は私がフィラデルフィア管を続けていることを嬉しく思っています。また、私がスカラ座を受け入れたことをフィラデルフィア管が喜んでくれるよう、私は望んでいます!アメリカの音楽監督は、プログラム、新しいメンバーのオーディション、独奏者、指揮者の招聘、そのほかたくさんの運営管理上の職分の、すべてについて責任を負います。けれども、イタリアの音楽監督は自分の上演についてだけ責任を負い(それは、私の場合は、二つの新プロダクションと《リゴレット》の再演ですが)、劇場全体の水準全般をチェックするだけです。フィラデルフィアで私がしなければならないことをスカラ座でやることは不可能でしょう。それでも、スカラ座での仕事は非常な激務になることでしょう。けれども、ひとりの女性と結婚することとは違って、この場合は、大西洋を渡って別の女性と懇意になる、というわけです。今や、他の歌劇場に行って仕事をする時間は、少なくなるでしょう。」1984年のシーズンでは、ムーティはフィラデルフィアを4回訪れ、30回のウィークエンドチクルスのうち、11回を指揮する。

5人兄弟の三男として、ムーティはナポリで生まれたが、青春時代をバーリに近いモルフェッタで過ごした。父の故郷であり、そこには家族がナポリに戻るまでいた。8歳でバイオリンを勉強し、13歳のときにピアノに切り替えた。音楽院での演奏会で指揮を依頼されて、はじめて、自分の特別な才能に気づいた。19歳でミラノのヴェルディ音楽院に入学し、そこではアルトゥーロ・トスカニーニと一緒に仕事をしていたAntonino Vottoに学び、Bruno Bettinelliに師事した。同じ音楽院の学生だった歌手Cristina Mazzavillaniは妻になった。二人は結局のところ彼女の故郷ラベンナに居を構え、娘Chiara13歳、息子Francesco14歳、Domenico5歳と現在もそこに暮らしている。

1967年、ヴェルディ音楽院卒業後2年たって、誰もが望んだGuido Cantelliコンクールに優勝し、フィレンツェ五月音楽祭で指揮する機会を得た。フィレンツェで毎年催される行事である。1969年から1980年までフィレンツェ五月音楽祭管の首席指揮者、音楽監督を務め、1972年から1982年までロンドンのフィルハーモニア管の音楽監督だった。偶然の一致なのだろうか、フィラデルフィア管は、ムーティの初期のキャリアにおいて傑出した役割を演じた、その同じ都市にツアーを行い、しかも、それと同じ舞台に立った。

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Friday, 04 May 2007

フィラデルフィア管1984年イタリア・ツアー

マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管が1984年に行ったヨーロッパ・ツアーのうち、イタリア・ツアーの部分をスケッチした記事をとても楽しく読みました。
イタリアに関する話題を載せているUSAの雑誌で、マエストロがカバーストーリーになっています。
マエストロのいたずらっぽくて、生き生きとしていて、黒く澄んだ瞳は、いつもいつも、本当に魅力的です!

スカラ座では、マエストロの師Vottoが楽屋を訪れ、マエストロとフィラデルフィア管のコンサートマスター、ノーマン・キャロルととも写真に納まっています。
フィラデルフィア管のメンバーたちは、早くからスカラ座を訪れ、ステージから空っぽの客席を眺めて、威厳に打たれている様子だったとのこと。アカデミー・オブ・ミュージックがスカラ座を模している、と言われてきたからだと、記事は書いています。

ナポリの様子は壮観でした。テアトロ・サン・カルロには、ナポリ及びその周辺にいるマエストロの親族35人、クリスティナさん、マエストロのお父さんとマエストロの二人の兄弟が聴きにきていたとのこと。
ナポリが誇る指揮者でありながら、なかなかナポリで公演してくれず、1984年のこの公演は1980年の地震被害者救済慈善コンサート以来で、マエストロに訪れてもらうためには、地震を起こすしかないか、とまでファンに言われていたことを、記事は紹介しています。
終演後、天井桟敷からThank you for coming back home.(戻ってきてくれて、ありがとう)と叫び声がとび、マエストロがそれに対して、I thank you for having us ,and so does the orchestra.(私達の演奏を聴いてくれてありがとう。オーケストラも同じ気持です)と答えた様子には、ああ、イタリアだ、と涙が出そうになるくらい嬉しくなりました。
(ちょうど、ミランがチャンピオンズ・リーグの決勝戦進出を決めた試合の感激を、ミラノのファンたちの熱狂ぶりと一緒に味わったばかりだったので)

このツアーについてマエストロは、フィラデルフィア管の素晴らしさをイタリアでも知ってもらいたい、と語っていて、聴衆はそれを十分に堪能し、大きな大きな成功に終わったことがこの記事からうかがわれます。

マエストロの言葉で、ああ、やはり、と思ったことがあります。
マエストロは聴衆の拍手に対して、自分が聴衆のほうを向いて応える前に、まずオーケストラのメンバー達を起立させ、その喝采を浴びせさせますけれども、その理由をメンバーたちにこう語っています。「思い起こしてほしいのですが、楽器をうまく演奏するよりも、拍子をとるほうが容易なのです。」

記事は、また、時間をみて紹介します。

Attenzione 誌 1984年10月号
Bravissimo!

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