マエストロ・ムーティとフィラデルフィア管の、1984年ヨーロッパツアーに関する記事の続きを紹介します。
マエストロはいつでも、今でも、ナポリではヒーローです!
手元の資料によれば、1984年のツアー日程は次のとおりです。ラベルの左手のための協奏曲を弾くはずだったリヒテルは、キャンセルしています。
1984年5月17日、18日 ミュンヒェン
1984年5月19日、20日 ウィーン
1984年5月21日、22日 ナポリ
1984年5月23日 ローマ
1984年5月25日 フィレンツェ
1984年5月27日 トリノ
1984年5月28日 ミラノ
1984年5月29日 ベローナ
1984年5月30日 ロンドン
1984年6月1日 ベルリン
1984年6月2日 パリ
また、1984年以前のマエストロのナポリ公演については、手元の資料では次のとおりです。1980年のナポリ地震については、フィラデルフィアでも慈善コンサートを開いています(1981年2月17日)。
1968年10月19日 ナポリ秋季音楽祭、RAI響
1978年4月14日 フィルハーモニア管
1982年4月8日 フィルハーモニア管
Attenzione 誌 1984年10月号
Bravissimo!
ムーティとフィラデルフィア管のツアーは、ミュンヒェンで2回、ウィーンで2回行うことから始まった。ピアニストのスビャトスラフ・リヒテルとのミュンヒェンを始めとする5回の共演は、彼の病気のためにキャンセルせざるを得なかったが、オーケストラのメンバーたちは、5月21日のナポリ公演での溢れんばかりの歓迎振りを楽しみにしていた。実際、報告が伝わってきていて、ボックスオフィスでコンサートのチケットを求める人たちの騒動を統制するために、警察の出動が要請されたという。オーケストラのナポリ滞在中、ムーティは、18世紀に建てられたナポリの堂々たる歌劇場テアトロ・サン・カルロを、イタリア最古の歌劇場であり、ロッシーニとドニゼッティがかつて最高の状態を過ごした場所であることを、大いに誇りにした。彼はすべての人に次のことを思い出させた。「かつてはあらゆる指揮者がオペラ出身だったのです。」
最初の晩には、ナポリ地区のムーティ・ファミリーが35人、妻のクリスティーナ、父、二人の兄弟がエレガントに盛装した聴衆の中にいた。一方、オーケストラの家族たちの中には、気後れするようなイタリアの劇場マナーにまごついている人たちもいた。二つあり、ひとつは、チケットの値段が券面から省かれていて、チケットの価値は需要と入手可能性によって変わるということ。もうひとつは、チケットには通路表示、列表示、座席表示がなくて、当然、意欲的な案内係へのチップが必要なこと。
アメリカのオーケストラは、個々にばらばらとステージに現れて、楽器を弾いて音響を確かめるのに対して、ヨーロッパのオーケストラは隊列をなして一斉に登場する。合唱団のやり方である。フィラデルフィア管はホールに登場したとき、赤と白の花が楽譜台にあるのに気づいた。ステージ裏では、好意を寄せる人たちと、ムーティが短時間談笑していた。明らかに彼は寛いでいた。
ムーティが自分の町に戻って指揮したのは4回だけで、前回の公演は1980年地震救済のための慈善コンサートだった。コンサートゴーアーのひとりは、ムーティのいちばん最近のナポリ登場への期待を、こう言うことで強調した。「彼が戻ってくるためには、また地震が必要なのかもしれないと我々は思っていました。」ムーティの登場は大きな反応を巻き起こしたが、いつものように、彼は即座に聴衆に背を向けた。それは、あたかも、オーケストラの素晴らしさを証明する仕事にただちにとりかかりたいかのようだった。作品が終わるごとに、ムーティは、自分が聴衆のほうを向いて歓呼を受けるよりも前に、オーケストラに起立するよう求めていた。
オーケストラとともに成果を共有するということを強調しようとしたのは、今回がはじめてではなかった。フィラデルフィアで彼は、オーケストラのメンバー達にこう言ったことがあった。「思い出してください。拍子をとることは楽器を上手に演奏するよりは容易なのです。」鮮やかに演奏されたコンサートは激しく興奮した喝采で終わり、やがて、短いアンコールによって鎮まった。天井桟敷で高ぶった誰かがこう叫んだ。「戻ってきてくれて、ありがとう」そして、ムーティが彼らしくなく(訳注:uncharacteristicallyが原語。マエストロはスカラ座でや最近は、アンコールの前などに聴衆となごやかなやりとりやスピーチを行うことが多いように思いますが)答えた。「私達を聴きにきてくれて感謝しています。オーケストラも同じ気持です。」
翌朝、ムーティと妻はホテル・エクセルシオールのロビーで客達の歓迎を受けた。二人が通りを横切って、ナポリ湾に突き出た要塞沿いをぶらぶら歩いていると、カメラマンたちが二人の一挙一動を写真に撮った。ムーティの顔があらゆる新聞に載り、すべてのレコード店のショーウィンドーを飾っていて、彼は音楽界のヒーローとして故郷に戻っていたのだった。
その晩、バルトーク、ヒンデミット、シューベルトのプログラム(訳注:バルトーク 二つの映像、ヒンデミット 弦楽と金管のための協奏音楽、シューベルト グレイト交響曲)を堪能した聴衆の構成は、前の晩に比べて、まじめなコンサートゴーアー達は多くなっていて、社交界の人たちは少なくなっていた。劇場を揺るがした狂乱の喝采を鎮めるかのように、ムーティが突然指揮棒をとって、管楽器の三つの不吉な音を導き、そして、それが繰り返され、沈黙の叫び声が出た。突然聴こえたあえぎが、ヴェルディの《運命の力》序曲における運命に苦しむメロディだとわかった。オーケストラがアンコールの最後の音を演奏したときには、聴衆は立ち上がっていた。喝采はオーケストラのメンバー達がステージを去った後も続いた。ムーティがこのオーケストラの有名な弦楽器セクションの椅子の間から現れ、天井桟敷に向かって手を振ったとき、彼は間違いなく、自分の運命の力を証明して見せたのだった。
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