Teatro Petruzzelliの舞台写真を収めた本の巻頭に載っている、マエストロ・ムーティへのインタビューを紹介します。
この本によれば、マエストロがTeatro Petruzzelliで演奏したのは2回です。
最初は、フィルハーモニア管と1982年4月9日で、マエストロにとって初めてのバーリ公演でした。
2回目はスカラ・フィルと1989年12月11日で、ガンについて研究している、イタリアの団体のためのものでした。
インタビューは、2008年のウィーン・フィル来日公演からイタリアに戻った頃、ラベンナの自宅で休息をとっている頃に、行われたようです。
TEATRO segreto
Barbieri, 2009
60euro
「私の原点はプーリア、フェデリコ2世の地にあります。古風で素朴な土地柄で、私はそこの気質や特質を自分のものとしました。いろいろな地を巡りまわっていますが、原点は常にプーリアにあり、私の世界と人生の基礎になっています。」
モルフェッタ生まれの父は医師だったが、特に音楽マニアで、《トロバトーレ》や《リゴレット》のアリアを諳んじていた。「市民のブラスバンドを聴きながら覚えたのです。父がそのようでなかったら、私も別の人生を歩んでいたことでしょう。」「たぶん、弁護士になっていたでしょう。あるいは、宇宙飛行士(笑い)。いずれにせよ、何か高く飛ばせてくれるものに、天体を探索させてくれるものに、です。」
早くから音楽への適性があったのですね、マエストロ?
「2歳のときに、はじめて《アイーダ》を観ました。劇場に足を踏み入れたのは、そのときが最初でした。何と、その劇場がPetruzzelliだったのです。両親に連れられて行きました。運転手の腕に抱かれて、最後列に座っていたと両親は言っていました。すぐに私を外に連れて出られるようにするためです。けれども、私は上演中ずっと、がまんできなさそうな様子を見せなかった、とのことでした。」
その《アイーダ》以来、あなたをPetruzzelliに結びつける強い感情があった?
「私にとって、非常に大切な意味を持ち続けてきた劇場です。青春時代と、私が音楽的にできあがっていく過程の最初の頃はすべて、バーリとそこでの文化的生活に結びついていました。二つの重要なエピソードが想い出されます。ひとつは、Teatro Piccinniで、Napoleone Annovazziが指揮した《オテロ》を観ました。14歳の時でした。想い起こしてください、私はザルツブルクで《オテロ》を指揮したばかりなのですよ。それをバーリではじめて観たというのは、興味深いことです。それから、もう一つのエピソードは、今度はPetruzzelliで、アルトゥール・ルービンシュタインのリサイタルに強い印象を抱きました。私は青年期で、このピアノの巨匠に、雷に打たれたかのようになりました。」
バーリはあなたにとって、ニーノ・ロータも意味します。
「私の人生と目標を根本的に変えることを決定づけた出会いです。ニーノ・ロータと知り合ったとき、音楽院の1年生で、ナポリへ、そして、その後ミラノへ移る前のことでした。文化の激動時期でした。バーリの音楽生活について、私がその内側から享受することを許してくれたのが、まさしく彼でした。私は、《フィレンツェの麦わら帽子》を観た最初の人間の一人です。ロータが1945年に書いたオペラで、その後、世界中で成功のうちに上演されています。そして、私の音楽的な可能性を確信してよい、確信すべきだ、と告げてくれたのがニーノ・ロータその人でした。その時までは、音楽とは、人格を決定づけるための補完的な要素だと考えていました。それが父の教えでした。けれども、音楽を演奏することが職業だとは、人生の動機だとは、一度も考えたことがありませんでした。」
観客から演奏者へ、つまり、Petruzzelliの客席から指揮台へは、どれくらいの年がたっていたのですか。
「長かったです。バーリでの最初のコンサートは、1982年フィルハーモニア管とでした。フィルハーモニア管を何年間か指揮していました。故郷でのはじめてのコンサートでした。感激した、と認めます。2度目はスカラ・フィルと1989年にでした。その後火災が起き、17年間の長い沈黙があり、バーリにとってもイタリアにとっても、それは名誉なことではありませんでした。」
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