1ヵ月あいてしまいましたが、マエストロ・ムーティのシカゴ響音楽監督就任について分析している、シカゴの新聞記事の残りの部分を紹介します。
マエストロはとてもとてもポジティブな人で、将来をしっかり見据えながらも、いつもそこに期待を抱いています。こういう人が一国のリーダーだったら、と思うのですが、トニー・ブレアでその想いは裏切られたことがあります。やはり、マエストロ・ムーティには、音楽を表現する人でいてほしい。
2008年6月8日 Chicago Tribune
Dreams and visions of the CSO's new maestro
Muti wants to take the orchestra to city neighborhoods
By John von Rhein
バレンボイムは、音楽監督に指名されて1989年にはじめて開いた記者会見で、オーケストラについては何を変えるつもりかとたずねられた。彼はこう言った。「私が変化をもたらすことができるとしたら、それは今よりも悪くすることでしょう。」
変化するのは自然のこと
ムーティも似たような哲学を持っている。彼は私に言った。オーケストラに音楽監督が就任すれば、変化は避けられません、と。「けれども、変化は自然に訪れます。なぜなら、すべての指揮者は音、フレージング、解釈、様式について、自分自身のコンセプトを持っているからです。」シカゴ響のように才能も高い質も持ったオーケストラでは、メンバー達は音楽についてのアイデアに関しては、どの点から見ても指揮者と同じくらいに強固なものをもっているが、そういうオーケストラに対して、「指揮者は決して何かを押しつけたいわけではないのです。」
アメリカ人の仕事に関する倫理感を強く信じるムーティは、シカゴ響のメンバー達は、何百回となく以前に演奏したことのある楽譜について、もっと深く掘り下げようとすることに関して、彼と同じくらいに熱心だということを認めた上で、音楽監督とオーケストラのメンバー達のコラボレーションにおける「勤勉さ、ハードワーク」の重要性を強調した。
この巨匠は作曲家の意図するところに正確であること、忠実であることに、イタリア人らしい熱心さと熱烈さでもって忠誠を誓っている。音楽の解釈となると、ムーティはロマンチックなまでの完璧主義者となる。
「指揮者としてのキャリアを始めたとき、私はとてもギラギラとしていて強烈でした。」ムーティはこう言った。「自分にはそのことについて義務があることを証明しようと思っていたのです。今では、だんだんと指揮のジェスチャーが一層必要最小限のものになってきています。けれども、指揮に関してはトスカニーニ派出身ですから、ジェスチャーが必要最小限のものになったとはいえ、正確であることにはいまもって注意を払っています。」
「私は、指揮棒によるよりも、自分が内側に抱いているものでもってのほうが、オーケストラをより一層まとめることができると考えています。」彼は、心臓のあるあたりの胸に手をあてながら、付け加えた。「オーケストラを指揮しているときは、自分が何をしているのかについて、全く考えていません。ただ演奏を、(音楽を)表現していることを感じているだけです。」
ムーティは自分が世界中でひっぱりだこの有名指揮者、魅力的なジェット・セット指揮者であることをひけらかすために、シカゴにやってくるわけではない。また、次々と演奏会をこなしたり、ベートーベンの交響曲を次から次へと指揮したりして、シカゴ響をどれほどうまく指揮できるかについて証明するために、シカゴに来るわけでもない。とびぬけて素晴らしいキャリアにおいて、そういったことすべてをやってしまった音楽家にとって、証明すべきものとして何が残されているというのだろうか。それだから、彼は誰にも何も証明する必要がない。
ムーティは、シカゴ響を重要な、個人的な最終部分と考えていると言った。人生で予期している最後の音楽監督だというのである。彼は自分の最も真剣で精力的な関心を、次のような、みずからの中心的な目的に捧げると決心したように見える。焦点は明らかにその目的にあてられている。すなわち、シカゴ響をシカゴにおいて、世界において、さらに一層偉大な高みに連れて行きながら、シカゴにおいて素晴らしい音楽についての聴衆を拡大するということである。
彼が、高貴な意図を実際の結果にどのようにうまく転換できるかどうかは、もちろん、時間だけが語ることだ。それでも、懐疑深い人達が少しはいたとしても、彼らでさえも、ムーティが素晴らしいスタートを切ったことは認めるに違いない。2年以上も前にシカゴ響の音楽監督職を公式に手中にし、温和な形でオーケストラのメンバー達とオーケストラ・ファミリーを制覇した。シカゴのそれら以外の部分が次の課題だ。
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