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Tuesday, 20 October 2009

マエストロへのインタビュー

シカゴのラジオ局がマエストロ・ムーティへのインタビューを放送しました。

わたしの接続状況では聞けませんでした。

http://viewfromhere.typepad.com/the_view_from_here/2009/10/my-radio-guest-tonight-riccardo-muti.html

Andrew Patner: The View from Here
2009年10月19日 My (radio) guest tonight -- Riccardo Muti

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Sunday, 24 December 2006

果たされていない夢

マエストロ・ムーティの14日のAvvenire紙のインタビューを紹介します。

マエストロは意図していなくても、スカラ座の《アイーダ》上演が頭にちらちらのぼってくるようなインタビューでした。

スカラ座でほとんどのヴェルディのオペラを上演したマエストロが、最近、ヴェルディのオペラを上演していません。マエストロのヴェルディへの変わらぬ情熱が伝わってくるようなインタビューを読み、その想いのこめられた《オテロ》がどれほど素晴らしいものになるであろうかを、あらためて想像しました。
2008年はマエストロにとって、本当に本当に重要な年になりそうです。

2006年12月14日Avvenire 紙
Muti: «Dirigo i giovani e boccio i cantanti divi»

「私の果たされていない夢ですか?ヴェルディのオペラを全部録音することです。挑戦しましたが、適した声の持ち主がいないことがわかりました。」

「(ケルビーニ管との《ドン・パスクァーレ》について)すでにスペインやロシアから招待状を受け取っています。けれども、気をそらされるはずがありません。40日間のリハーサルの後、一直線にもうゴールに到達したのですから。」ムーティはこう語った。

マエストロ・ムーティ、6回だけの上演のために40日間のリハーサルですか。
「でも、これが普通です。あるいは、そうすべきだといっていいでしょう。というのも、今は、受け入れがたいスター主義の形をとって、多くの歌手がリハーサルを放棄し、あるいは上演まで放棄しているからです。私は決してそれを容認しません。いつもリハーサル期間を研修所laboratorioのように考えてきました。そこでは指揮者、演出家、音楽家たち、歌手たちが一緒になって舞台を築きあげていくのです。スカラ座でストレーレルと並んで《フィガロの結婚》、《ドン・ジョバンニ》の仕事をしながら、あるいはドミンゴと《オテロ》の準備をしながら、それを会得しました。」

そして今は、ケルビーニ管の若いメンバーたちに教えたいと思うようになりました...
「ピットに入る彼らは、いや、歌手たちもですが、すべてが若い演奏家たちで、私が個人的に選びました。彼らのそばに、ドン・パスクァーレの立場にたって、Claudio Desderiのようなベテランがいることを望みました。一種のチューターとしての彼の後を、一歩一歩進んでいくのです。舞台の世界に落ち着きと規律が必要であるという点から、そういう倫理的なメッセージを伝えるための方式です。この仕事では、若い演出家Andrea De Rosa と、オスカー受賞者である衣装デザイナーGabriella Pescucciのような存在の保証に助けられました。」

どうしてまさに《ドン・パスクァーレ》なのですか。
「まず第一に、愛着があるからです。1971年のザルツブルク音楽祭にウィーン・フィルを振ってデビューした作品です。次に、ドニゼッティの音楽があまりにしばしば、そして不正に軽いものだと考えられているからです。その仕事の中では最高の領域です。オーケストラや歌手の観点からは、名人芸的な素晴らしい節々があります。また、1800年代のオペラのすべての特徴を備えていますが、1700年代のオペラにもまさに根をはっていることは否定できません。実際、リハーサルでは、《フィガロの結婚》と非常に類似したものにでくわしました。」

そういえば、最近、モーツァルトの全作品のDVDがリリースされました。あなたの《魔笛》も含まれています。どう思いますか。
「非常に素晴らしい企画です。けれども、100年ごとにだけなされるといっていいでしょう。祝賀的というよりは、より広く大衆的なできごとであったので、次に再び持ち出されるのがいつなのか誰も知らないような、そんなオペラを出すことも許されたのでしょう。」

今はモーツァルトですが、明日、今後は?
「私は常に、できればヴェルディの全作品を実現したいと思ってきました。けれども、声の障害を考えざるをえませんでした。ストレーレルとスカラ座で《アイーダ》を計画したとき、ふさわしい声の持ち主がまさにいないということが、頓挫に至らせたのです。」

次のヴェルディ行程では何をやりますか。
「2008年のザルツブルク音楽祭で《オテロ》を、2010年にメトロポリタン歌劇場でヴィオレッタ・ウルマナと《アッティラ》を上演します。」

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ストレーレルとの《アイーダ》

後で紹介しますが、14日のAvvenire紙に載ったインタビューでマエストロ・ムーティは、ヴェルディのオペラを上演したくても、ふさわしい声がいないという障害がある、と語り、ストレーレルとスカラ座で《アイーダ》の上演を計画していたけれども、まさにその問題があった、と言っています。

マエストロがスカラ座でストレーレルと《アイーダ》を上演するつもりだったことは、評論家のアンドリュー・クラークとのインタビューで語られ、ストレーレルの書簡集にも載っています。

ストレーレルの手紙は、1992年8月29日付のマエストロ宛、長文のものです。
その中で、アイーダとアモナスロは肌の色の黒い歌手がいいこと、どこまでも続く砂漠の中にピラミッドが二つあるような《アイーダ》を考えていて、後は太陽と月があれば十分であること、凱旋場面には馬やら何やらはいらない、砂漠に黄金の日傘だって?といったふうにマエストロのインタビューにあるようなことが書かれています。

Il Verdi del Centenario
Teatro alla Scala 2003
Giuseppe Verdi, a composer of the future
Riccardo Muti looks back on the Verdi year at La Scala

Lettere sul teatro
Giorgio Strehler
Archinto 2000

インタビューはオペラ誌に掲載されたものが、英伊語両方の形で、”Il Verdi del Centenario”という、ヴェルディ没後100周年を記念して出版された本に、掲載されています。
《アイーダ》の部分を紹介します。

ムーティとストレーレルは、1980年代にスカラ座で上演されたモーツァルトの二つのオペラを通じて、親しくなった。彼らの共通の夢は《アイーダ》で、1997年にストレーレルが亡くなり、実現されることのないままの夢となった。ムーティはストレーレルのアイデアに構想をかきたてられたままでいる。その構想はストレーレルと交わした手紙において共有していたもので、それは現在、この演出家がいろいろな舞台関係者に宛てて書いた手紙の書簡集として、出版されている。ムーティは言う。「ストレーレルのアイデアは、『巨大な愛情模様を描いたオペラ』だというものです。凱旋場面は音楽の中にあり、巨大な装置は必要ありません。《アイーダ》は非常に繊細なオペラなのです。ストレーレルは何枚かの絵を私に示してみせましたが、雰囲気は非常に希薄で、光だけで成り立っているかのような《アイーダ》でした。いや、それがすべてでした。二人の素晴らしい黒人歌手をそろえることさえできれば、上演したいと彼は考えていました。なぜなら、肌の色についての問題は登場人物のキャラクターの一部として必要なのであり、単なるメーキャップではすまないからでした。ストレーレルは聴衆に、どうやってアイーダが美しいアムネリスと競うかを理解してほしかったのです。白い肌の色のアムネリスと黒い肌の色のアイーダということです。」

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Saturday, 23 December 2006

オペラにおける音楽と舞台(2)

14日のスタンパ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの、残りの部分を紹介します。

マエストロ・ムーティはケルビーニ管との《ドン・パスクァーレ》では、ある意味、聴衆を安心させるような舞台と演出で成功しました。イタリアのオペラ事情とは距離を置いているというマエストロが、2008年のローマ歌劇場でどういう演出家と協同するのか、とても楽しみです。
マエストロのサイトでストックホルムでベルイマンと談笑する写真を見て、その興味の広さにあらためて感嘆しました。

2006年12月13日 La Stampa 紙
Il maestro dirige a Ravenna il “Don Pasquale”
“Tabula rasa, prendo una strada nuova”

スカラ座ではブーイングを浴びるケースを見守りました。パルマ王立歌劇場でもですか?
「私はオペラの世界で起きていることにいつも非常に注意を払っています。アルプスの向こうで、《オテロ》がボクシングのリングで展開させられているかどうか、《仮面舞踏会》で寝室の用足し器の上で陰謀に満ちた誘惑がなされているかどうか、知っていなければなりません。演出家の独創性や巧みさは、思いつきのような馬鹿馬鹿しさやこっけいさの中では測れないことを、聴衆や批評家が知ることが大切です。音楽を下卑たBGMもどき、サウンドトラックもどきに矮小化しては、決してなりません。」

それがイタリアであなたを悩ませていることですか。
「今はもう、この国とやや距離をおいています。私はとりわけ、若者たちに働きかける試みを手伝うことに興味を持っています。残された問題についてはいろいろ言われていますが、ある種の問題の解決が、しばしば素人にゆだねられています。」

《ドン・パスクァーレ》とザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の間はどんなふうですか。
「世界中で演奏します。1月からニューヨーク・フィルとの関係が始まります。ウィーンでは、モーツァルト記念年を宗教作品で閉幕させました。3月にはウェストミンスターでロンドンのフィルハーモニア管とヴェルディのレクイエムを演奏します。そして、聖霊降臨祭までには、実際世界中を巡り、日本も含まれています。」

ザルツブルクは2008年にヘルベルト・フォン・カラヤン生誕100周年を祝います。
「私は2012年まで仕事が入っています。けれども、2008年の仕事は特に重要です。ザルツブルク音楽祭にゆかりのある偉大な指揮者の生誕100周年のために、私はウィーン・フィルを振って《オテロ》の新制作を上演し、《魔笛》を再演し、ブラームスのドイツ・レクイエムを演奏します。この作品はカラヤンが最も愛した作品のひとつでした。」

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Wednesday, 20 December 2006

1991年の頃

マエストロ・ムーティがスカラ座で《パルシファル》を上演する準備をしていた頃の記事を、いくつか読んでいますが、その中に、マエストロ・アッバードについてたずねられているインタビューがありました。
同じ質問が5~6年前にもメディアで話題になり、マエストロと当時のフォンタナ総裁が答えていました。
スカラ座新シーズン開幕公演《アイーダ》を聴きに行ったミラノの文化評議員Sgarbiが、スカラ座にムーティもアッバードも戻ってきてもらおう、と語っていました。
いつか、また、きっと...。

質問は、アッバードがスカラ・フィルで振らないのはなぜか、というもので、答えは、何度も手紙を書いてスカラ・フィルに招いている、仕事の予定が詰まっていて時間がとれない、とアッバードは返事をしてきた、これからも、何度でも依頼をする、というもの。
1991年のこの記事では、2000年はじめまで予定がぎっしりで無理だ、とマエストロ・アッバードは返事をした、となっています。
そして、マエストロ・ムーティはマエストロ・アッバードとの関係を問われて、好意的な関係だ、と答えていました。

I nostri rapporti sono cordiali.

こんな時代もあったのだなあ、と遠くを見る想いです。

Panorama 誌 1991年9月8日号 
Stabat pater

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Monday, 18 December 2006

オペラにおける音楽と舞台(1)

14日のスタンパ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。

マエストロが音楽を邪魔するような演出を好まないことはよく知られています。このインタビューでも、イングマール・ベルイマンが1983年にザルツブルクのLandestheaterで演出した、モリエール《ドン・ジュアン》の舞台を例にして、そのことを語っています。マエストロは好きな映画監督としてベルイマンを挙げたことがありますが、その舞台にも関心を持っているようです。
また、スカラ座新シーズン開幕公演の《アイーダ》が、多くのメディアでハリウッド的演出と命名されていることを考えると、スタンパ紙の質問には、なかなか興味深いものがあります。

なお、今日のil Giornale紙によれば、Amici del Loggione del Teatro alla Scalaが、マエストロがスカラ座で1994年に上演した《ドン・パスクァーレ》のビデオを水曜日に上映するそうです。 それなりの意図を持った上映会といえるのかもしれません。

2006年12月18日 Il Giornale 紙
Veronesi «siciliano» Un Natale alla Scala

2006年12月14日 La Stampa 紙
Il maestro dirige a Ravenna il “Don Pasquale”
“Tabula rasa, prendo una strada nuova”

最初からやり直すために、ですが、それはほかにどんな重要な意味を持っているのですか。
「なぜなら、《ドン・パスクァーレ》でもって、1971年に私とウィーン・フィルの関係が始まったからです。そして、Desderiの周りに創られた、歌に関する二つのグループにとって重要なオペラを望んでいたからでもあります。それは、一種のマスタークラスであり、あるいは、歌手が解釈手法の本質について勉強する場である、ということです。」

若者たちと仕事をする意義は...
「非常に大きな喜びです。彼らがこれまで演奏したことのないオペラを、ゼロから築いていくことを意味します。そして、解釈面では非常にむつかしいです。喜劇ではないし、劇ではありません。ドニゼッティはそれを、『風刺劇』“dramma buffo”と定義しました。二つの要素の間のバランスを見つけるのは非常に困難です。アクセント、強弱のつけ方、言葉のつなげ方、演技的な朗唱といった面でバランスをとるわけです。声の洗練された技術が求められます。とりわけ、高い演劇力が必要とされます。私はピアノの前に座って、歌手たちと一緒にあらゆるフレーズ、あらゆる言葉を組み立てていきました。」

モーツァルト風ですか。
「私はいつも、イタリア・オペラがあまりにしばしば舞台の好き勝手さにゆだねられすぎて、オーケストラの重要さが過小評価されてきた、と主張してきました。そうではなく、そう、まさしくモーツァルト的に、声楽と楽器の間の完璧なバランスがとれたコンセプトが必要なのです。」

オペラの重要性が喧伝されれば、多くの人が、あなたの選択にはメッセージがほのめかされていると思うことでしょう。
「ドニゼッティの喜劇性、あるいは部分的喜劇性は、彼の悲劇性、劇性に比べて、常にやや影に隠れていました。ドニゼッティといえば、人は《ルチア》を考えます。少し詳しい人ならば、《アンナ・ボレーナ》を思い浮かべるでしょう。《ドン・パスクァーレ》を思いつくことはありません。それは、究極のオペラのひとつで、彼の英知のすべてが詰まっています。」

ラベンナの後、他の都市へ移動するのですか。
「名前は挙げませんが、既にいろいろなところから招待されています。舞台はわかりやすくて現代的で、情景について明示的なものはわずかで、本質的なとらえ方をしています。」

ある種のハリウッド・スタイル舞台装置への対偶主題ですか。
「イングマール・ベルイマンがザルツブルクで演出した、モリエールの《ドン・ジュアン》を観てください。舞台はシンプルで、間仕切りがひとつに、ふたつか三つのオブジェがあるだけです。でも、演劇としては絶大な称賛を受け、その作品については、ほかの舞台は必要ないといっていいほどでした。オペラでは、音楽面がほかの要素によって圧迫されないことを望みたいと思っています。グラハム・ヴィックと《マクベス》を上演したとき、舞台には立方体しかありませんでした。」

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まっさらな目で見直す

マエストロ・ムーティがケルビーニ管と《ドン・パスクァーレ》を上演するにあたって、まっさらな目で作品を見直すことをモットーにしていたことが、Teatro Alighieriのサイトの次のような記事からわかります。

《ドン・パスクァーレ》については、カラヤンに招かれたザルツブルク音楽祭で1971年に(演出家はチェコのLadislav Štros)、その翌年にフィレンツェで(演出家はSylvano Bussotti)、そしてスカラ座で1994年に(演出家はStefano Vizioli)上演しているけれども、その作品を今回選択したのは、過去へ自信に満ちた目を向けることを意味するのではなく、「新しい道に入っていくために、最初から完全にやり直し、すべてを白紙に戻す」ことを意味する。

この新しい道は、「これまでには考えられなかったような、新たな事柄の発見」を促す歩みでもあります。

同サイトは、さらにプログラムブックに載った、作品解釈に関するマエストロへのインタビューを引用しています。

「《ドン・パスクァーレ》は風刺オペラです。しかし、ドニゼッティの他のすべての作品同様、その喜劇性、風刺性はいつも―このことは少なくとも3倍は強調されていいことですが―メランコリーに深く彩られています。このことがロッシーニとの違いです。それは、ロッシーニがメランコリックではない、というのでもなければ、とりわけ劇的な面や悲劇的な面がない、というのでもありません。けれども、ロッシーニの喜劇には、オーケストラや声の妙技が脈打っていて、それを通じて楽しむことについても配慮がありますが、ドニゼッティはその面では全く異色です。なぜなら、素晴らしい台本によって、ドニゼッティは風刺と微笑を発見したからです。また、《ドン・パスクァーレ》の台本が、音楽を言葉に従わせることができる点で、そして、すべての言葉の深い意味にまさに従うことができる点で、完璧だからです。そのことのためにドニゼッティはわずかな手段とわずかな指示しか費やさず、それでもって、《ドン・パスクァーレ》の場合のように、完璧な劇的手法、ドラマツルギーを備えたオペラを創作できる人なのです。」

2006年12月11日 Teatro Alighieri, Ufficio Stampa
Riccardo Muti dirige Don Pasquale al Teatro Alighieri di Ravenna

http://www.teatroalighieri.org/ufficio_stampa/pagina43.html

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Friday, 15 December 2006

ヴェルディ

マエストロ・ムーティのインタビューが昨日のAvvenire 紙にも載っています。
《ドン・パスクァーレ》についてが主で、ほかのインタビューでも語られていることがほとんどです。
マエストロはヴェルディの上演予定をたずねられて、2008年に《オテロ》、2010年に《アッティラ》だと答えています。後者はオダベッラにウルマナ。
彼女はスカラ座開幕公演でアイーダを歌っていますが、スカラ座にマエストロがいないことを残念に思うと語っているインタビューを、ふたつほど読みました。

マエストロのインタビューは後で紹介します。

2006年12月14日 Avvenire 紙
Muti: «Dirigo i giovani e boccio i cantanti divi»

2006年12月6日 Avvenire 紙
il soprano Violeta Urmana «Grazie all’eroina di Verdi ho trovato la mia vera voce»

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2008年ザルツブルク音楽祭

昨日のスタンパ紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。ケルビーニ管と上演する《ドン・パスクァーレ》がテーマですが、最後に2008年のザルツブルク音楽祭について語っていました。

マエストロは、すでに2012年まで予定がはいっているとのこと。特にカラヤンの生誕100周年記念にあたる2008年のザルツブルク音楽祭は重要で、《オテロ》の新プロダクション、《魔笛》の再演、ブラームス《ドイツ・レクイエム》を演奏するそうです。ブラームスの作品はカラヤンが最も愛したもののひとつだとマエストロは言っています。

マエストロの演奏会、オペラの上演はどれも心待ちにしているものばかりですが、2008年のザルツブルク音楽祭は本当に待ち遠しいです。

インタビューは全文を追って紹介します。

2006年12月14日 La Stampa 紙
Il maestro dirige a Ravenna il “Don Pasquale” “Tabula rasa, prendo una strada nuova”

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Thursday, 07 December 2006

バグパイプ(再掲)―ザンポーニャ

(2006年12月6日午前5時36分の記事です。)

ファミリア・クリスチャーナ誌にマエストロ・ムーティのインタビューが載りました。ケルビーニ管について熱をこめて語っています。
目新しいことは言っていないようですが、ココログのほうで後で紹介します。

ケルビーニ管とナポリ派音楽を演奏する、という文脈から、インタビュアーが、イタリアの楽器、楽団、響きを守らなければならない、とマエストロがしばしば忠告していることに言及し、それに答える中で、バグパイプ・ザンポーニャzampognaの話が出ていました。スカラ座でパイジェロ《ニーナ》を上演したときに演奏された楽器で、その素晴らしさに触れていました。

最後に、モーツァルト記念年について答える中で、最高傑作は《コシ・ファン・トゥッテ》だと話していました。

Famiglia Cristiana 誌 第50号 2006年12月10日号
LIRICA
RICCARDO MUTI DIRIGE L’ORCHESTRA GIOVANILE LUIGI CHERUBINI NEL "DON PASQUALE"
I RAGAZZI DEL MAESTRO

http://www.stpauls.it/fc/0650fc/0650fc91.htm

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Monday, 04 December 2006

Laboratorioによるリハーサル(2)

Il Giorno紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの、後半を紹介します。

11月23日のIl Giornale紙のインタビューでも、この後半部分のように、これまでの自分自身を振り返り、過去熱を入れてきた仕事の現場を少し距離をおいて眺める、という熟考のときを語っています。
こちらも追って紹介します。

2006年11月23日 Il Giorno 紙
In tournee con la Cherubini e' la mia nuova figlia prediletta

ケルビーニ管はあなたの最新の創造物です。『お気に入りの娘』ですが、紹介するときに、母親たちはどう言っているのですか。
「ある意味では、あなたの言うとおりです。有名なオーケストラとたちうちできるオーケストラではありません。現在、年齢だけで構成されている、平均年齢25歳の『若者オーケストラ』です。彼らは素晴らしく、全員を私みずから選びました。とりわけ、イタリアのすべての州を代表しています。実際のところ、ケルビーニ管はプロのオーケストラのすべての資質を備えています。」

あなたほど勉強する指揮者はほとんどいません。あなたほどのレパートリーを持つ指揮者もです。どうして暗譜で滅多に振らないのですか。
「若いときからそうです。今は、楽譜がよくわかっていても、音符と直接関わることを好みます。個人的な取り決めです。一種の共犯関係です。」

今後ムーティが関わるオペラの契約の中には、日本での《コシ・ファン・トゥッテ》(ウィーン国立歌劇場と)、フィレンツェでの《オルフェオとエウリディーチェ》、ザルツブルクでの《オテロ》と《魔笛》、メトロポリタン歌劇場での《アッティラ》、ローマ歌劇場との4年間のプロジェクトがある。コンサートのスケジュールが非常に詰まっているカレンダーには、ウィーン・フィル、ニューヨーク・フィル、フランス国立管、ロンドンのフィルハーモニア管、シカゴ響との契約が見られる。

それでは休息はいつ訪れるのですか。
「プーリアのカステルデルモンテへ行ったときです。そこにトルッロをいくつか買い、整備しているところです。そこでは私は本当に我が家にいる感じで、寛ぐことができます。自分のすべての意義を取り戻し、あらゆる疲れがすっと消え去って行くのです。そこへ行くのは何でもないことです。車で6時間ですから...時速160キロですが。」(一方では、クリスティーナはパンテッレリアでアラブ風の庭園と家ダムーゾの間に、自分の領地を獲得している。訳注:クリスティーナさんは映画の着想をこの島で得ました。)これは、ムーティの《古くからの》夢である。

古いインタビューを読んで、『仕事を見直して再調整する』という考えに再び遭遇する。プライベートな人間としての余地、いくつかの個人的な音楽的企画の余地を残すためであり、しばらく前から熱望されていたものだ。かつてのそこの状態を望む。何年も心に抱いてきた望みである。そのようになったので、すべてがかつて流れていたはずのように行った。そういうわけで、うまくいったのである。

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Sunday, 03 December 2006

Laboratorioによるリハーサル(1)

マエストロ・ムーティは明日4日ラベンナで、《ドン・パスクァーレ》についてピアノを使ってレクチャー・コンサートを行います。

11月23日にいくつかの新聞が《ドン・パスクァーレ》上演について、マエストロのインタビューを載せましたが、そのひとつ、ピアチェンツァで行われたものを紹介します。

2006年11月23日 Il Giorno 紙
In tournee con la Cherubini e' la mia nuova figlia prediletta

くつろいで、微笑み、リッカルド・ムーティはインタビューに応じる心積もりをしている。Municipale歌劇場の舞台でケルビーニ管とリハーサルを行っている。譜面台にはドニゼッティ《ドン・パスクァーレ》(ムーティがオペラを振りにイタリアに戻ってくることを示している)の楽譜と、シューベルト、シューマン、ベートーベンの作品が載っている。シューベルト以下は間近く迫った短いツアーのもので、25日がピアチェンツァ、26日がノヴァーラ、27日がナポリ、28日がパルマとなっている。目標を定めたツアーだ。いちばん特別なのが、ノヴァーラのコッチャ歌劇場で、カンテッリ没後50年を記念するものである。

ムーティはこう言った。「カンテッリ賞は私にとって、根源的な基準をなしています。1967年に優勝してLuciano Alberti とフィレンツェ五月音楽祭創設者 Vittorio Gui の関心を引き、彼は1年後、2回のピアノ協奏曲のコンサートを指揮するために、私をフィレンツェに招きました。独奏者はスビャトスラフ・リヒテルでした。すべての始まりでした。私の職業になったかもしれなかったものへの最後の重しが消えました。父はまだ私が弁護士業に入ることを望んでいましたし、そのための勉強の準備もしていました。しかし、次のこと、つまり、フィレンツェ五月音楽祭管の首席指揮者への命名がもたらされたことを、確認したのです。」

まもなく、イタリアへ戻ってきますが、なぜ、《ドン・パスクァーレ》なのですか。
「作品の美しさは別にして、そのことは時々過小に考慮されていますけれども、私にとって《ドン・パスクァーレ》は『歴史的な』年表を示しています。ザルツブルクで1971年に、ウィーン・フィルでこの作品を指揮してデビューしました。カラヤンに招かれました。この《ドン・パスクァーレ》から後、ザルツブルクには36年間ずっと客演しています。2008年にはカラヤン生誕100周年記念コンサートで戻ります。2007年からはケルビーニ管とザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭に招かれ、私の心に常にあった1700年代ナポリ派音楽の企画を始めます。」

《ドン・パスクァーレ》上演は、しばらく続く予定のプロジェクトに属しているのですか。
「ええ、毎年12月にひとつのオペラを上演するというものです。まずラベンナで、そしてピアチェンツァで上演するもので、夏の音楽祭の『繰上げ』のようなものです。2007年にはドメニコ・チマローザの《カランドリーノの帰還》を上演する予定です。」

Laboratorio演習・工房と聞きましたが...
「私は熱心にがむしゃらに『準備』することの主張者です。私の師Vottoが話してくれたことがあります。Stabileがファルスタッフの準備をしなければならなくなったとき、二人は1年間一緒に勉強し、それからトスカニーニに披露し、トスカニーニはそれを聴いて、こう判断を下したそうです。『非常に素晴らしいです。もう1年、このように続けて進めていきなさい。』現在、リハーサルは見くびられていて、このテーマは私のやり方、私の手段方法でもって実行に移さなければならないと理解しました。したがって、あなたの言うとおりです。Laboratorioではオペラのリハーサルが1ヶ月以上にわたって行われ、それは個人によって世話されるものです。声楽部門はClaudio Desderiが手伝ってくれます。牽引役は有名でも、出演者たちは若いのです。(編集部注:《ドン・パスクァーレ》の主役はDesderi自身で、衣装は2005年オスカー賞受賞者のGabriella Pescucciがデザインする。)

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Saturday, 25 November 2006

マエストロの指揮姿写真

8月13日のレプッブリカ紙日曜版が、マエストロ・ムーティの指揮特集をしていたことはここでも紹介しました。
PDF版で記事のカラー写真は見ていたのですが、9月のはじめにオリジナルを入手することができ、それ以来、インタビューを訳すのもそっちのけで、日々、この宝物を楽しく眺めています。
見開き2ページの紙面では、《魔笛》の楽譜とタクトの写真を中央にすえて、上下にマエストロの指揮姿写真15枚を、そのジェスチャーの意味するところを書き添えて配した、3ページの記事です。写真のタイトルはLa Lezione di Muti。
本当に素敵な記事で、折らずに送ってくれた配慮に心から感謝しているほどです。

演奏会で舞台側の席に座る勇気がなくて、サントリー・ホールのスカラ・フィル来日公演で、チケットを譲っていただいて、一度だけオルガンの真下に身を縮こませて座りましたが、その指揮姿の美しさ、動きの正確さ、無駄のなさに見ほれてしまいました。

(クリスマスも近いので、遠くにいるマエストロを想いながら、がんばって記事を訳します。)

2006年8月13日 la Repubblica 紙
Le mani del maestro

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若い演奏家たちのオペラ(2)

23日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの、残りの部分を紹介します。
《ドン・パスクァーレ》とマエストロのつながりの深さは、スカラ座上演の折りにも語られていました。ザルツブルク音楽祭での上演は何枚かのプライベート盤でも聴くことができます。いつか、同音楽祭の記録として、正規の形でオルフェオからリリースされるよう、願っています。

2006年11月23日 la Repubblica 紙
Il 16 dicembre debutta a Ravenna con il capolavoro di Donizetti. "Prove alla maniera di Strehler e Toscanini"
Muti: un´opera per i giovani
"Don Pasquale" con cantanti ventenni e la "Cherubini"

主演はClaudio Desderiで、非常に老練で経験豊かな演奏家で、歌手たちの間では伝説的な役者である。「彼は感嘆に値する謙虚さでもって、受諾してくれました。」とムーティは話す。「そして、ドン・パスクァーレは大げさな感じで朗々と語り歌うことが必要だし、とりわけ、演劇面ですぐれた芸術性が求められる役ですが、彼は、そういう役を歌うことができる歌手としては、今もって完璧です。歌手たちを技術面や表現面で導きながら、助ける手も私に貸してくれます。」
ムーティと《ドン・パスクァーレ》とのつながりは「36年前になります。この作品でザルツブルク音楽祭にデビューしました。1971年のことで、カラヤンが招いてくれました。それはウィーン・フィルや同音楽祭と絶え間なく続いてきた関係の始まりでした。その後、《ドン・パスクァーレ》をロンドンで録音し、フィレンツェで指揮し、スカラ座でも上演しました。」今、このオペラと再び出会っている。「たくさんの音楽を経験してきた後のこと、とりわけ、モーツァルトの世界を通過した後のことであり、それはこの作品をもっとよく理解するために、決定的なことです。」この作品の外見の純粋さとしっかりとした個性をもった登場人物たちによって、「このように、すべての効果が重なり合うことなく、人生のひとつの物語が再現されるのです。素朴で単純だけれども、短絡的ではなく、豊かな感情にあふれ、その色合いは滑稽さからメランコリーにまで変化していくことができるものです。なぜなら、ドニゼッティには、喜劇的な調子の中にも、いつも悲しみや嘆きの音があるからなのです。彼のほかの作品では、崇高な瞬間でも月並みな、あるいは手順どおりの楽節が交互に現れるのに対して、《ドン・パスクァーレ》はその軽やかさ、優雅さのせいで、モーツァルトの《フィガロの結婚》に直結する流れに位置づけられるような、演劇的音楽的な素晴らしさを持っています。」

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若い演奏家たちのオペラ(1)

23日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。

2006年11月23日 la Repubblica 紙
Il 16 dicembre debutta a Ravenna con il capolavoro di Donizetti. "Prove alla maniera di Strehler e Toscanini"
Muti: un´opera per i giovani
"Don Pasquale" con cantanti ventenni e la "Cherubini"

どうして《ドン・パスクァーレ》なのですか。「なぜなら、重要で桁外れのオペラだからです。滑稽芝居の外観や陽気な騒ぎの頂点の向こうには、音楽と台本の均衡が完璧にとれているということがあります。」とリッカルド・ムーティは言う。「多様性に富んでいて完成されています。生き生きとして俊敏できらめきがあり、それは、オーケストラや歌手たちに、極限の想像力と最大限の柔軟性を要求します。この意味で、若い演奏家たちの集団にたくさんのものを教えることができます。」
実際、若者たちに献身するこのプロジェクトでもって、ムーティはドニゼッティのオペラに戻ってくる。ラベンナ音楽祭によって要望された最高のレベルのlaboratorio試行・研鑽の場で、ラベンナ(《ドン・パスクァーレ》はそこで来月16日にデビューを飾る)とピアチェンツァ(そこへは12月終わりに到達する。一方、スペインやサンクトペテルブルクから既に招聘を受けている)の間で、場所が転換される。
オーケストラは非常に若く、「育成陶冶のための」オーケストラ、『ルイージ・ケルビーニ』といい、ムーティが創設して指揮している。それについてはムーティが、オペラのプロジェクト(次の企画では、5月にザルツブルクでチマローザの《カランドリーノの帰還》を上演する予定である)やツアー(これについては、25日のピアチェンツァに始まり、26日はノヴァーラ、27日はナポリターノ大統領が列席するサン・カルロ、28日はパルマという行程である)を通じて、熱心に彼らの境遇を鍛えあげている。歌手たちは若く、「全員が20代、30代です。」すでにスカラ座の《ファルスタッフ》でムーティと共演しているLaura Giordanoに始まり、Mario Cassi 、Francisco Gatellといった歌手に至る。演出家は若者で、Andrea De Rosaといい、舞台に『額縁』の着想をもちこんでいて、歌手たちはそこに入ったり、そこから出たりする。それは劇と人生の間を一種の諧謔でとらえるものである(衣装はオスカー受賞者Gabriella Pescucciがデザインする)。若さと「考え、試行するための」時間がたっぷりあることは、リハーサルで感じられる陽気な雰囲気である。そこでは「綿密な仕事をすることができるし、奥深いところへ到達でき、言葉を掘り下げることができます。」とムーティは説明する。「歌手やオーケストラとは初日の40日前から仕事を始めています。それはストレーレルやトスカニーニの手法を再現するためで、長い時間がたつうちに、このように必要であろうとされながら、もはや使われていない手法です。」

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Friday, 24 November 2006

マエストロの休息

昨日Il Giorno紙のインタビューを読んでから、ずっと考えていたことがあります。マエストロ・ムーティにはひとりだけになれる聖地があり、そこには誰も立ち入ってはいけないし、マエストロをそっとしておかなくてはいけないのだなあ、と思いました。
でも、そこの静寂の中で夜空を、満天の星を、美しい月を見てみたい、とも思いました。

2006年11月23日 Il Giorno紙
In tournee con la Cherubini e' la mia nuova figlia prediletta

休息はいつ訪れるのですか。
「プーリアのカステルデルモンテへ行ったときです。そこにトルッロをいくつか買い、整備しているところです。そこでは私は本当に我が家にいる感じで、寛ぐことができます。自分のすべての意義を取り戻し、あらゆる疲れがすっと消え去って行くのです。そこへ行くのは何でもないことです。車で6時間ですから...時速160キロですが」

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Thursday, 23 November 2006

南イタリアの人間としての自負

マエストロ・ムーティのインタビューがIl Mattino紙にも載っていました。
ここでは、《ドン・パスクァーレ》のほかに、ナポリについても語っていて、その強い郷土愛、南イタリア出身であることへの誇りに、胸を打たれました。

1799年ナポリ革命でパルテノペ王国を樹立させ、さらにさかのぼれば、フェデリコ2世もその源にある、重大な責務を負ってきた南イタリアの人間であることを主張するマエストロは、今のナポリについて、偉大な文化をもつナポリ、ヨーロッパの真の中心としてのナポリを推進することに戻るべきで、カモッラや暴力、失業ともそのようにして闘う、と語っていました。

2006年11月23日 Il Mattino 紙
«Napoli violenta? Si combatte con la cultura»

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インタビューの洪水!

今日は、3紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。
嬉しい悲鳴をあげながら、読みました。《ドン・パスクァーレ》の開演が近づいているからでしょう。マエストロは微笑し、くつろいだ様子でインタビューを受けているそうで、今の状態に満足しているのがうかがえます。

Il Giorno紙には今後のマエストロのオペラの予定として、ウィーン国立歌劇場の来日公演で《コシ・ファン・トゥッテ》、フィレンツェで《オルフェオとエウリディーチェ》、ザルツブルク音楽祭で《オテロ》と《魔笛》、メトロポリタン歌劇場で《アッティラ》、ローマ歌劇場での4年間のプロジェクトとあります。《魔笛》はおそらく再演でしょう。
また、以前、2008年ザルツブルク音楽祭のカラヤン生誕100年記念コンサートのことを紹介しましたが、上記インタビューでは自分がそれを指揮するとマエストロは語っています。やはりそうか、と正式発表が待ち遠しく思われます。
また、暗譜で指揮しないことについて、若い頃からそうしている、頭にはいっている楽譜でも、楽譜とつながりながら指揮するのが好きだ、と語っていました。マエストロは指揮しながら本当に器用に楽譜をめくっていますが、ときどきまとめてばばばっとめくったり、めくり戻したりしていて、楽譜がしっかり頭の中に刻み込まれているのがとてもよくわかります。

2紙のインタビューも後日紹介します。

2006年11月23日 Il Giorno 紙
Piacenza, Intervista
In tournee con la Cherubini e' la mia nuova figlia prediletta

2006年11月23日 Il Giornale 紙
Muti: «Vedo in giro troppa fretta Preferisco starmene in disparte»


2006年11月23日22時10分追記

Il Giornale紙の記事PDF版には、《ドン・パスクァーレ》リハーサル中にオーケストラのメンバーと話している写真(資料写真?)と、舞台装置の写真が添えられています。レプッブリカ紙と同じものです。

http://www.ilgiornale.it/a.pic1?ID=135868&START=0

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念入りなリハーサル

今日のレプッブリカ紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

ケルビーニ管と上演する《ドン・パスクァーレ》について語っていて、20代、30代の若手歌手(Desderiは別)とケルビーニ管によるリハーサルは40日も前から始められていて、ラベンナ、ピアチェンツァでの上演のほか、スペインやサンクトペテルブルクからも招聘がきているそうです。

追って紹介します。

スカラ座のシーズン開幕12月7日(マエストロが心に懸けていた《アイーダ》の上演!)が近づき、マエストロのファンとして、その頃にウィーンのマエストロの元へ行けないのは本当に情けないことですが、せめて、《ドン・パスクァーレ》のリハーサルの成功を祈ることで応援したいです。

2006年11月23日 la Repubblica 紙
Il 16 dicembre debutta a Ravenna con il capolavoro di Donizetti.
"Prove alla maniera di Strehler e Toscanini"
Muti: un´opera per i giovani
"Don Pasquale" con cantanti ventenni e la "Cherubini" Quest´opera esige fantasia e flessibilità.
Può insegnare molto a un gruppo di interpreti ancora in erba

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Wednesday, 22 November 2006

バズ・ラーマン

昨日紹介したように、今年の1月から10月の間、海外の新聞でマエストロ・ムーティに触れた記事が多かった理由のひとつは、おそらく、ローマ国際映画祭で開幕コンサートを指揮したことでしょう。
マエストロへの直前のインタビューがレプッブリカ紙にも載っていましたが、そこでマエストロが熱っぽく称賛していた映画を、やっと観ることができました。
バズ・ラーマン監督の《ムーラン・ルージュ》です。
マエストロによれば、バズ・ラーマンは非常に音楽的な監督で、衝撃的であり、ザルツブルク音楽祭での《オテロ》の演出家には、彼のような人を考えている、とのことです。

2006年10月9日 la Repubblica 紙
Riccardo Muti aprirà con musiche di Rota la Festa di Roma

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Sunday, 12 November 2006

《コシ・ファン・トゥッテ》1983年上演

マエストロ・ムーティが1983年にザルツブルク音楽祭で上演した《コシ・ファン・トゥッテ》のDVD日本盤は、解説も興味深いものです。
このころのマエストロに対する日本での評価は、今に比べればまことに低いもので、この上演も、忘れられていたといってよいでしょう。
解説とともにこの上演映像に接した人が、1980年代のマエストロについても再度見直してくれれば、とても嬉しいです。

歌劇《コシ・ファン・トゥッテ》
1983年8月ザルツブルク音楽祭
指揮 リッカルド・ムーティ
TDKコア
解説 吉田光司

解説ご担当の吉田さんからは、リブレットについての興味深いご指摘もいただきましたが、そのことは、またあらためて書きたいと思います。

解説でも紹介されていたザ・タイムズ紙寄稿者のNigel Jamiesonが、1991年のOpera Now誌でもマエストロ・ムーティにモーツァルトをテーマにインタビューしていて、同じようなことも話していますが、追って紹介します。
マエストロのオペラを海外で聴いた経験の少ない者が、言うべきことではないかもしれませんが、マエストロにはもっともっとオペラを指揮してほしい、それを現地へ行けなくても、放送でいいから、聴きたい、と心から思います。

Opera Now 誌 1991年1月号
Bringing Mozart back home to Italy

(この記事に続きはありません)

Continue reading "《コシ・ファン・トゥッテ》1983年上演"

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Sunday, 05 November 2006

アルモドバルに《コシ・ファン・トゥッテ》を―映画への情熱(5)

マエストロ・ムーティがスカラ座での《コシ・ファン・トゥッテ》の演出にアルモドバルを考えている、というインタビュー記事を数年前に読んだとき、マエストロの映画嗜好にとても興味を覚えました。いつか、実現することがあれば、どんなにか素晴らしいことでしょう。
マエストロの女優の好みについては、(わたしはキャサリン・ヘプバーンが大好きなのですが)、とても面白く、でも、ああ、男性として本当に普通の好みだなあ、とも思いました。

Corsera 紙の記事の残りの部分を紹介します(記事中、マエストロとロータの出会いの部分はよく知られていることなので、割愛しました)。

2006年10月9日 Corriere della Sera 紙
Da Fellini ad Almodovar, passioni per il cinema

ラシェルとドライヤーはリッカルド・ムーティのお気に入りの監督だが、際立った組み合わせである。「実際のところ、彼らは私の性格の二面性を反映しています。公けの場では生真面目、私的な場ではふざけ好き、というようなことです。ラシェル、ドライヤー、トト、ラース・フォン・トリアー。そして、アルモドバル...すべて私の大好きな監督です。アルモドバルには《コシ・ファン・トゥッテ》の上演舞台を依頼しましたが、その企画は無に帰しました。とても残念なことです。彼なら、モーツァルトの陽気なエロティシズムや、モーツァルトが多く備えている二重の意味合いに完璧に合っているからです。」
エロスに関しては、映画は周知のとおり、夢とラブストーリーの坩堝である。マエストロ、あなたのdesideri、 desireの対象は誰でしたか。「キム・ノバクとエヴァ・ガードナーです。映画界でいつの時代においても最もセクシーなブロンドとブルネットです。」

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Saturday, 04 November 2006

モルフェッタの映画館―映画への情熱(4)

Corsera 紙のインタビューによれば、マエストロ・ムーティはモルフェッタの映画館ではじめて映画に出会い、ロータによってサウンドトラックの大切さを教えられます。マエストロのディスコグラフィーを眺めると、そのことにあらためて気づかされます。

マエストロの国イタリアを知りたくて、衛星放送が普及する前は、NHKの教育テレビでたくさんのイタリア映画を観ましたが、マエストロもそういった映画を観ていたことをこのインタビューで知りました。
マエストロが自分の少年時代を想い出した《ニュー・シネマ・パラダイス》は、後年の付加部分のない版のほうは、本当に心に染み入るような映画でした。

2006年10月9日 Corriere della Sera 紙
Da Fellini ad Almodovar, passioni per il cinema

「私はレナート・ラシェルの映画”Alvaro piuttosto corsaro”をモルフェッタで観ました。うらぶれた感じの劇場のひとつで、それらにはアポロとかオルフェオといった名前がついていて、名前だけは立派でした。でも、中にいたのはまさしく労働者階級でした。バルコニーにいる子供たちは、カボチャの種を一等席の若者たちによく吹きつけたもので、時には彼らの上に放尿さえしました。大人はみんな劇場後部に立って、煙草を吸っていました。後年、映画《ニュー・シネマ・パラダイス》を観たとき、自分の子供時代の雰囲気を完璧に想い出しました。」

「あるとき、ロータは《戦争と平和》の映画を観に連れて行ってくれました。サウンドトラックは彼が担当していました。そのとき私は、映画音楽がどれほど美しく響きうるか、また同時に、映画にとってどれほど決定的なものになりうるかに気づきはじめました。過去から現代までの作曲家たち、ロータ、プロコフィエフ、ショスタコービッチ、ヴァッキといった人たちがそれを証明しています。」

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Tuesday, 31 October 2006

マエストロとフェリーニ、ヴィスコンティ―映画への情熱(3)

マエストロ・ムーティとフェリーニのつながりを、先日のCorsera 紙のインタビューではじめて知りました。
また、マエストロは今ちょうどフィラデルフィアを訪れている頃でしょうが、そのフィラデルフィアでも映画との出会いがあったことが、この記事からわかります。《エル・ニド》に感動していたとは、マエストロの新たな面を知ることのできる驚きでした。わたし自身は、むしろ《シベールの日曜日》を観たときの痛切な孤独感がいまだに忘れられないのですが、マエストロの感動はどこの部分だったのだろう、ととても興味をひかれます。

2006年10月9日 Corriere della Sera 紙
Da Fellini ad Almodovar, passioni per il cinema

ロータはマエストロをフェリーニに紹介したそうです。

「彼を非常に尊敬していましたから、オペラを演出する機会を彼に申し出たのですが、フェデリコはただ頭を振るだけでした。『歌われているせりふをどう扱えばいいのか、わかりそうにありません。』とのことでした。」

マエストロの心情に最も近いイタリアの映画監督は、フェリーニとともにデ・シーカ、ヴィスコンティだそうです。

「ヴィスコンティの《若者のすべて》は、私が南イタリア出身であることから、ずっと共感するものがありました。デ・シーカの《自転車泥棒》にはいつも感動します。」

けれども、マエストロに大きな影響を残したのは、マエストロが言うには、ドライヤーの苛酷で苦悩に満ちた《怒りの日》でした。

「16歳のときにその映画を観て、驚きました。1980年代にフィラデルフィア管を指揮していた頃、再度観ました。大学のフィルム・ライブラリーの館長のおかげです。彼は私の映画への熱意を知り、ドライヤーの映画をもう一度観られるよう、招いてくれたのです。そして、他の素晴らしいオランダの映画監督の作品も一緒にすべて観せてくれました。スペインの映画監督ハイメ・デ・アルミニャンの《エル・ニド》という、もうひとつの傑作をそこで知りました。主人公が、彼は郷士といってよいでしょうが、イマジネーションの中のオーケストラでハイドンの《天地創造》を指揮しながら、森の中をはねまわる場面は、忘れられません。」

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Wednesday, 25 October 2006

ドライヤーの《怒りの日》―映画への情熱(2)

マエストロ・ムーティが16歳のときに観て、大いに驚かされたドライヤー監督の映画《怒りの日》は、マエストロに大きな影響を残したそうです。

そして、ラシェルとドライヤーが好きなことは、マエストロの二つの性格、公けの場ではきまじめ、プライベートではふざけるのが好き、という二面を表しているとのことです。

Corsera 紙のインタビューでは、マエストロは自分の性格も分析していたのでした。

2006年10月9日 Corriere della Sera 紙
Da Fellini ad Almodovar, passioni per il cinema

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Tuesday, 24 October 2006

マエストロがはじめて観た映画―映画への情熱(1)

マエストロ・ムーティがローマ国際映画祭開幕記念公演を前にして、イタリアのメディアで映画について語っているのを、とても興味深く読みました。

特に、9日付Corsera 紙のインタビューは、マエストロの別の面、映画好きの面や少年時代を知ることができて、嬉しく思いました。

旅行先のウィーンで記事を読んでいたので、店で本やビデオを探したのですが、思うように見つけることができず、ああ、これがイタリアだったら、と本当に無念な想いでした。
マエストロがはじめて観た映画は、レナート・ラシェルの出ていた冒険喜劇ミュージカル、 ”Alvaro piuttosto corsaro” だそうです。
マエストロは、そこに出てくる有名なギャグを口にして、くすくす笑ってみせたと記事にありました。

「船長、モンスーンがやってきました」
「それがどうした?我々は40人いれば勝てる」

Capitano, arrivano i monsoni!
E allora? Sono solo venti... Fossero anche quaranta, li sconfiggeremo.

モンスーンは風、venti 20なので、quaranta 40いれば、しのげる、というギャグです。

マエストロは当時少年で、すべてを諳んじていて、Piccolettoと一緒に 「嵐がやってきた...」E' arrivata la bufe-era...と歌っていた、と語っています。

レナート・ラシェル Renato Rascel 本名 Renato Ranucci といえば、児童文学も有名です(というよりも、児童文学のほうしか、最初、わかりませんでした)。
マエストロのおかげで、また新しいイタリアの扉を開くことができました。
1953年(1954年?)制作といわれる、この映画のビデオを是非入手したいです。

2006年10月9日 Corriere della Sera 紙
Da Fellini ad Almodovar, passioni per il cinema

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Friday, 20 October 2006

ザルツブルクでの《コシ・ファン・トゥッテ》

Bruno Vespaはマエストロ・ムーティにいろいろなメディアでインタビューしていますが、1996年のインタビュー記事をまたひとつ読みました。
その中で印象深かったのが、もうすぐDVD国内盤が出ますけれども、ザルツブルク音楽祭での《コシ・ファン・トゥッテ》について語っていたことでした。

インタビュー当時、もうすぐ55歳になるマエストロが自分のキャリアを振り返り、最も感動したことを語るとすれば、1982年にさかのぼる、として、次のように発言しています。
「モーツァルトの《コシ・ファン・トゥッテ》を指揮するよう、カラヤンが私をザルツブルク音楽祭に招いたことです。イタリア人が招かれたのは、トスカニーニの後、はじめてのことでした。カール・ベームはこの作品について伝説的な上演を行っていました。それにもかかわらずカラヤンは、今回は何か違ったものを、と言ったのでした。」

記事に添えられたたくさんの写真の中には、マエストロのスカラ座での10周年を祝う、ファンの横断幕の写真もありました。そこにはこう書かれています。

Per questi 10 ANNI, GRAZIE M°MUTI!

マエストロはスカラ座をとっくに後にしてしまっていますが、わたしは、20周年をお祝いしたかったような、でも、しなくてよかったような、複雑な気持ちをまだ抱えています...。

Chi 誌 1996年4月19日号
Riccardo Muti
Il suo amore per la Scala

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Monday, 09 October 2006

"Nuovo Cinema Paradiso"

Maestro Muti's interview in today's issue of Corsera is very, very interesting!

According to Corsera, when he saw the cinema, "Nuovo Cinema Paradiso", it reminded him of his childhood.

This cinema is my favourite, too, Maestro!!

Maestro Muti also says his idol actresses were Kim Novak and Ava Gardner.

"la bionda e la bruna più sensuali di tutti gli schermi"

Oh, my!

I will translate this article into Japanese later.

Corriere della Sera, 9 October 2006
Da Fellini ad Almodóvar, passioni per il cinema»

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memories of Rota

Maestro Muti talks about the memories of Rota and the Italian cinema in today's issue of la Repubblica.

I would like to translate it in Japanese later.
I am very much sorry that Maestro Muti's "Cosi fa tutte" with Almodovar did not realize at La Scala.

la Repubblica, 9 October 2006
Il maestro sarà giovedì sul podio dell´Opera. "Il cinema l´ho scoperto a 16 anni grazie ai film di Dreyer"
"Quando Almodovar mi disse no"
Riccardo Muti aprirà con musiche di Rota la Festa di Roma

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Wednesday, 20 September 2006

気鋭の人たちの評価が嬉しい

9月(《マノン・レスコー》、《モーゼとファラオ》)、10月(《コシ・ファン・トゥッテ》)と続けてマエストロ・ムーティのDVDが日本でもリリースされます。
そのディスクにまっすぐ向き合っている評価が読めるのを、とても興味深く思っています。

プッチーニ 《マノン・レスコー》
TDK CORE
1998年6月11日ミラノ・スカラ座におけるライブ収録

『歌劇《マノン・レスコー》曲目解説』の、「スコアに忠実と評されるムーティだが、この映像でも彼の真摯な姿勢は明らかであり」、「彼が歌い手の呼吸や間を重んじる姿も目立っている」といった部分を、とても嬉しく読みました(解説は岸純信さん)。

ちょうど、マエストロの1977年のインタビューを読んだばかりで、その中で語っている指揮者観、自己省察をとても面白く思っていたところでした。

「指揮者は専制者ではありません。そうではなく、スコアを勉強するときには、研究にたっぷり時間をかけ、夢想するのであり、聴衆に自分の考えたことの成果をもたらすことについて責任を負うのです。指揮者はオーケストラや歌手たちを、自分の解釈を実現させるために活用しなければならず、彼らと妥協することはできません。けれども、私はオーケストラや歌手たちとトラブルを起こしたことは一度もありません。私はエキセントリックな人間ではありません。ごく普通の人間です。けれども、おそらく現代ではそのことこそがエキセントリックなのです!」

Radio Times 誌 1977年7月23日号
Neapolitan flavour

2006年9月24日9時10分追記
レコード芸術誌上の《モーゼとファラオ》の紹介記事については、「書籍・雑誌」のカテゴリーとしてブログ上分けて、公開時間を1分遅らせました。

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Sunday, 10 September 2006

Ragazzo, devi dare l'anima.

6月のW杯ドイツ大会がはるか過去のことのように思えます。イタリアのナショナルチームAzzurriの選手たちの大会後のバカンスの様子が載ったイタリアの写真誌で、マエストロ・ムーティの誕生日に近い号に、マエストロへのインタビュー記事が載っていました。
マエストロはフィレンツェ五月音楽祭管とスペインを訪れましたが、その際にスペインの新聞に長文のインタビューが載り、その内容はここでも簡単に紹介しました。そのインタビューの一部がイタリア語訳されて、上記雑誌に掲載されたのです。ちょっとびっくりしました。
追ってあらためて紹介します。
マエストロのお父さんDomenicoさんは医者で、17年間マエストロに繰り返し、大人になること、大人の男になることへの「処方箋」を聞かせてきたそうです。
Ragazzo, devi dare l'anima.
マエストロは音楽にいつも心身を捧げつくしてきました...。

(インタビュー記事の紹介を随分ためてしまいました。日本語に直すのはファンにはとても楽しいことなので、かたつむりの歩みであるとしても、がんばります。)

OGGI 誌 2006年7月26日号
La Scala e' lontana, ora penso ai giovani
El Cultural - El Munde 7月6日
Riccardo Muti “Después de salir de la Scala me siento felizmente libre”)

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Sunday, 20 August 2006

指揮について語る(1)

13日のレプッブリカ紙日曜版に載った、指揮に関するマエストロ・ムーティのインタビュー部分を、何回かに分けて紹介します。

音楽に集中してくると、指揮の身振りで解釈を伝えることが煩わしく思えることがある、精神、魂のようなもので伝えられたらいいのに、と語っていたマエストロですが、ガンダムに夢中になったファン(ただし、ファーストガンダム、《Zガンダム》、《逆襲のシャア》までのファンですが)としては、思わず、ニュータイプの創造する世界を思ってしまいました...。

2006年8月13日 la Repubblica 紙
Gesti da maestro

「出発点は身振りがどう機能するかということですが、身振りは常に手段であるべきで、目的であってはいけません。ところが、一方では、残念ながら、目下しばしばそのようになってしまっています。オーケストラに対しては、身振りの柔軟性、表現性を通じて解釈についての考えを伝えるメッセージが、発せられています。解釈に関しては、響きやフレージング、音色についての解釈はリハーサルで指揮者によって既に説明され、要求されています。腕は精神の延長の役割を果たしています。このように私は師であるアントニーノ・ヴォットーから教わりました。彼はトスカニーニの元で長い間仕事をしていました。」

右腕はリズムを刻み、左腕は表現するといわれています。この枠組みについてあなたはどう実践していますか。
「そのような分担は大方において受け入れ可能です。けれども、絶対的な法則として採用することはできないでしょう。両利きのように、両腕を非常に簡単に操れる指揮者もいます。その場合は、リズムを明確にすることが、時には右腕に、またある時は左腕にゆだねられることがありえます。ある人たちは、演奏中に、指揮棒を片方の手からもう片方の手に移します。時には、荒々しい和音や力強い響きを持とうとして、両手を合わせて拳で指揮棒を持ち、剣のように振り回す人もいます。」

したがって、前もって決められたことは何もないということですか。
「決められたことは何もありません。ある法則から出発して、対照的なことをすることも可能でしょう。強い視線をもった目だけで指揮することもできるでしょう。ブラームスの交響曲第4番を始めるにあたって、アウフタクトlevareはどう指揮しますか。学校では誰も教えられないでしょう。オーケストラを指揮するのは理論であり、また理論でないのです。正確に指示することに基礎をおきながら、同時に非常に曖昧な活動です。厳格な法則にのっとりながら、個人個人の解釈に対して開かれています。1600年代のリュリがやったように、あるいはトトがその映画で見せたように、上下の垂直な身振りで、ステッキを使って拍子を刻むことから出発して、何世紀もの間に、楽団を指揮することのしきたりはできあがっています。4拍子のリズムをある様式で刻む技術、3拍子のリズムを刻む様式、2拍子のリズムを刻む様式などなどの技術は決められてきました。世界中のオーケストラは、コペンハーゲンからシドニーまで、バンクーバーからブエノス・アイレスまで、ニューヨークからローマまで、4拍子のリズムの身振りについて、まず最初に指揮棒を下に振り、二番目は左に、三番目に右に、四番目がアウフタクトとなって、十字を描くようにし、次の拍子を再度始める、という合意があることを知っています。」

したがって、指揮には共通の出発点があります。リズムを刻むということです。
「ミラノ音楽院のオーケストラ指揮のコースで、ヴォットーはほんの数分、次のように我々に説明しただけでした。4拍子はこう振る、3拍子はこう、2拍子はこう。5拍子はリズムの細分化に応じて、2拍子プラス3拍子、あるいは3拍子プラス2拍子となりえると。そして、付け加えました。諸君、これでこのコースはおしまいです、残りはあなたがた自身が、実際の壁を前にして、判断に悩みながら、打開し、体験していかなくてはなりませんと。けれども、バイオリン奏者やピアニストは部屋にこもって、技術的な困難さを克服するまで、何時間、何日間、何週間、何年とある楽節を繰り返すのに対して、指揮者は常に100人からの人たちと練習する必要があります。私の仕事には本来的に暗黙の矛盾があり、それはこうです。理論上は、オーケストラに対してこうせよと言わなければなりませんが、実際は、どうすればいいのかをオーケストラによって教えてもらわざるをえないのです。」

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Sunday, 13 August 2006

指揮について語る

今日のレプッブリカ紙の日曜版に、マエストロ・ムーティの長いインタビューが載っています。指揮について語った、とても興味深いものです。
マエストロの指揮姿の写真が、どういう指示かのキャプションをつけて何枚も載っているのも、面白いです。

指揮者の国別系列化には懐疑的。指揮者には、カルロス・クライバーの定義に従って言わせてもらえば、3タイプある。ドライバー型、メカニック型、ドライバーでありメカニックである型。ドライバー型は他の人が用意したオーケストラを操作するだけ、メカニックは説明はできてもコンサートは成り立たない、ドライバーでありメカニックであるタイプだけがいい指揮ができるが、現在はほとんどがドライバー型の君臨タイプ。指揮者は音楽に深くはいりこむにつれて、ジェスチャー、指揮の動きが煩わしくなる。精神的なもの、心的なもので伝えられないものかと思う。指揮台上で完璧に満足したことはない。自分の望んでいることを100%実現するのは不可能だ。

このようなことを語っています。これまでにも、マエストロのこういう考えを紹介してきましたが、あらためて深く感嘆しながら読みました。

追って紹介します。

マエストロ・ムーティはこのインタビューをはじめ、映像番組やインタビュー記事でトトに触れたことが何回もあり、どんな映画なのか、どういう俳優だったのか知りたくていくつかDVDを購入してきましたが、言葉はわかりません!でも、面白さは伝わってきます。
イタリア語がすっと苦もなくわかる日を、早く迎えたいです...。

2006年8月13日 la Repubblica紙 La Domenica
Il codice Muti, le mani del maestro

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Sunday, 06 August 2006

モーツァルトと神への畏敬

7月29日のイタリアの新聞に載った、マエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。

音楽家は天上への憧れ、神への畏敬を常に心に抱き、最後には天、無限性の世界、超越性の世界へ戻っていくのだろうか、と思って、心がしん、と静まり返ってしまったインタビューでした。

わたしの中では、1981年来日公演ではじめてその姿に間近に接したときの、アポロンのような、それでいて繊細な感じの青年(といっても、39歳だったのですが)の姿が、強烈な印象とともに残っています。でも、音楽家として、若い世代へ苦言を呈するまでの人になったのだなあ、と本当に感慨深いです。

2006年7月29日 Avvenire 紙
INTERVISTA AL MAESTRO
Muti: «Ora sono libero di vivere la musica»

受け取れうる限りの最も素晴らしい誕生日の贈り物は、ザルツブルク音楽祭でウィーン・フィルを率いて《魔笛》を指揮すること。リッカルド・ムーティは昨日、65歳に達し、今夜、モーツァルトの最高傑作のためにオーストリアの指揮台に立つ。ザルツブルクではムーティは身内同然だ。「1971年に《ドン・パスクァーレ》を指揮してから36年間、ここに戻ってきています。」こう語るマエストロは、2008年にはヴェルディの《オテロ》に取り組む。それは最後に指揮したのがカラヤンである傑作だ。「モーツァルトをやると我が家にいるかのように感じます。でも、ヴェルディなら、ホームグランドです。」このようにマエストロは言い、8月6日にはウィーンのホーフムジークカペレの指揮台に登り、フェッラゴストの祝祭期間に渡って3回ウィーン・フィルを指揮し、モーツァルトの音楽とFabio Vacchiの新しい作品Giusta armoniaを演奏する。

マエストロ・ムーティ、今年ザルツブルク音楽祭で指揮する唯一のイタリア人指揮者であることにはどんな効果がありますか。
「もちろん、非常に喜ばしいことです。けれども、私だけがイタリアを代表しているという事実は、我々の祖国がどのように見られているかについて、長くこう語られていることを意味します。我々イタリア人は自分達のとりでの中に閉じこもって、自分たちがどれほど素晴らしいかを語りあっていますが、そうこうしているうちに、世界は我々なしで進んでいっているのです。幸いなことに、冒険精神に満ちた、意欲的な隠れた大きな動きや、このように文化を存続させようとするイタリアのあらゆる独創性が、制度の埒外にも存在しています。」

あなたは、スカラ座を去る前、昨年までは組織の中で生きていました。
「私は常に戦っていました。事態を変えられたら、と考えていたからです。進まない様子を見ながら、政治の主義主張にこだわることなく、すべての文化相を批判しながら、いつも自分の意見を聞かせていました。」

あなたにとって犠牲を伴う選択でしたか。
「私の生き方と首尾一貫した態度です。政治的な強権側やロビーイスト、サロンに参加したことは一度もありません。私はいつも全く独立した気概を持ってきました。それは、時として、頑固さや傲慢さだと思い違いされました。また、常に自由を持ち続けてきました。毎日そのことで、この世界に住んでいる小文字で始まる多くのsignoreに対してではなく、Signore神に感謝の言葉を述べさせてもらっています。」

現在多くの歌劇場があなたに音楽監督を、と申し出ていますが、あなたは感謝しながらも断っています。
「27歳のときにフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督になりました。その後、同じ職を、ロンドン、フィラデルフィア、ミラノで再び引き受けてきました。常に深い情熱と熱心さで仕事をしましたし、プロとしての関係を超越してきました。真の音楽監督とは、必要とあれば、厳しく、愛情をもって接する父のようなものだと考えていたからです。今私は、音楽の喜びを味わうために音楽を演奏する、最高の喜びを楽しんでいます。」

あなたを招聘しているところへ行くことについては...
「確かに、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場から招かれたばかりです。2009年にメトではじめて指揮する予定です。ヴェルディ《アッティラ》を選びました。ニューヨークのその歌劇場では一度も上演されたことのない作品です。」

もしも音楽家になっていなかったら、リッカルド・ムーティはどんなふうになっていたと思いますか。
「私は5人兄弟です。医者、大学で経済を修めた者、二人の双子は技師です。父は私には法律を修めることを考えていましたが、ナポリでいわれている「勝ち目のない訴訟のために弁護すること」はやめたのです。子供のころは、宇宙旅行について語られ、遠い世界への探究者として将来を夢見ていました。そして、求めてもいなかった偶然の一致が続き、私の人生はここ、音楽に到達したのです。」

今、あなたにとってこの芸術活動はどういう意味がありますか。
「歳月を経るにつれて、芸術家である私たちが属している無限性というものをめぐる切迫感、私たち芸術家がそれをめざして旅している無限性をめぐる切迫感が、ますます頻繁に感じられるようになっています。私の日々は、ゆっくりと黄昏色を帯びてきています。偉大な作品についての私の解釈には必然的にあこがれの気持ちがあり、それを私は賞味していますし、音楽は、超越性をめざす私の旅に同行する船のようになっています。激しい軽蔑感をもって無神論を宣言するような指揮者たちが理解できません。神は存在しないと断言しながら、どうやってモーツァルトの《レクイエム》を指揮するというのでしょうか。」

モーツァルトの登場人物で最も近いと感じるのは誰ですか。
「特にこれが、といったものはありません。モーツァルトはそのすべての登場人物を通じて、人間の状況を語っています。道徳家を演じているのではなく、日々の、平凡でさえある状況を語りながら人生を描写し、我々を天上へ連れていくのです。」

最も緊密感を覚える作品のタイトルは?
「《コシ・ファン・トゥッテ》です。ヴェルディの《ファルスタッフ》のように、ある隠喩をみごとに要約しています。劇場は人生のようであり、人生は劇場のようである、というメタファーです。」

あなたの立場にある若い世代に望むとしたら、どんなことですか。
「音楽に鍛錬と厳格さが戻ることがあれば好ましく思います。今日では無視されている二つの言葉です。オペラがだめになっています。若い指揮者たちがほとんど勉強しないからです。とりわけ、舞台のほこりの中で呼吸していません。演出家によるリハーサルに通った、過ぎ去った時間を思い出します。ピアノを弾きながら歌手達とどれほどの時間を過ごしたかも思い出します。今日では事実上、失われてしまった実践です。すべてを早く、という規則が支配しているからです。50歳になるまでは指揮者が取り組むべきではないようなタイトルの作品を、若い指揮者たちが指揮しているのを見かけます。」

悲観的になりすぎてはいないのですか。
「でも、大きな歌劇場の状況はこんなふうです。けれども、音楽を愛する人生を送りながら仕事をしている市民達を信頼しています。合唱団、楽団といった組織は大きな財産だと思っています。そこでの経験はテレビを通ることはありませんし、政治たちの関心をひくことはありませんが、音楽の将来に対する希望を象徴しているといっていいでしょう。」

モーツァルトの記念年を世界中が祝福している様子については満足していますか。
「当初は、私の願いはヴェルディ記念年についてのものと同じように表明されました。モーツァルトのような音楽家が、2006年の我々に対して何が言えるのかを理解する機会となりうるように、という願いです。けれども、ヴェルディのときに起きたように、状況は質の面ではなく、量の面で準備されています。来年は、すべての人がモーツァルトをこれまでのようなしかたで演奏することに戻り、記念年が遠い思い出になるだけではないかと恐れています。」

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Wednesday, 02 August 2006

誕生日インタビュー

マエストロ・ムーティの誕生日インタビューは、今年はAvvenire紙ぐらいしか、見つけられていません。
とりたてて、新しいことは話していないようですが、追って紹介します。

2006年7月29日 Avvenire 紙
Muti: «Ora sono libero di vivere la musica»

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Saturday, 29 July 2006

驚きがいっぱいの《魔笛》

今日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティの短いインタビューを紹介します。

同記事によれば、26日のゲネプロは大成功のうちに終わったようです。
Damrauの夜の女王は出演者たちの中でも群を抜いていたそうですが、全員がそろって熱い拍手喝采を浴び、舞台は勝利を収めたとのこと。
満員の平土間の聴衆の中には小中学校の児童生徒の一群もいて、彼らはかつてないほど大いにこの上演を喜んでいたそうで、終演後はそれぞれがマエストロ・ムーティのためのバラの花を手にして、マエストロの楽屋の前に現われ、どれほどこの上演を喜んだかがよくわかる光景だったそうです。
とてもほほえましい風景だったことでしょう!

マエストロのインタビューからは、今年のザルツブルク音楽祭のアペルによる《魔笛》の舞台美術と、Audiの演出に満足している様子がよくわかります。
また、オテロを歌う歌手も楽しみです。

今日の公演がどうか成功しますように。

ザルツブルク音楽祭のサイトにある《魔笛》の舞台写真については紹介済みですが、次のとおりです。

http://www.salzburgfestival.at/fotoservice.php?lang=1#top

2006年7月29日 la Repubblica 紙
Mozart, una fiaba di follie pop
Muti: Fantasia e leggerezza per un Flauto che stupirà

「シュールレアリズムをキーにして《魔笛》を読み直し、色彩が非常に活き活きとあふれかえっているこの舞台が、大好きです。幻想的で軽妙な雰囲気が発散されていますが、それは音楽にとっても大切なことに思えます。その上、伝統にとらわれることなくテキストが尊重された《魔笛》になっています。驚きにあふれている楽しみが連続して舞台を支配しているけれども、オペラから深刻で荘厳な瞬間が奪われることはないし、深い含蓄の妨げになることも決してありません。」これはムーティにとって三度目の《魔笛》だ。「スカラ座でデ・シモーネによる舞台を二度再演し、その後、昨年夏、ここザルツブルクでグラハム・ヴィックの演出でやり、それは政治的社会的メッセージが充満したもので、それ自体は、おそらく興味深いものでしたが、モーツァルトの音楽に常によりそっているとはいえないものでした。」この新しいザルツブルク音楽祭版《魔笛》では、ムーティは演出家Pierre Audiと非常にうまく仕事ができたので、「ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で2009年に指揮するヴェルディ《アッティラ》を、彼に任せることに決めました。」2007年にはマエストロはウィーンで《コシ・ファン・トゥッテ》を再上演する予定だ。「舞台はかつてやったデ・シモーネのもので、ウィーン国立歌劇場と日本へも持っていくつもりです。」夏のザルツブルク音楽祭に関しては、ムーティは2008年に《オテロ》を上演する予定だ。「まだ構想の段階で、出演者からはじめています。オテロのキャラクターを築きあげる新しい才能を探したいと思っています。」

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日本で《コシ・ファン・トゥッテ》

今日のレプッブリカ紙がザルツブルクでのマエストロ・ムーティのインタビューを載せていました。
詳細は追って紹介します。

興味深かったのが、今後のオペラの上演予定。ウィーンでの《コシ・ファン・トゥッテ》は、実現するとすれば、2007-2008のシーズンでしょう。楽しみです。

2007年にはウィーン国立歌劇場で《コシ・ファン・トゥッテ》を上演し(デ・シーモネ演出の再演)、それは日本公演にも持っていくとのこと。
また、メトロポリタン歌劇場で2009年にヴェルディ《アッティラ》を上演しますが、ザルツブルク音楽祭での《魔笛》で演出家Audiとうまく行ったので、《アッティラ》も彼に任せると決めたとのこと。

2006年7月29日 la Repubblica 紙
Mozart, una fiaba di follie pop
Muti: "Fantasia e leggerezza per un Flauto che stupirà"

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今年も自由を享受

7月28日に65歳の誕生日を迎えたマエストロ・ムーティの主な記事としては、DPAがこれまでの歩みを、マエストロの言葉を引用しながら簡単に振り返っていました。

2006年7月27日 DPA (Sued Tirol)
Triumph und Ärger mit der „Scala“ - Riccardo Muti wird 65

イタリアのメディアとしては、昨日、Corsera紙が、マエストロをいつもきちんと追いかけている記者による署名記事を載せていました。ザルツブルクでインタビューをとったようです。
自由を謳歌し、ただただ音楽を演奏する喜びのために演奏するマエストロも好きですが、今春の東京のオペラの森公演のように、新しい出会いとタイトな条件の中で、いっそう緊張感あふれるスリリングな演奏をするマエストロも見てみたい、と思っています。

ザルツブルク音楽祭《魔笛》のゲネプロでは、おおむね好意的な反応だったようで、初日の今日がどのようになるのか、とても楽しみです。
ザルツブルクの今日の新聞が《魔笛》関連の記事を多く載せていますので、後で紹介します。

Corsera 紙の記事から、マエストロのコメント部分だけ、紹介します。

2006年7月28日 Corriere della Sera 紙
Muti: nel mio futuro c’è New York
PROVOCAZIONI
LIBERTA’
A Salisburgo con «Il flauto magico», nel 2009 debutto al Met

「《魔笛》のこの新しい舞台装置はオランダ人画家・彫刻家カレル・アペルにより創造されています。想像と文化的なものに満ち溢れ、伝統的とはいえませんが、挑発的なところもありません。何も知らない子供のためにも、無垢なものを失ってしまって、そのことをいつも『考えている』大人のためにも、喜びと驚きを本当に創出したいと望んでいるような舞台です。」

「ヴィックの舞台は非常に興味深い解釈で、政治と社会への問いかけと考察に満ちていました。カレル・アペルはこの5月に85歳で亡くなっていますが、彼の舞台はPierre Audiの演出とあいまって、セリフや音楽から引き起こされる問題性と一緒にとはいえ、この劇が元々めざしていた方向に向かっています。けれども、そこには強引さはなく、自然な感じで、皮肉めいた雰囲気もあり、もちろん、モーツァルトとシカネーダーが求めていた超越感もあります。これはメランコリーなところのたっぷりあるオペラでもあります。また、人生の落胆、死にまつわる漠然とした感じにもどっぷりひたったオペラです。私の演奏は昨年のものとかけ離れたものではありません。けれども、軽やかさ、活き活きとした感じ、そして様々な色どりに取り囲まれています。」

(ゲネプロの後の楽屋にメトロポリタン歌劇場総裁のPeter Gelbもいて、お祝いの言葉をかけていたそうです。)
「2009年にはじめてメトロポリタン歌劇場で指揮します。ヴェルディ《アッティラ》を選びました。この劇場で一度も上演されたことのない作品です。」

(ザルツブルク音楽祭次期総裁Jurgen Flimmは、2008年の《オテロ》上演にマエストロを招いています)
「今、新しいヴェネチアのムーア人を探しているところです。《ファルスタッフ》に若いAmbrogio Maestriを見出したように、新しい才能を発見したいと思っています。」

(最近にぎやかに取り沙汰されている新たな任務のことについては、考えていないと語っています)
「自分が大切にし、個人的に問題もないオーケストラたちと音楽を演奏する自由を、心から、大いに楽しんでいます。」

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Sunday, 23 July 2006

ナポリの無関心を残念に思う

マエストロ・ムーティは来春ザルツブルク聖霊降臨祭で、1700年代ナポリ派音楽をテーマにオペラなどを演奏します。
そのことに対するナポリ社会の無関心を残念に思うインタビューが、ラベンナ音楽祭メクネス公演に関連して、イタリアの新聞に載りました。

なお、途中、メクネス公演でのプログラムの説明の部分は省略しました。

最後にベイルートでの新たな戦火についての憂慮も語っています。

政治への関わり方はそれぞれの立場で異なります。
そんなことは政治家の問題だ、現実の国際政治は冷徹で云々、というような、よく言えば学究的な、悪く言えば他人事のように考え、一歩も二歩も現実の政治から身をひくような、無関心ともいえるニヒルな態度に比べれば、音楽家としてできることをするというマエストロの考えは、本当に真摯で、シンプル、民主主義の原点に立ち戻るかのような考えで、尊敬します。

百家争鳴、喧々諤々政治を論じるのは市民の務め、というイタリアの様子をとても興味深く思います。現実にはとてもしんどいことですが...。

2006年7月19日 Il Mattino 紙

«Porto i capolavori del Settecento a Salisburgo e le istituzioni tacciono»
J’accuse di Muti: Napoli mi ignora

「ええ、ナポリのものをザルツブルへ持って行きます。でも、ナポリでは、このことを誰も気づいていなくて、何の関心もないように見えます。」リッカルド・ムーティは漠然とした表現は使わない。第10回ラベンナ音楽祭友情の道コンサートが一区切りついた、モロッコでのことである。聖霊降臨祭でケルビーニ管と、これまで隠れていた1700年代ナポリ派音楽の傑作を再発見をするという、彼の3年間のプロジェクトに対するナポリ社会の強い関心の欠如について、残念な気持ちで語っている。最初の予定は来春、チマローザの作品で1778年以来上演されていない《カランドリーノの帰還》を舞台にかけることで、演出はRuggero Cappuccioに任されている。
「たとえIl Mattino 紙がこのニュースを詳細に報じていたとしても、誰も私に手紙をよこしませんでしたし、電話さえもなく、沈黙があるだけでした。残念です。好意的に扱われたくてやっているのではありません。ただ、食事に招かれるのはこれで最後といったように見えるのが気に入らないのです。」さらに辛辣な言葉が続く。「バーリでの宵では、市民権を授与されました。とてもいいものでした...。」
マエストロ・ムーティ、何年か前、1700年代ナポリ派音楽につながる別のプロジェクトもあり、それはCasa Ricordi とサン・カルロ歌劇場によって生まれたものですが、頓挫しました。覚えていますか。
「もちろんです。今度は、しかし、オーストリア人たちが加わっています。彼らは素早いです。」
ナポリでは音楽に関するものは無数の困難の中を進んでいます。
「それは別の論点です。私は、この国の文化問題に対する関心が欠けていることを訴えることから、身を隠したことは一度もありません。」
スカラ座にもはや存在しなくなってから、しかしながら、招聘が繰り返され、今は、ローマで求められているように見えます。ジェルメッティが去り、ローマ歌劇場の再生をあなたに託せたら、と望んでいるようです。
「新聞でそう言ったと聞かされました。けれども、誰も私には接触してきていません。」
つまり、Veltroni はあなたにたずねていなかったということですか。
「私は彼の友人ですし、彼が非常に好きです。けれども、私はカッチャーリの友人でもあります。」
できればヴェネチアでも、と望まれているということですか。そして、ナポリでは?市長のIervolinoはあなたにサン・カルロ歌劇場へと申し出なかったのですか。
「イタリア中をめぐって、ジーロ・ディタリアをするわけではありません。ナポリへは11月にケルビーニ管を率いていきます。ローマでは、そこはRomaを逆に読めば《Amor》を意味することに思い至らないようですが、アラコエリ教会で演奏します。以上です。つまり、常に、平和と文化に関わっているということです。
(略)
そういえば、(訳補足:メクネス公演で演奏するヴェルディ《運命の力》序曲の)forza力。レバノンとベイルートは『友情』の旅の最初の頃の場所ですが、そこではここ数日、新たな戦火が起きています。どのように考えていますか。
「さらに旅することが必要になるかもしれないと考えています。あの戦火は、我々が行ったイベントを裏切るものだといえるかもしれません。けれども、そのイベントが無駄だとは思いません。政治的役割を尊重するつもりはありません。そうではなく、今の世界にはいろいろな差異を緩和する必要があると思っています。いつも願いがあります。そのメッセージとはひとつになることです。そして、音楽がそれをかなえられるのではないかと思っています。」

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Monday, 17 July 2006

ラベンナ音楽祭エルサレム公演(1)

今日17日にマエストロ・ムーティは、メクネスでラベンナ音楽祭《友情の道》公演を指揮します。
どうか人々の心に何かが伝わるコンサートとなりますように。

ブルーノ・ヴェスパはマエストロ・ムーティをいつも気にかけていて、演奏会に来たり、折にふれてインタビューしたりしています。ここでもそのインタビューを紹介しています。
過去、ラベンナ音楽祭《友情の道》公演を扱ったテレビ番組のキャスターも務めています。メクネス公演でもそうなので、また、インタビュー記事が読めるかもしれません。

少し古いものですが、手元にある1999年エルサレム公演の頃の、ヴェスパによるインタビュー記事を紹介します。マエストロがラベンナ音楽祭『友情の道』公演に抱いている考え(現在もかわらないことでしょう)が、とてもよくわかります。
ここで触れられているボローニャでのレクエイム公演は、映像を観たことがあります。あの雰囲気は本当に特別なものでした。

なお、このインタビュー当時は、ちょうど、ニューヨーク・フィルが次期音楽監督探しをしていた頃でした。

(巨大匿名掲示板でも、マエストロがミランのピルロに似ているという書き込みを読み、また驚いてしまいました。ピルロはわたしにとっては、あこがれのギュンター・ネッツァーを思わせる人として、心にずっとあったのですが...。)

Panorama 誌 1999年7月8日号
Una crociata musicale di pace

マエストロ・ムーティ、ニューヨーク・フィルがあなたに提示したものとは?
「同管は、クルト・マズアがそこを離れる2002年に、私が指揮を引き受けられないか、興味を示しました。この1月に、エブリー・フィッシャー・ホールでの同管とのコンサートが成功裡に終わった後、この関心が再び盛り返したのです。」

ニューヨークのためにミラノを離れるのですか。
「トスカニーニが1920年代の終わりにそうだったように、両方を指揮することは両立します。トスカニーニがはじめてニューヨーク・フィルを指揮したときのプログラムのコピーを、同管が贈呈してくれたとき、私は嬉しく思いました。同管は偉大な指揮者たちと共演してきました。マーラー、ブルーノ・ワルター、バースタイン、ミトロプーロス...そうでしょう?」

ニューヨーク・フィルの代わりに、ザルツブルク音楽祭のポストを引き受けるということは?2年以内にモルティエを引き継ぐとオーストリアの新聞は書いていますが。
「その声はおそらく、私のオーストリアとの非常に堅固な関係から生まれたのでしょう。1971年からザルツブルクで指揮しています。ひとつの人生になっています。そこには8月末にスカラ・フィルのコンサートを指揮しに戻ります。ザルツブルク音楽祭の歴史上、はじめてイタリアの交響楽団が招かれたのです。モルティエが去れば、ザルツブルクは斬新さと伝統を結びつけることのできる人を見つけるでしょう。私には何の要請もありません。」

もし、あるとしたら?
「断るに違いありません。ザルツブルクは十分な時間を要求します。私の主要な仕事は現在、スカラ座にあります。13年間ミラノで、38の異なる作品を指揮しました。ヴェルディからワーグナー、スポンティーニからグルック、モーツァルトからパイシェッロまで、指揮しています。それでもなお、話はまだなかばです。このために、私のポストは依然としてスカラ座にあります。

(ウィーンで会ったとき、リッカルド・ムーティはモーツァルトの《ドン・ジョバンニ》再演を大成功裡に終え、エルサレムに発つ直前の日だった。エルサレムで彼は、7月1日木曜日に第三回『平和のためのコンサート』を指揮した。)
「フェデリコ二世がアルタムーラで何をしたか知っていますか。キリスト教徒とユダヤ教徒、イスラム教徒を共存させたのです。エルサレムでのコンサートの目的も同じです。ヴェルディ《レクイエム》を中心にして、三大一神教の信者たちをひとつにすることです。1980年夏に同じ《レクイエム》を指揮してからほぼ20年がたちました。ボローニャ駅爆破無差別殺人事件の犠牲者をしのんで、ベローナのアレーナ劇場で3万人の聴衆を前に指揮したのです。2年前にサラエボで同地のオーケストラと合唱団を指揮したときにも、このことが視界にありました。それは平和のためのコンサートの最初のもので、我々の国のオーケストラと合唱団が融合して、準備の機会もなく、初対面で、ベートーベンのエロイカ交響曲とヴェルディの《行け、我が思いよ》を演奏しました。」

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Sunday, 16 July 2006

エンツォ・ビアージによるインタビュー(5)

Enzo Biagiによるマエストロ・ムーティへのインタビューの、残りの部分を紹介します。

マエストロがフィラデルフィア管を指揮した、マーティン・ルーサー・キングに捧げるコンサートは映像を観たことがあります。
プログラムは、同管の資料によれば、次のとおりです。

1991年1月14日 フィラデルフィア管
ヴェルディ 《ナブッコ》序曲
ウォーカー Lyric for Strings
コープランド Lincoln Potrait
ベートーベン 交響曲第5番

Amadeus 誌 1991年6月号
Un uomo semplice

あなたがフィラデルフィア管から出て行ってしまったとき、メンバーたちは泣いたと言われています。なぜアメリカを去ったのですか。
「長年、フィラデルフィア管のほかにスカラ座でも仕事をしていて、二つの異なる団体の責任の量とプログラムの量、大西洋のこちら側とあちら側の間の絶え間ない移動とで、私の生活が全く支えきれないほどのものになっていたからでした。1991年にフィラデルフィア管を離れたときには、このオーケストラの音楽監督として11年間の忘れられない歩み、このオーケストラとの20年間の歩みがありました。1992年以降は、音楽以外の生活の時間がもっと増えるでしょう。それは必要であるだけでなく、そうしなければならない必然があるのです。」

過去のような偉大な声の持ち主がもはや存在しないと言う人がいます。そのとおりですか。
「肯定するつもりもなければ、否定するつもりもありません。サイクルというものがあります。今は、特にモーツァルトのレパートリーのあるタイプについては、非常に豊富で、ヴェルディやワーグナーの演奏家は乏しくなっています。けれども、そのことは、全人類のホルモンのバランスの交替というものは信じる必要なし、というのでもない限り、ある種過去に活発だったような声が、きたる将来には存在しないということを意味しません。」

どうして外国の歌手は豊富なのですか。イタリア人歌手ではうまくやれないのですか。
「イタリア人歌手について、解釈の点でだけなく、数的にも復活があると言っていいと思います。音楽院を出て、心理的な適性と全般にすぐれた素養を備えた彼らが、平均以上の申し分のない例外をやってのけることがあると言えると思います。」

最近50年間で最もすぐれた指揮者は誰だと思いますか。
「トスカニーニ、フルトベングラー、カラヤンです。」

トスカニーニのかっとなる性格について話しましょう。あなたも同じ傾向を繰り広げていますか。
「全く違います。私は要求の多い人間です。でも、私が音楽監督であったオーケストラにおいて哀惜が残ったという事実は、尊敬の気持ちのほかに、私との共同関係について、たとえ、すべてのメンバーに気に入られるようなものではないということを知っているとはいえ、少しは愛情に基づいたものがあったということを表しています。」

このように言われています。「ベートーベンは最高に素晴らしい。けれども、モーツァルトは得がたい存在だ。」これをどう思いますか。
「こういう断言は好きではありません。バッハやモンテベルディをどう位置づけるのか、言うことはできないでしょう。」

オーケストラ指揮者において、最も大切な資質は何ですか。
「前向きな音楽家であり、数々の解釈上の適切なアイデアや、異なったより多くの考えを導くことができる能力があることです。たとえ自分自身では納得していなくても、いずれにせよ、それらに到達するということを言っているつもりです。」

指揮者というキャリアに取り組んでいる若者に助言を。
「ひとつあるいはふたつ以上の楽器を非常によく勉強し、作曲を勉強すること。最後に、指揮者のジェスチャーは手段であり目的ではないことを理解することです。つまり、ジェスチャーにのめりこみ、気をとられてはいけないということです。」

フィラデルフィアでマーティン・ルーサー・キングのメモリアル・コンサートを指揮しました。考えがあって選択したのですか。
「ええ、そうです。私は、アメリカではコンサートに白人以外の人が来ていないことに気づいて、いつも悩んでいました。いわゆるこのようなクラシック音楽が白人の王国であるという事実に、私は気落ちしました。その人がどんな人種であったにせよ、人間の自由のために亡くなった人の思い出に捧げたコンサートを通じて、白人でない人が作曲した作品の演奏と、白人でない人で、合衆国で最も有名な人のナレーションを伴うことで、『アフリカ系アメリカ人』と今日よばれるような聴衆の間で、最高の存在感を得ることができたのです。演奏会の後、多くの人がこう言ってきました。『達成したからには、繰り返しましょう。』このために、私は次シーズンに別のコンサートの予定を組みました。最初のものがあらゆる合衆国人に伝わったのです。」

政治に関してはどう考えていますか。
「私はカトリックの家族出身です。政党には属していませんが、様々な政治運動に見出されるようないくつかの信条には、同一化しています。しかし、このことは政治への無関心主義を意味しているわけではありません。」

スカラ座とは何ですか。
「その歴史と文化的象徴であるがために、全世界が見ている劇場です。」

では、ザルツブルクとは?
「モーツァルトが生まれた街で、モーツァルトを愛さなかったところです。音楽祭の街で、その音楽祭は今や、音楽文化に限定されるよりも、限界に向かってより一層、ますます開けていこうとしています。」

結局のところ、音楽とは何ですか。
「最も高いところにある表現で、魂、精神の神秘です。」

世界を巡っていて、何か足りないと思うものはありますか。
「もっと親密な情感です。」

指揮をしていないときのマエストロ・リッカルド・ムーティはどんなふうですか。
「シンプルな、飾らない人間です。Una persona semplice.」

どうしてラベンナでの生活が気に入っているのですか。
「まだ自分のサイズが保てる街だからです。特に、夜は過去の幻影に満ちている街です。私の青春の海であるアドリア海に姿を見せている街です。」

あなたにとって、家族とは何ですか。
「私自身の肝要な部分です。」

お子さんたちは何か天職に出会っていますか。
「三人ともとてもすぐれて音楽的です。女の子キアラには、ピアノや歌の勉強を通じて実践しようとしているような、ある素質もあります。」

夫人はあなたのために歌の道を放棄しました。あなたが指揮棒を捨て去ることはありえますか。
「今、指揮棒は家族の糧でもあります。いずれにせよ、彼女の犠牲はわかっていますし、尊く思っています。」

どうやって夫人を知ったのですか。
「ミラノ音楽院で私が作曲と指揮について勉強していたとき、そこで彼女は歌を勉強していました。」

あなたの仕事では、よき父、よき夫であることはむつかしいですか。
「ええ、むつかしいです。とりわけ、妻や子供たちにさくための時間が十分にないからです。わずかな時間でもさくのに骨折りが求められているのです。」

将来何が起こるのか、いつ考えますか。
「何年も前から自分の中にあるこういうキャラクターを、再び取り戻せるかもしれないと思う瞬間、このようなタイプの生活それ自身がともなってくるような嵐の中で、自分は乱されたくないと思うような瞬間です。」

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Tuesday, 11 July 2006

エンツォ・ビアージによるインタビュー(4)

7月11日14時から7月13日14時まで、ココログがメンテナンスに入ります。
その間、閲覧はしていただけます。
新しい記事の紹介は次のところでしていきます。
ご不便をおかけします。

http://blogs.yahoo.co.jp/delpippoit

イタリア人ジャーナリストEnzo Biagi によるマエストロ・ムーティへのインタビューの続きを紹介します。訳しながら紹介しているために、こまぎれになってしまっていて申しわけありません。

演奏家の作曲家への対抗心についてたずねているのを興味深く思いました。
トスカニーニについてマエストロが語っている本を紹介しましたが、そこでも、この問題を話していました。作曲家へ奉仕するのが演奏家、というマエストロのモットーには、当然のモットーであると思われるのに、感銘を受けます。


Amadeus 誌 1991年6月号

Un uomo semplice

長時間の海外旅行、ツアー、リハーサル、新しい場所、どれがいちばん大きな苦労ですか。
「家から遠くにいることです。自分の家庭を愛しています。」

他の人たちと関わるほうですか、それとも、ひとりでいるほうですか。
「他の人たちといないと心地いいです。けれども、私に何か言ってくれることができて、尊敬している人たちもいます。本質的には人見知りをします。だから、人々に気難しいとか、用心深いと思わせているようです。友人達は、私がそういう外観とは全く違うと知っています。」

批評家たちとの関係はどうですか。
「演奏を通じてはっきりと明らかにしている私の意図を、批評家が直感的に、また瞬時に見抜いている報道を読むのは嬉しいです。自分にとって有用かもしれないような助言に出会うと、幸せです。でも、批評家は具体的な要素、理由もないのに、称賛したり、たたいてだめにしたりしていました。書く資格のないような人、つまり音楽の専門家でない人に勝手に直感的に書かせているようなことには、興味がありません。」

歌手についてはどう思いますか。
「異なったタイプがいます。美しい声の歌手、興味深い声の歌手と、一方では、声のない歌手、あるいはひどい声の歌手と。そして、彼らの中には、音楽家としての歌手と、それとは別の歌手たちがいます。後者は、オーケストラや合唱団、あるいはその集まり、演奏に参加しているほかの歌手たちによって創り出されたハーモニーの織物について、明らかにそれとどう関わるかを理解していないような人たちです。フレージングができること、すなわち、芸術的な熟練さをもってフレーズを音楽的に操ることは、音楽家としての歌手をそうではない歌手から区別します。それは声の質とは独立したものです。」

音楽家の世界にも、モーツァルトとサリエーリに見られるような、伝説的な嫉妬があります。そのことをどう思いますか。
「人生の一部です。芸術の世界には競い合いがあり、情念を激化させる世界だからです。個人的には聖人であると言いたいとは思いませんが、なぜなら、私はそうではないからですけれども、大きな犠牲を通じてだとしても、自分に期待していたものよりもいっそう多くのものを、私は誰にも助力をせびることなく受け取りました。誰の力もせびることのなかったことには誇りを感じています。」

楽譜や誰かに対抗心を感じますか。
「私は、演奏家は作曲家に奉仕する人だという教育を受けましたし、誰かと競ってもいません。なぜなら、誰にでも自分の場所があるし、誰もが自分の意見、自分の演説をすると思っているからです。」

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Monday, 10 July 2006

エンツォ・ビアージによるインタビュー(3)

Enzo Biagi によるマエストロ・ムーティへのインタビューの続きです。
指揮者の孤独、責任の重さについて、ここでも語っています。その想いをマエストロの口から聞くたびに、胸が痛くなります。

延長戦です。カンナバーロ、がんばれ!

Amadeus 誌1991年6月号
Un uomo semplice

どんな歴史にも困難な時があります。あなたの場合は?
「悲劇に至ったことはありませんが、私の人生には決断の必要な状況が、それゆえに厳しい時となる状況が広くまかれています。たとえば、1972年にロンドンのフィルハーモニア管の首席指揮者の職を、オットー・クレンペラーのような巨人をひきつぐべく引き受けたとき、あるいは、ベートーベンの第九交響曲の偉大なメッセージを前にして、自分がこのように小さな存在であることを自覚しながら、第九交響曲をはじめて指揮したときなどです。」

『十分です。これ以上やることはありません。』とこれまで一度も言ったことはないのですか?
「何度も言っています。なぜなら、私は偶然の連続によって音楽に到達したような音楽家であり、それを忘れてはいけないからです。こんなふうになるよう必然的に運命づけられた雰囲気の中では、育ちませんでした。私の家にはそのような計画がありませんでした。ある意味、私は二つの世界を生き続けています。ひとつは『普通の』少年、青年の世界で、私が大事にし、守りたいと思っているものです。もうひとつは、芸術家としての世界で、演奏が終わったときはいつも、当然のことながら、その世界から走り去っています。この二つ目の世界が度を超えて優勢になったとき、ここに聞こえてくるのです。『もう、十分だ。』」

指揮台に上がることには何の誇りもないのですか。
「指揮台に上がった最初の頃には、おそらくあったでしょう。なぜなら、指揮台に上がることは、現実として、滅多にない地位に就くことだったからです。歳月がたつとともに、そのことに特に責任を持つようになりました。指揮台がしっかりとした土台ではなく、精神集中の場、孤独な場としてますます感じられるようになったのです。」

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Sunday, 09 July 2006

眠っていたナポリ派音楽の手稿への想い

2000年秋に行われたマエストロ・ムーティへのインタビューを読んでいて、今実現しつつあることがその中で将来のこととして語られていたり、そのルーツが語られたりしているのを、とても興味深く思いました。

やりたいこと、やらなければならないことを明確に描き、それに向かって進んでいっているマエストロの姿には、いつものことながら、感銘を受けます。

将来のことのひとつとして、若い人たちに教えたい、と語っていて、これは以前のインタビューでも、フィルハーモニア管時代から抱いていたことだと言っていましたが、今、ケルビーニ管という形になっています。

もうひとつは、ナポリ派音楽の手稿について少しですが、触れています。その人生における成功を語る文脈の中で出てきています。こういう想いを経て、来春、ナポリ派音楽の手書きの楽譜がケルビーニ管によって音として現われることになったのか、と思いました。
マエストロにとっては、二つの夢が編み合わさったものになります。

Sette 誌 2000年10月26日号
Riccardo Muti in famiglia

「私は、深南部で太陽と友達と親しみ、自由な学問という意味でのアリストテレス主義にあふれていたような、後期中等学校と高等学校に親しんだ若者でした。17歳までこのように育ちました。それからその後、自分自身とだけ向き合い、際限ない時の間、楽譜を研究する立場になりました。毎日、来る年も来る年も来る年もそうやって、書かれた音楽についての1000年間を学びました。これはフラストレーションのたまることです。ナポリ音楽院の図書館に入って、偉大なナポリ派音楽の無数の膨大な手書き楽譜がそこに眠っているのを見て、そしてこの世界が大部分、私にとって未知だったことを知って、強い印象を受けました。これらの楽譜と私との距離、それらを研究することや知ることの不可能さは、惑星との距離のように思えました。」

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エンツォ・ビアージによるインタビュー(2)

イタリアの著名なジャーナリスト、Enzo Biagiによるマエストロ・ムーティへのインタビューの続きを紹介します。

進路を決めたきっかけを語っています。10代前半のマエストロはどんなふうだったのだろう、と想像するだけで楽しいです。

指揮者以外になりたかったものでは、外科医というのは、マエストロのあのエレガントで美しく長い指ならば、器用にこなせそうな気がします。
天文学への興味は、地球や天体の動きと音楽のつながりの神秘をよく語っている様子からも、うかがえるかもしれません。

ムッターとモーツァルトのバイオリン協奏曲を録音しているときの、モニタールームでの写真(レコード芸術誌で、中矢さんがレポートしていたのが思い出されます)の微笑み、《椿姫》をEMIで録音しているときのモニタールームでの、満面の、屈託のない最高の笑みの写真が添えられていて、懐かしいです。

Amadeus 誌 1991年6月号
Un uomo semplice

いつ、進路を決めたのですか。
「音楽の勉強はいつも他の科目の勉強と並行してなされていました。両親は自分たちの子供がいつか、プロという意味での音楽家になるとは思ってもみなかったでしょう。私は、次のような専門家になることをアドバイスされて育つような家族の出身です。医者になるといいのではないか、エンジニアになれるのではないか、というようなアドバイスです。私に割り当てられたのは法律を修めて学士になることでした。父の大の友だちが、モルフェッタで名声ある弁護士Primo Augenti (訳注:人名がどうか、自信がありません)だったことによります。
音楽は午後やることになっていて、いずれにせよ、バイオリンの進歩によって、師のアドバイスに従ってさらにピアノの勉強をするように仕向けられました。それは、彼が言うには、もっと十分な教養をもつために、とのことでした。ピアノには全くもってひきつけられました。ほかは必要ないと思うほどのものだったからです。重要で完璧な楽器でした。
バイオリンはわきにやられ、短期間の間、バーリ音楽院の第四課程の通学生試験の準備をしました。当時は音楽高等学校でした。
この試験は特別な日でした。私たち3人が残り、すでにバーリの夏の酷暑の中、2時になっていました。もう疲れて空腹で、たぶん試験を延期したほうがいいだろうと思っていました。そのとき、ほっそりとして、非常に活き活きとした目をもった男性が、入り口のうしろに頭をのぞかせ、残っている候補者たちを見ようとしていました。この男性が、私の音楽家としての人生と運命の根源的な部分にはいってくる必然性があったとは、そのときには思ってもみませんでした。彼はニーノ・ロータといいました。
審査員の前で、10点満点プラス最優秀賞ですべての試験を受けました。ロータが私を呼んでこう言いました。『今日の演奏の程度にではなく、明日の、将来の演奏の可能性に賞を与えるよう、強く主張しました。』
彼に会いに行くよう、招かれました。でも、それは単なる決まり文句のように思っていました。続く9月に父に同行してバーリに行きました。彼が自分の仕事をすばやくすませるのを待つ一方で、音楽院へひとっ走りして、自分自身の目で一連のよい成績を見ようと決めました。
状況は興味深いことに運命的でした。同じ日に、マエストロ・ロータはローマからバーリに戻ってきていました。ローマでフェリーニの映画のためにサウンド・トラックを書いていたところだったのです。マエストロ・ロータは廊下をわたっていて、この少年が掲示板の前にいるのを見かけました。私にはこういう声が聞こえてきました。『おや、ムーティ君じゃないか。』Ma tu non sei il piccolo Muti?私と私の試験のことを完璧に覚えていたのでした。私と再度話しあうことを望んで、音楽院への入学を勧めました。
この少年が直面するはずの危難について結論を出さなければならず、家族は話し合いました。その後、バスで1週間に3回、モルフェッタからバーリへ向かい、後期中等学校の勉強を1時間切り上げ、下した判断は最後には明るいものになりました。音楽院に入学したのです。午前はモルフェッタの後期中等学校に通い、週に3回、バーリへ遠路通学しました。
ロータは私にとって大事な音楽上の父でした。交響楽団を本質的なところで、はじめて私に教えてくれました。リハーサルに連れて行き、あらゆる仕組みを説明しながら、教えてくれたのです。また、寛容でもありました。私の家族が翌年ナポリへ移ることになり、次のように言ったからです。バーリ音楽院を離れることをためらう私を前にして、こう言いました。『ナポリへ行くのはいいことだ。君にはもっと大きな音楽院が必要だし、文化的にすぐれた街に行けば、もっといい音楽院があるよ。』」

あなたが今いるこの世界で出会った主要な人は誰ですか。
「その次がVincenzo Vitaleで、ナポリ学派ピアニストの偉大な星です。次がJacopo Napoliで、音楽院の院長です。私自身が今のようなキャリアのことを思ってもみなかったときに、私に指揮者の素質があることを一目で見抜きました。それからミラノでは有名な作曲のmaestro、先生であるBruno Bettinelli、楽譜解釈のmaestro、先生であるRiccardo Castagnone、最後がAntonino Vottoです。トスカニーニ派のことを語る人として非常に大切なだけでなく、オーケストラの指揮からあらゆる自己陶酔をとりさり、演奏する楽譜を前にしたときの倫理的な問題を提示しました。」

あなたの言葉にこういうものがあります。『音楽は私のすべてです。』けれども、もっと大切なものはないのですか。
「音楽というのは私のあり方の問題であり、私を表現するものです。その言葉を私が言ったとしたら、好きではありません。なぜなら、サンレモ音楽祭でそういうタイトルの歌がたくさんあるからです。」

ではリッカルド・ムーティが指揮者ではなかったとしたら、ほかにあなたを引き付けたかもしれない仕事はありますか。
「弁護士になるよう育ちましたが、やがて、哲学に魅せられ、大学に入学さえしました。素晴らしい外科医になる夢も一時は持ったことを思い出します。一方、天文学に夢中になったこともありました。」

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Saturday, 08 July 2006

自由になって実現させる夢(2)―ナポリの復権

ザルツブルク音楽祭の過去・現在・将来をテーマにしたDVDを紹介しました(The Salzburg Festival)が、その中で、Flimmがザルツブルク音楽祭に新しいアイデアをもちこもうとしているのに、強い印象を受けました。
マエストロ・ムーティが彼のそういう提案に応じてナポリ派音楽のための音楽祭をはじめることには、いろいろな意義がある、と思いました。そのひとつは、もちろん、ナポリ派音楽の再認識です。
4月はじめにレプッブリカ紙に載ったインタビューの続き、ナポリ派音楽について語っている部分を紹介します。

2006年4月3日 la Repubblica 紙
Muti, la libert ritrovata
Il maestro, dopo il divorzio dalla Scala, parla dei suoi progetti e del divino Mozart

そのムーティの夢のひとつはルーツ的、学究的なもので、夢のリストの最上部にあり、音楽祭に変わりつつある。1700年代ナポリ派音楽再発見のほうを向いた企画で、現代的な演奏を意図したタイトルをもっている。2007年から予定されていて、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のセクションにある。Scarlatti、 Cimarosa、 Traetta、 Piccinni、 Paisiello、 Jommelli 、 Fioravantiといった音楽家たちの歌劇、ミサ、オラトリオを含むことになる。ザルツブルクに『駐留』するのはケルビーニ管で、2005年にムーティによって洗礼を受け、若いイタリア人たちで構成されている。ザルツブルク音楽祭の新しい総裁になるJurgen Flimmから招待を受けた。「若者たちからなっているこのオーケストラ、若い歌手達、私のようにナポリ生まれでオーストリアに36年間つながりを持っている指揮者を通じて、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭に新たなはずみがつけられるのではないかと彼は考えたのでしょう。この音楽祭はカラヤンによって夏の音楽祭の分派として創設され、最近はバロック音楽に限定したものになっています。」

マエストロが主張するところでは、基本的には、1700年代のナポリとウィーンを結びつけた濃い文化的関係に焦点をあてたものになる。「両市はそれぞれの王国の首都として、文化的に肩を並べていました。演劇と音楽のほかに文学、絵画についての交流もあった活発な組み合わせは、ナポリ王国の王妃であり、マリア・テレジアの娘であるマリア・カロリーナの時代には頂点をきわめ、ナポリをオーストリアに結び付けました。私は、そこで修養を積んだナポリの音楽院、San Pietro a Majellaの図書館と、Via DuomoにあるGirolamini修道院の図書館に保管されている楽譜を研究しているところです。魅力的で神秘的なところで、そのきらめくような美しさには息が止まるほどです。もっと古い部分については、かつてはGiambattista Vicoの図書館だったところに、ヨーロッパ音楽のキーパースンであるAlessandro Scarlattiの手稿が豊富にあります。」

来年5月に最初のザルツブルク音楽祭を開幕させるオペラは、Domenico Cimarosaの《カランドリーノの帰還》だ。「この企画を、ナポリ派を最も代表する作曲家で開幕させます。」とムーティは説明する。「チマローザは、ナポリ的なものを、言葉としての民俗的なものではなく、もっと深い意味で、より一層表現しています。彼はウィーンでは王者で、そこで《秘密の結婚》を作曲しました。サンクトペテルブルグのエカテリーナ二世の宮廷でも仕事をしました。」

1700年代のナポリのオペラは、とムーティは続けるが、短期間のまさしく濃い空間だった。「幾人かの作曲家に見られた歌の生粋の名人芸から出発し、登場人物の劇上のキャラクターについて意識的につかむところまで到達しています。これは、たとえばチマローザに起こっています。カストラートに典型的だった名人芸そのものの表現を激しく批判しています。その名人芸は、劇に女性が登場する前の1700年代はじめに支配的でした。役柄を掘り下げることに向かう歩みから、アルプスの向こうの楽派が生まれています。あらゆる著名宮廷で大いに活動し、力を持ち、ナポリの音楽家達は、ついにはヨーロッパの様々な楽派を象徴することになったのです。」

それは、ヨーロッパの劇場音楽におけるイタリアのルーツを復権させる訴えだ。「ピッチーニとグルックの間の論争には言及しません。それは1700年代末のパリで、二つの異なった劇概念を代表するものでした。けれども、モーツァルトの劇においても、行き当たりばったりではない旅、最初のイタリアへの旅で彼がナポリの世界に姿を現したことが、彼の正統性における決定的な要素のように見えます。ナポリは音楽の地でした。豊かで、多様で、矛盾に満ちた世界で、モーツァルト、ハイドン、シューベルトのような作曲家の活力を引き起こしていました。」

シューベルト自身も?ウィーン的なものの最たるものなのに?「いくつかの交響曲のフレーズで表現しているように、イタリア音楽に非常に恩恵を受けていました。交響曲第六番ハ長調La Piccola(訳注:グレイト交響曲に対してピッコラ、小さな)には、速いテンポにイタリアの、そしてまたロッシーニの明らかな影響があります。ある点では、オーストリアの作曲家達はイタリア人たちのとてつもなく強大な力の前でしかめっ面をしましたが、一方では魅力を体験していたのでした。」

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Friday, 07 July 2006

スペインのWeb新聞のインタビュー

マエストロ・ムーティの長文のインタビューが、スペインのWeb新聞に載りました。
興味深い内容でした。

スカラ座での経歴を自信をもってふりかえり、オーケストラでの音楽監督、首席指揮者の数々の任をふりかえって、今はそういう責任を持たずに音楽を演奏できて幸せだ、自由だと、ここでも語っています。
誇りにしているケルビーニ管との活動にも触れています。

オペラの演出については、モダンな演出に難色を示す指揮者というレッテルを否定し、昨夏、ザルツブルク音楽祭で物議をかもした《魔笛》も上演した、演出には、愚かなものか、知的なものか、のどちらかしかない、モダンかどうかはものさしにはならないと語っています。
また、リブレットを尊重すればおのずと馬鹿げた演出はなされないはずだし、同じ理由からコンサート形式でのオペラの上演を好ましく思う(あくまでもコンサート形式であり、セミ舞台方式によるものではない、とのこと)、と言っています。

歌手について久しぶりに結構語っていました。モーツァルト、ロッシーニを歌う歌手は今は豊富にいるが、ヴェルディ、ワーグナーの歌手となると、なかなか見つからないとして、バリトンについては、ブルゾンの後が続かず、でも、カルロス・アルバレスの名前をあげています。

イタリアの文化政策については政治の想像力のなさと金のなさを糾弾し、教育の大切さを訴えていました。

面白かったのが、オペラにおける指揮者は歌手の伴奏をするのではない、と言っていることでした。新聞評に、うまく伴奏していた、とあるのは、全くの概念誤りだと断言していました。

マエストロのスペイン訪問は当分続き、14日のケルビーニ管とのペララーダ城音楽祭出演、フィルハーモニア管との9月のバルセロナ、春のMadrid、 Zaragoza、Oviedo訪問がひかえていると書かれています。

2006年7月6日 El Mundo, El Cultural
Riccardo Muti “Después de salir de la Scala me siento felizmente libre”

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Thursday, 06 July 2006

指揮とは

ラベンナ音楽祭のサイトで観られる、マエストロ・ムーティとケルビーニ管の演奏会の映像は、とても興味深いです。

http://www.ravennafestival.org/video_sommario.php

マエストロの指揮には、ケルビーニ管との演奏においても、「見せる」ところがあるように見えます。
でも、それは全く外面的なことにすぎません。それにとらわれてマエストロの奥深いところにあるものを見失っているとしたら、非常に惜しまれることです。
数年前のインタビュー(60歳を祝したインタビュー)で、マエストロが指揮について語っていた部分を紹介します。

Il Venerdi 誌 2001年7月20日号
Il Compleanno di Muti

指揮者のジェスチャーについて。聴衆から見れば、オーケストラとの対話手法には神秘的で、はっきりしないところがあります。どれくらい演奏家たちを操り、どれくらい支えているのですか。技術的なものはどれくらいで、どれくらいが学習されたもので、どれくらいが《見せるもの》なのですか。
「ジェスチャーは手段であって、目的ではありません。しばしば聴衆は、体操あるいは運動競技のようなジェスチャーに幻惑されます。でも、それを否定するつもりはありません。カラヤンのは最高に美しいけれども、非常に抑制されたジェスチャーでした。」

外形的なジェスチャーをする指揮者たちもいれば、内面に向かう指揮をする人たちもいます。一方、外形的な指揮ぶりの指揮者たちの中にも、バースタインほど非常に重要な指揮者は、おそらくいないのではありませんか。
「バースタインの指揮のジェスチャーそれ自体は、決してショー的ではありませんでした。感動しやすい性格のありのままの部分が、それほどまでにあったというだけのことです。マーラーを指揮するときバーンスタインは、音楽が泣いているところでは泣き、音楽が笑っているところでは笑っている、そのように見えました。一方、カラヤンはほとんど目を閉じ、何ものも入り込むことのできない人のように見えました。あるいは、オーケストラを魅了し、魅惑しているかのように思えました。現実には、ジェスチャーはひとつのとりきめです。ミトロプーロスはこの問題をおおざっぱに、しかしながら有用な形で定義しました。右手はリズムを生み、左手は表現をもたらす、というように。この問題を度外視した上で、腕は、指揮台の上では、精神の延長でなければなりません。ジェスチャーが精神から離れてしまったとき、力ずくであるとき、あるいは自己陶酔があるとき、要するに、指揮者のジェスチャーから何の音も聴こえてこないときは、堕落しているのです。残念ながら、今日、スター気取りやグローバリゼーション、価値の混乱といったものの中で、そういう状況がしばしば起きています。そういうことが動機となって、クライバーはもはや指揮したいと思わなくなりました。彼にとって、ブラームスの交響曲第4番の冒頭は人生への思いなのです。一方、別の人は、何の問題もなく指揮しています。けれども、大多数の聴衆にとっては、どちらも同じことです。それは受け入れがたいことです。」

そして、ムーティは?外形的なほうですか、内面に向かうほうですか。
「たぶん、仕事を始めた頃は外形的でした。私のジェスチャーがたっぷりとしている、あるいは、貪欲で意志の力が感じられると書かれていたときでした。けれども、時がたち、それは減っていっています。ときには、ジェスチャーがわずらわしく、不要とさえ思えることもあります。音楽の背後にあるものに、何よりまして価値を見ています。それは音合わせであり、聴衆が見ていないものです。私の仕事は世の中でいちばん簡単なものであり、一方でまた、いちばんむつかしいものです。不可能性の限界にあります。なぜなら、背後にかかえているのは、いつも完全な真理というものに属することだけだからです。そして、自分の意図していることを100パーセント100パーセント実現していくのは不可能です。オーケストラは動き、変化している有機的な存在だからです。」

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Wednesday, 05 July 2006

7月はマエストロの月!

W杯の興奮をかかえたまま仕事に行くのはつらいです...。

マエストロ・ムーティのインタビューが載った雑誌を入手しました。
今年65歳ということで、ほかにも出てくるかもしれません。
また追って紹介します。

Gentleman 誌 2006年7月号
La vera classe dirigente

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Monday, 26 June 2006

いつかプーリアで平穏と心の休息を

14日のDie Welt紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。
マエストロは、ドイツ語圏のメディアでこういう心情を吐露することが多いように思います。

マエストロが素晴らしい音楽を聴かせてくれることに感謝し、そして、マエストロにいつも平安が訪れるよう、心からお祈りしています。

2006年6月14日 Die Welt紙
"Karajan war besser als ich"

昨年、ミラノ・スカラ座のあなたの時代が、18年の後、突然終わりました。その帝国主義的・強権的なあり方は時代遅れだった、と言う人もいます。自分が極上に造り上げたオーケストラを失って、ときどき淋しく思っていますか。
「全く思いません。私はこのオーケストラの響を、ウィーン・フィルという着弾場所をめざして豊かにしたいと思っていました。確実な光力・目標をめざしていました。今は、音に関して理想とする演奏をケルビーニ管に伝えました。」

来年、ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭を引き受け、どちらかといえば知られていないナポリ派のバロックの作曲家を演奏します。あなた自身は名前以上のことを知っていましたか。
「いいえ。けれども、私はナポリで育ちました。そこでは、Piccini、 Paisiello、 Fiordarati、 Pergolesi、Traettaが活動していました。それらは傑作ばかりではありません。そうはいっても、いくつかは傑作かもしれません。ナポリの近くに修道院があり、Alessandro Scarlatti は彼の大部分の楽譜をそこに残しています。そこで彼の作品は、聖職者たちによって何百年もの間隠されてきました。ことによったら私の名前が助けになったのかもしれませんが、閲覧しました。私はナポリ派のバロック音楽の音を再認識したいと考えています。」

ムーティ音楽祭になるのですか。
「絶対違います。Jürgen Flimm はラベンナでケルビーニ管の公開リハーサルを聴きました。若者のオーケストラを結成するのはずっと私の人生の夢のひとつでした。私は若い演奏家達と演奏し、聴衆にリハーサル内容を説明しました。それは私にとってすばらしいことです。そうやることで、音楽がヒッチコックの映画のように非常に緊迫したものになるからです。誰もがどういう結果になるかを知りたいと思うでしょう。Flimmはこうたずねました。このオーケストラで何か若々しいものをザルツブルクに持ってくることはできないかと。ザルツブルクで歌う歌手たちは全く若い人たちになるでしょう。演出家Ruggero Cappuccioはナポリ出身です。 チマローザの《カランドリーノの帰還》とスカルラッティの作品を最初の二年のために選びました。それらは素晴らしいです。けれども、ナポリの風味はそれほどではありません。楽しませてくれることでしょう。」

ナポリ派音楽の特別なところは何ですか。
「ウィーンとナポリはバロック時代に、強固な音楽上の軸を作っていました。ナポリはナポリ王国の中心でしたが、マリア・テレジアの娘のひとりであるマリア・カロリーナの時代には、ウィーンと緊密な行き来がありました。ゲーテもナポリに向かって巡礼しました。隠れた交流を耳にすれば、実際興味深いものになりえるでしょう。《カランドリーノの帰還》はモーツァルトの《偽の庭師》と同じ台本作者です。チマローザはウィーンに来てはじめて、《秘密の結婚》でもって、ある意味、自分自身を掘り返しさえしました。それほど比類なき傑作を創作したからです。」

ほとんどすべての伝統的指揮者は古楽を長い間放棄し、スペシャリストにまかせていました。あなたはそうではありません。なぜですか。
「そうすべきでしたか?つい先ごろもヘンデルの《水上の音楽》を指揮しました。古楽運動が起きたとき、たくさんのことを学びました。かつてはヘンデルがラフマニノフのように、モーツァルトがブルックナーのように演奏されていました。全体として混乱していました。あるとき、自分に関しては、伝統的なオーケストラでもっとやりとげることができると判断しました。少なからぬ古楽奏者によれば、作品がどう終わるかは10分たてばわかるそうです。それはつまらないことです。いくつかの古楽奏法は、そうこうするうちに型にはまっただけのものに朽ち果てました。」

あなたは気難しいタイプだとみなされています。けれども、あなたと一緒にしばしば仕事をしている歌手たちは、あなたのことを本当は内気ではにかみやだと思っています。そのとおりですか。
「本当です。そのとおりです。自分のキャリアが華麗な環境のただ中で成されてきたことを思うとき、いつも自分のことを面白がざるをえません。たくさんの人々の中にいると居心地の悪さを感じます。忘れないでください、私が南イタリア出身だということを。友達は少なかったし、人生はシンプルでした。パーティやたくさんの女性のいる世界で私を見つけることはないでしょう。光のあたるところ、舞台、社交界、そういったものすべてに、私はいつまでたっても慣れることができません。」

現実に恐れていることはありますか。
「いいえ。でも、人生の時間のことを考え続けてきました。自分の原点に戻るために、どうやって時間を作り出すかを考えたのです。私が幸福に思うときは舞台にあるのではなく、舞台から戻ってくるときにあります。これは私のメランコリックな部分であり、理解されない部分です。正直に言えば、このことについてはまだ話したことがありません。私はいつもまっすぐに前方に向かって旅をしてきました。それにもかかわらず、密かに後ろを振り返って見ていました。今、どこへ戻るとまだはっきりした約束はしませんが、最後には平穏と心の休息を見つけるつもりです。」

ナポリがあなたにとって隠遁の場所を意味しているのですか。
「プーリアのカステル・デル・モンテの近くに、ささやかな土地を買いました。この八角形の城は子供の時に見た最初の最大の物でした。この城がそこから見えるような土地を、もしかしたら見つけることができるかもしれないと、人生を通じてずっと思ってきました。先ごろ、見つけたのです。そこには14の小さな羊飼い小屋が建っています。私のいちばん楽しい仕事は、今は、これらの小屋をできるだけ完璧に再建することです。フリーな日ができたらすぐに、自動車を使って600キロを走り、午後をそこで過ごします。こっそり言えますが、それが本当のムーティです。」

あなたの人生において音楽上の原体験はありましたか。
「ええ、スビャトスラフ・リヒテルとです。彼はある日、私の妻の誕生日に花束をもってラベンナにやってきました。私達は彼が来るのを遠くから見ていました。彼は花束を背中に隠していて、最後の瞬間になってはじめてさっと前に差し出したのです。彼はいつもびっくりさせたがっていました。私とモーツァルトのピアノ協奏曲で共演したときにも、いつも私のほうを見上げてたずねていました。「驚きましたか?」びっくりしたでしょう?彼の音楽はそういうものだったのです。」

ベルリン・フィルにとってあなたは高くつきすぎる、というのは本当ですか。
「ベルリン・フィルはカラヤンとやっていくことができました。彼ははるかにギャラが高い人でした。そして、素晴らしい人でした。私がベルリン・フィルをもはや指揮しない理由は全く単純です。フィラデルフィアとスカラ座で非常にていっぱいだったので、ほかへの客演をおさえなければならなかったのです。私の愛情はウィーン・フィルに注がれています。けれども、ベルリン・フィルにはいつも尊敬の気持ちを抱いていましたし、彼らは常に非常に友好的で、私を繰り返し招聘してくれました。いつか、再び戻るつもりです。いつもただこうたずねられるだけです。『どうしてプッチーニをほとんど指揮しないのですか。』次のようには決してたずねてきません。『グルックをそんなに指揮して、なんて素晴らしいのでしょう。』人には選択があります。」

カラヤンはあなたよりも素晴らしいと本当に言うつもりですか。
「ええ。カラヤンは世紀の指揮者3人のひとりです。他の二人は、即興の演奏のセンスがその理由のフルトベングラーと、精度を強度に求めたトスカニーニです。カラヤンは響きを創り出し、デカダンスといえるまで洗練させました。響きのための響きでした。もちろん、彼はフレージングについて、レガートについて、音楽の美しさについて、巨大な文化を新しく造り出しました。この3人は我々すべてに影響を与えました。たとえ、彼らの価値を信じていないような人々についても、です。それに比べれば、私の業績はつつましやかなものです。私はこの3人の巨人のリーグではプレーしていません。」

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Sunday, 18 June 2006

15日の記者会見で語ったこと

マエストロ・ムーティが、15日のラベンナ音楽祭モロッコ公演で語ったことを紹介します。

「外国からきたものすべての前で従属的な態度をとることが、しばしば見られます。我々の文化の伝統が絶対的な水準にあることが忘れられています。けれども、イタリアには沈黙のうちに考えを表明することを愛するという、毅然として賢明なところもあります。ラベンナ音楽祭とケルビーニ管は別にして、我々の国を、距離をおいて、しかしながら、愛情と関心をもって見つめています。」

2006年6月16日 Corriere della Sera 紙
Il 17 luglio in Marocco
Muti: guardo l’Italia con una certa distanza (sempre con affetto)

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Friday, 16 June 2006

Die Welt 紙インタビューに関するイタリアの報道

14日のDie Welt 紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューについて、イタリアの新聞が報じていました。
イタリアの新聞は、ウィーン・フィルを愛している、スカラ・フィルを惜しむ気持ちもなければ、ベルリン・フィルを指揮したいという気持ちもない、と書いています。
マエストロのウィーン・フィルへの愛情はよく知られたところですけれども、Die Welt紙では、ベルリン・フィルについては、いつかまた戻ってくる、と言っているのですが...。

Die Welt 紙ではこうです。

ベルリン・フィルにとってあなたは高くつきすぎる、というのは本当ですか。
「ベルリン・フィルはカラヤンとやっていくことができました。彼ははるかにギャラが高い人でした。そして、素晴らしい人でした。私がベルリン・フィルをもはや指揮しない理由は全く単純です。フィラデルフィアとスカラ座で非常にていっぱいだったので、ほかへの客演をおさえなければならなかったのです。私の愛情はウィーン・フィルに注がれています。けれども、ベルリン・フィルにはいつも尊敬の気持ちを抱いていましたし、彼らは常に非常に友好的で、私を繰り返し招聘してくれました。いつか、再び戻るつもりです。いつもただこうたずねられるだけです。『どうしてプッチーニをほとんど指揮しないのですか。』次のようには決してたずねません。『グルックをそんなに指揮して、なんて素晴らしいのでしょう。』人には選択があります。」

WELT: Ist es wahr, daß Sie zu teuer für die Berliner Philharmoniker sind?

Muti: Sie haben sich Karajan leisten können, der war viel teurer. Und besser. Der Grund, weshalb ich die Berliner Philharmoniker nicht mehr dirigiere, ist ganz einfach: In Philadelphia und an der Scala war ich so beschäftigt, daß ich meine Gastdirigate beschränken mußte. Ich gestehe, meine Liebe gehört den Wiener Philharmonikern. Aber die Berliner Philharmoniker, die ich immer verehrt habe, waren stets sehr freundlich und haben mich wieder eingeladen. Eines Tages werde ich wiederkommen. Man wird immer nur gefragt: "Warum dirigieren Sie so wenig Puccini?" Nie: "Wie schön, daß sie so viel Gluck dirigieren." Man hat die Wahl.

上記インタビューは後日紹介します。

2006年6月15日 Corriere della Sera 紙
SU «DIE WELT»
Muti: non mi manca l’orchestra della Scala

2006年6月15日 La Stampa 紙
Muti «Non rimpiango la Scala»

(さあ、W杯イングランド戦です!)

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Wednesday, 14 June 2006

いつかベルリン・フィルを振りに戻る

今日のDie Welt紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。

ザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭のこと、自分の性格や南イタリアの自分のルーツのこと、ベルリン・フィルやカラヤンのことなどを語っています。

歯を磨きながら読んでいてふきだしてしまったのが、マエストロが自分の性格についてたずねられた部分でした。
気難しいタイプだと見られているが、共演した歌手達が実はムーティは内気ではにかみやなところがある、と言っている、そのとおりなのか、とたずねられて、E' vero.と答えていました。親しい友人は多くなくても、自分のことをわかってくれている人たちとよい世界を築いていることがインタビューからうかがわれます。
これに近いようなことを、キアラさんもインタビューで別な形で答えていました。マエストロのファミリーはそれだけである意味閉じた世界を持っていて完結しており、他人がはいりこむ余地はほとんどない、というようなことを語っていました。ボーイフレンドと自分の家族の関係のことをたずねられたときの答えでした。

また、ベルリン・フィルのことをたずねられて、友好的だし招聘もしてくれている、いつか戻って指揮する、と言っていました。
待っています、マエストロ!

時間が全然なくて、きちんと紹介できなくてすみません。今夜以降、紹介します。

2006年6月14日 Die Welt 紙
"Karajan war besser als ich"
Riccardo Muti über die Einsamkeit des Dirigenten, seine Liebe zum Barock und die neue Freiheit nach der Scala

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Tuesday, 13 June 2006

《ドン・パスクァーレ》の意味するもの

マエストロ・ムーティは今年12月に、ケルビーニ管とドニゼッティ《ドン・パスクァーレ》を上演する予定です。
1994年3月にスカラ座で《ドン・パスクァーレ》を上演するにあたって、作品について少し語っているインタビューを読みました。マエストロにとっては、1972年のザルツブルク音楽祭、1972年のフィレンツェ、そして1982年のEMI録音に次ぐ《ドン・パスクァーレ》でした。
そこではナポリ派音楽との接点が語られていて、ケルビーニ管にとっては、12月の上演はザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭でのナポリ派音楽上演につながるものであることが、推測されます。

Panorama 誌 1994年4月3日号
L'opera secondo Muti

《ドン・パスクァーレ》について話しましょう。何があなたにとってこのオペラを特別なものにしているのですか。
「要するに、二つの軌道が重なっているということです。一方では軽い喜劇性があり、それは素朴で、ほとんど田舎風です。もう一方では、メランコリーな気分があります。これがドニゼッティの本当の気質です。」

イタリア音楽において《ドン・パスクァーレ》はどんなことを象徴していますか。
「ナポリ派オペラブッファの偉大なすべての伝統が到達した地点にあたります。ベルガモ生まれのこの作曲家がもつメランコリーそのものによって、ナポリ派のオペラブッファがちょうどやわらげられたということなのです。このふたつの要素はもう序曲の冒頭からずっと読み取れます。フル・オーケストラによる瀑布のような和音でもって、序曲は始まります。名人芸が爆発する、というようなものではありませんが、爆笑があります。つまり、オーケストラが笑うのです。その後はこうです。静寂があり、チェロのソロによってそれは破られます。第三幕のテーマを始めるのです。『4月の宵はなんと甘美なことだろう』です。魅惑的です。全員で爆笑したあとに、深いメランコリーを表すようなこの響きが孤独を奏でるというのは、魅力的です。」

何がこの作品を傑作にしているのですか。
「台本は最高に気品ある形に仕上がっています。テキストは非常に美しいです。けれども、とりわけドニゼッティはここでは、少ない手段でもって劇的なもの、ドラマ性について明確にすることができています。たとえば、作品の様々なテーマを取り入れた序曲の後、オーケストラはほとんど止まります。あるフレーズを構築しようと試みているかのように見えます。一方では、弦と管楽器の間は絶えず遮られています。ドニゼッティは沈滞した状況についてこのようにイメージを描いてみせています。ドン・パスクァーレの家庭生活は質素で寂しいものでした。けれども、あることがやってきました。マラテスタが老いたしまりやに花嫁を見つけてきたのです。ドニゼッティにとっては、ホルンと木管楽器の音で十分でした。それがリズムを変え、変化の差し迫ってきた感じを見せています。」

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Monday, 05 June 2006

聴衆との新しい関係―スタンパ紙のインタビュー

昨日のスタンパ紙に載ったマエストロ・ムーティへのインタビューには、興味深いテーマがいくつかありました。

そのひとつが、聴衆との新しい関係を作る試みです。
クラシック音楽を難解なものと感じる聴衆に対して、音楽をかみくだいてわかりやすい形で提供して聴衆の心をひきつける、というものです。その方策が公開リハーサルであり、lezione-concerto、講義をしながらのコンサートです。
また、同じことを意図して、聴衆との間からよそよそしさをとりはらおうと、ケルビーニ管のコンサートでは、マエストロをはじめとして演奏家たちが、敢えて燕尾服にこだわっていないらしいこともわかりました。

マエストロは若い聴衆を獲得しようと、これまでにもスカラ座などで、高校生以下の若者達向けに公開リハーサルを行ってきました。
また、上演するオペラについて、大学で演奏つきの講演を行っています。
さらに、かつては、コンサート形式のオペラをフィラデルフィア管で演奏していました。
どれも、聴衆を音楽の世界に誘い、引き込もうとする、強い意欲に基づくものです。
マエストロへの深い敬意があらためてわきあがってきます。

以下、スタンパ紙のインタビューの一部を紹介します。

2006年6月4日 La Stampa 紙
RICCARDO MUTI
«Dal 2007 porterò a Salisburgo i misteri della Scuola Napoletana»

彼ら(訳注・ケルビーニ管)とはどんなふうに仕事をしているのですか。
「オーケストラにおいてはどのようにしているものなのか、芸術に関することや、演奏に関することと向き合っているときの心構えはどのようなものなのかを、教えています。トスカニーニの教えです。彼の助手をしていた、私の師であるAntonino Votto から学びました。ケルビーニ管のメンバー達とは、音楽について、文化について、社会について語っています。」

音楽を演奏しながら「社会について語る」ことが可能なのでしょうか。
「オーケストラは家族のような姿をしています。異なった考えの間で合意を見出さなければならず、最高のうまさと最終的な解釈を獲得しなければならず、それらを最大限の調和の中で表現しなければなりません。オーケストラは社会の同義語でもあります。みんなに共通の目的を達成するにも、様々な実現の仕方があります。すべての人は、他の人の自由を侵すことなく、自分自身の自由を表現するのです。改まった部分が少なければいいのに、と考えています。それは、しばしば聴衆と音楽の接触をだいなしにしてしまいます。」

舞台と聴衆の関係を変化させるのですか。
「この煩わしい燕尾服も障害をなしています。インド風の服や黒や白の上着のようなものが燕尾服にとってかわると、よそよそしさが少なくなります。聴衆との間に生産的な関係を定める必要があります。聴衆を、カルナク神殿にいる部外者にしてはいけません。彼らがエジプトの象形文字を読むのを助け、意味を理解するよう助け、そして、この文字の神秘、謎の中にはいっていくのを助けるべきです。聴衆との関係は、演奏家のこのような誠意、演奏家の説明能力にまさに基づくものになっていくに違いないでしょう。公開リハーサル、lezione-concertoは、わからない音楽への恐怖よりも一層魅力的なものとして、聴衆をひきつけます。」

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Tuesday, 30 May 2006

南イタリアのユーモアを備えた人

ル・モンド紙にマエストロ・ムーティの短いインタビューが載りました。

価値がないと侮る指揮者がいるけれども、その構築の美しさに魅せられ、非常にシンプルだけれども深さがある、とマエストロが語るケルビーニの音楽、ミサ曲Chimayを、サン・ドニ音楽祭でフランス国立管と演奏します。
スカラ座を去ったことについて、芸術上の理由からではなく、ある種の政治的、組合に関した要素によるものであり、自分はそこを去って悲しんでいるのではなく、解放感を持っている、音楽がもはやできないようなところには、そこにいる理由がない、と語っています。
自分自身のことについては、冷たくて近寄りがたいといわれているが、それは非常に厳格な教育を受けてきたことによる、実際には内気だ、中身は全く違う、そして、歳を重ねるにつれて、ナポリっ子としてのユーモアをもった面が表面に現われてきている、自分は南イタリアの人間だ!、と語っています。
年老いたルビンシュタインとの出会いという、素晴らしい思い出をもったコンサートがあると語っているのを、興味深く読みました。
彼はマエストロがフランス国立管とチャイコフスキーの《ロメオとジュリエット》を演奏したのを聴き、アレグロが格闘のように聴こえたのははじめてだと語り、予言のような助言をマエストロにしたのだそうです。スカラ座を指揮しなければいけないと。

時間がないので、夜にまた紹介します。

2006年5月30日 Le Monde 紙
Riccardo Muti, une baguette sobre et cotée

(この記事に続きはありません。)

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Monday, 29 May 2006

パオロ・ロッシがゴール!

マエストロ・ムーティがロンドンで《ドン・パスクァーレ》を録音していたときは、ちょうど1982年のワールド・カップ決勝戦にあたり、そのときの楽しいエピソードを語っているインタビュー記事を読みました。
その部分を簡単に紹介します。

序曲を録音していると、マエストロのそばにある赤い電話がかんだかく鳴り、録音が中断されました。マエストロがいったい何事かと受話器をとると、サー、パオロ・ロッシがドイツに対して得点したことを喜んでお知らせします、との声。マエストロがオーケストラ(フィルハーモニア管)にそのことを伝えると、みんな大歓声をあげたとのこと。もちろんイタリアのためのものであり、誰もがドイツを打ち負かしたいと思っていたからです。別の部屋ではもう、打ち上げが終わっていました。すなわち、フレーニ、ヌッチ、そして同行していたクリスティーナさんが祝杯をあげ終わっていました。また、オーケストラの演奏をモニターしていた技術陣の傍らには小さな受像機があって、試合の映像が流れていたのにもマエストロは気づきました。つまり、マエストロが言うには、我々にとっては、この録音はワールド・カップの序曲としていつまでも残るだろう。

これは1982年の夏に行われた長いインタビューです。
その中で、話題のひとつとして、スカラ座で数ヵ月後に《エルナーニ》を上演することがとりあげられ、かつてスカラ座の《清教徒》でフレーニと共演するはずだったのが、実現しなかったという話から始まって、フレーニとは《ドン・パスクァーレ》の録音で一緒だった、素晴らしかった、という話になり、《ドン・パスクァーレ》についてマエストロが語り、そして、このワールド・カップ話に至った、というものです。

1982年のワールド・カップは、プラティニのファンには決して忘れることのできないものですが、Azzurriのファンとしても、コンティ、カブリーニそしてロッシにほれぼれした大会でした。
今年は、マエストロにとって、どんな大会になるのでしょうか。

MUSICA VIVA 誌 1982年10月号
Cinque anni dopo

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Sunday, 28 May 2006

エンツォ・ビアージによるインタビュー(1)

エンツォ・ビアージによるマエストロ・ムーティへのインタビュー(6ページ)を、何回かに分けて紹介します。
イタリア語の記事を少し読めるようになって、マエストロのたどってきた道をこうして少しずつ追っていけるのが、とても嬉しいです。でも、当時読めたら、もっと嬉しかったのに、といつも思います...。

マエストロがインタビューで子供時代のことを語るたびに、イタリアの習俗を知ることができて、とても興味深いです。
また、マエストロの好きな詩人、レオパルディの詩には日本の自然を思わせる描写がいくつも出てきます。マエストロが語るモルフェッタの様子を読みながら、マエストロにも、日本の秋の夜の静けさ、虫の音を聞いてもらいたい、とまた思ってしまいました。

Amadeus 誌 1991年6月号
Un uomo 《semplice》

マエストロ、モルフェッタでの子供時代はどんなふうでしたか。
「独特な風土をもった地で過ごした子供時代でした。その風土は、市民文明とテレビの出現で大部分が失われました。12世紀の古い大聖堂がいまだに残って建ち続けています。それはロマネスク様式のプーリア風の建物で、二つの鐘楼をもっています。この地域のアドリア海は深い緑色をしていて、大聖堂は真っ白な姿で深い緑色をしたアドリア海にそびえています。
有名な聖金曜日と聖土曜日のプロセッションがまだ残っています。プロセッションは聖ステファノ教会を深夜に出ていくもので、ヴァティカンの不幸な声明が長年にわたってこの夜のルートを禁じ、何世紀にもわたる伝統を破壊した後に、復活しました。プロセッションには人々が群がり、銀でできた4本の大型のろうそく台に囲まれた、キリストのなきがらの像を見ようと待っています。市民による楽隊が、地方で最も有名な葬送行進曲の演奏を仰々しく大々的に始める中、プロセッションが暗闇の中を出発していくのを人々は待っているのです。
私はナポリで生まれました。母がナポリ出身で、プーリア生まれの医者と結婚していながらも、やはり息子達はナポリっ子にしたいと思っていました。モルフェッタに生後14日たって戻ってから、17歳までそこで暮らしました。モルフェッタは一方の部分をオリーブの木とアーモンドの木の間に抱かれ、もう一方は海に抱かれ、静寂が存在している時には、セミの鳴き声で目が覚め、コオロギの鳴き声で眠りに就くようなところでした。四旬節の到来が町に告げられるときのことが思い出されます。農夫の引く車につながれた犬の首輪の鈴が鳴り、その犬の田舎における飼い主達も一緒に到着し、ピッコロ、太鼓、大太鼓の伴奏のもと、トランペットが高らかに鳴り響いてあたりを震わせます。詩情に満ち、非常に劇的迫力に溢れた土地であり、幸せな子供時代でした。
私は5人兄弟で、父は現在84歳です。若い頃からアマチュアのテノールで、ヴェルディの《レクイエム》やロッシーニの《スターバト・マーテル》を人前で歌いました。家族と後期中等学校の教師達、高等学校の教師達に囲まれて青春時代をすごしました。教師達は学校の教室外でも自分の生徒たちと過ごすことを愛していました。
晩の散歩は学校の友達を無邪気に探すことと、討論ディスカッションとに分かれていました。ディスカッションは哲学、文学、政治について教師達と行いました。教師の何人かは論争仲間であり、モルフェッタ出身としておそらく最も有名なGaetano Salvemini のイデオロギーの仲間でした。
すべてが、いわゆる市庁舎や公共の公園をはてなくめぐりながら、なされていたのです。司教の神学校の監督時計が公園の上に姿を見せていました。それはこういうことを思い出させました。mortales vos esse, dicet quae labitur hora.時は流れ、避けられない死を思い出させる。」

子供だったムーティは、いつ音楽を発見したのですか。
「我が家では、オペラの中継があるときには、いつもラジオが流れていました。こうして、我が家の子供たちはみな、一般教養として勉強するようにひとつの楽器を割り当てられました。私には、何十年も前の晩、7歳のときにヴァイオリンが与えられました。それは聖ニコラの夜、12月7日のことで、プーリアではBefanaベファナが贈り物をもたらします。目が覚めたとき、贈り物を見て大きな落胆を味わいました。夢みていたおもちゃのかわりに、ヴァイオリンがあったからです。出だしはのろのろと展開していきました。窓の向こうで、友人達が我が家の向かいの広場でサッカーに興じているのをみながら、ヴァイオリンの練習をしていました。間違った試みが長く続いた後、父が私の先生の勧めに従って勝負をあきらめたとき、一方、母は専門ではなかったにもかかわらず、不思議な直感でもって、私が音楽の勉強に専心することを決めました。『あと2ヶ月、ためしてみましょう。』この60日間が、今日に至るまでの私の全人生について、責任を負ったのです。
というのも、突然何かが起こり、私はヴァイオリンに魅せられ、嫌だったソルフェージュの習得も非常に速くなり、1年がめぐると、もう、ヴィヴァルディの協奏曲でソリストを務めて人前で演奏するほどまでになりました。」

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エンツォ・ビアージのインタビュー

イタリアの著名ジャーナリスト、エンツォ・ビアージがマエストロ・ムーティにインタビューしたことがあることを、それを引用した記事などで知り、読みたいとずっと探していました。これがそうだろうか、と思われる記事を読みました。後日紹介します。
添えられている何枚かの写真の中に、ラベンナの自宅の人形劇場の前で撮った、マエストロとクリスティナさんの写真がありました。
タイトルは、ビアージがマエストロに、指揮をしていないときにはどんな人ですか、とたずねたのに対して答えたものからとられています。「飾らない、素朴な人間です。」 Una persona semplice.

Amadeus 誌 1991年6月号
Un uomo 《semplice》

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Sunday, 21 May 2006

Petruzzelliへの想い

14日の南イタリアの新聞に載った、マエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。

今回のケルビーニ管のツアーに関連して、マエストロのインタビュー記事を随分読みました。その中心は、やはり、Peruzzelli再建と、ケルビーニ管の成長ぶりでした。

また、いくつかのインタビューで語っていましたが、2010~2011年のシーズンまでスケジュールが決まっていることには、あらためて驚きました。その中に来日公演は何回あるのでしょうか。マエストロの演奏を聴く次の機会が待ち遠しいです。

2006年5月14日 Corriere del Mezzogiorno 紙
Muti: «Bari svegliati! Vedo una città inerte e un teatro Petruzzelli ancora da ricostruire»

マエストロ・ムーティとバーリの間の愛情は相互のものだ。感動は最高潮に達している。バーリはリッカルド・ムーティを不安とともに待っている。彼は、サン・ニコラ大聖堂で行われたスカラ・フィルとの忘れがたいできごとの後、10年たってバーリに戻ってきて演奏会を指揮する。明晩21時に、この有名な指揮者は彼の創ったケルビーニ管l'Orchetra giovanile Luigi Cherubiniを率いて、Piccinniの指揮台に立つ。チケットは何日も前に売り切れている。「この劇場で1950年代に《オテロ》を見たことを思い出します。不完全な思い出し方でなければ、Napoleone Annovazziが指揮していました。」きちんと思い出している。ムーティからは、バーリは明日、Petruzzelli再建の遅れについての言葉も待っている。モルフェッタ生まれのマエストロにとって大切な劇場で、サン・ニコラでのコンサートのころに、すでにこの状況を「スキャンダル」であるとはっきりさせていた。「世界をツアーしてまわっていて、Peruzzelliがなぜまだ再建されないのか、理由をたずねられて説明できないことに、今は困惑さえ感じるようになっています。休息の場であるロビーがまず修復されているだけだと、多少わかっています。普通は舞台から始めるものです。今は急ぐ必要があります。最高の専門家の助言のもとで進行していくよう、願っています。今再建された劇場は、ここから200年後に向かって光を放つべきです。」

バーリはどこに自らを投影すべきですか。
「現在、日本と中国は、西洋音楽に対して開かれた途方もないシーズンを送っています。バーリはオリエントへの門であり、この現実との架け橋になるために懸命になるべきです。残念ながら、じっとしている町だと感じています。プーリア人の特性を知っているので、驚いています。」

おそらく、政治が文化に対して示し続けた無関心さを考え、不信感が根付いたのでしょう。
「問題は一般的な特徴をもっています。何十年も、文化に対する一層大きな関心を訴えています。たとえ全体的に中身のない言葉でもってそのことが語られていたとしても、最近の選挙キャンペーンでも、それはありました。」

次の文化相はどのようなことを期待されているのでしょうか。
「劇場を再開し、新しいオーケストラの誕生を支援することです。若者達を育てる必要があります。このためにケルビーニ管は生まれました。」

バーリがそのオーケストラの根拠地になる可能性がありましたが、それについては何もなされませんでした。なぜですか。
「私は気持ちの問題からバーリを選びました。けれども、その後、音楽のはいらない論議がなされました。歓迎されなかったとわかりました。残念です。貢献できると考えていたからです。」

オーケストラにプーリア出身のメンバーはいますか。
「首席チェロ奏者Massimiliano Martinelliはモルフェッタ出身です。メンバーはイタリアのあらゆる地方の代表です。ともかくも、音楽の名のもとにイタリアがひとつになったのです。」

ケルビーニ管はずっと続けられる活動場所ですか。
「目的は育成です。他のオーケストラと競うものではありません。ここには30歳まで留まれます。あらゆるレパートリーに取り組んで身につけた後、他の道をつかみます。」

バーリでは、プログラムはモーツァルトを通って、ロッシーニからドボルザークに広がります。オーケストラの潜在能力を尊重した、素晴らしい名刺がわりであり、チケットです。
「《ウィリアム・テル》序曲が導入になりました。名人芸の限りをもって演奏し、それだけでオーケストラのショーウィンドーの代わりを務めます。すぐにオペラのレパートリーにも取り組むことになるでしょう。今年の終わり、ラベンナでドニゼッティの《ドン・パクァーレ》でケルビーニ管を指揮します。ヴェネチア市長のCacciariは、このプロジェクトをできればフェニーチェ座にもってきたいと考えてます。」

フェニーチェ座は芸術監督のSergio Segaliniが、彼はMartina Franca音楽祭の任務をちょうど引き受けていますが、Fus削減に抗議して芸術監督を辞任しました。けれども、Giampaolo Vianello総裁との意見の相違もあったようです。あなたもスカラ座で、フォンタナとの間に問題がありました。バーリでは、Guido Pagliaro芸術監督と Giandomenico Vaccari総裁の間に会話がありません。どうしてイタリアの歌劇場では、芸術監督と総裁の関係がこのようにむつかしいのでしょうか。
「問題は次のことから生じています。イタリアでは劇場のピラミッド構成が、アメリカやドイツのそれを尊重していません。両者では音楽監督が頂点にいます。我々のほうは、総裁、芸術監督、音楽監督(存在するとき)、そして理事会をめぐって巨大な組織があり、劇場をがちがちに固めています。役割は混乱しています。総裁は芸術監督の役をしたがります。きまりの上では上演の芸術面に責任があるからです。一方、芸術監督は独立性を持っていなければならないはずです。でも、持っていないのです。あちらの言い分では、音楽監督には何の信頼性・権威もなく、音楽監督個人からもたらされる信頼性・権威さえもないのです。ここに問題があります。」

Petruzzelliがいつかは正常に活動を始めたら、バーリに手をさしのべることを受け入れてもらえますか。
「私は2011年まで仕事がいっぱいですし、すでに、多くの申し出に対してノーと言いました。バーリのための責任を予定する事は全くないように思えます。けれども、遠くからであれ近くからであれ、その運命は私の興味を引き続けるでしょう。なぜなら、時々、プーリアに戻る必要を感じるからです。それは、カステル・デル・モンテの近くに自分のためにささやかな土地を持っていて、許されるときには、そこで休息しに急いで向かうためです。」

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Saturday, 20 May 2006

マエストロの理想とするオーケストラの響き

遅くなりましたが、南イタリアの新聞に14日に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。
マエストロが理想とするオーケストラが語られています。オペラと交響曲を交互に演奏し、地中海文化が表現する音とウィーン・フィルが代表する中央ヨーロッパの音とが合わさった響きを持ったオーケストラ。
また、火災によって閉鎖されたTeatro Petruzzelliについて、一刻も早い再開を強く望んでいることがうかがわれます。
地中海をテーマにした映画祭への6月5日の出演でどういうことを語るのか、とても興味深いです。

2006年5月14日 Gazzetta del Mezzogiorno 紙
IL MAESTRO DOMANI AL PICCINNI

「Petruzzelli が再建されうるようならバリに戻ると私が約束した?マエストロ・ムーティがそう言っている? でも、この約束はこの劇場の現状からして、むなしく返上します。しかし、私の青春時代を形作った町に、友人達と知人達の砦の中に、音楽をもってくる緊急性を感じていました。あなたたちのところに戻って、Piccinniで指揮することは本当に喜びです。」

マエストロ、PetruzzelliとPiccinniはあなたにとって最初の劇場です。どんな思い出が記憶の中から現れてきますか。
「Petruzzelliに最初に行ったのは2歳か3歳のときで、御者の膝の上で《アイーダ》を聴きました。彼は患者を訪れる父の馬車に同行していました。それは、モルフェッタからバリへの私の最初の旅でした。一方、意識して聴いた最初のオペラは、Napoleone Annovazzi指揮のヴェルディ《オテロ》でした。13歳になるところだっだでしょう。でも、このオペラは私のキャリアの象徴です。なぜなら、フィレンツェ五月音楽祭で指揮し、スカラ座で指揮し、そしてザルツブルクで指揮するからです。」

バリは、ルッカから始まりレッジョ・カラーブリアで終わるケルビーニ管とのイタリア・ツアーの中で、最後から二番目です。このツアーは、ケルビーニ管のメンバーたちの熱狂と若い情熱によって活を入れられた、音楽におけるジーロ・ディタリアと名づけていいかもしれませんね。
「このツアーはケルビーニ管の誕生1年目を刻するもので、どこでも称賛を博していますし、どこでも承認を得ています。この若い音楽家達の団体は、我々の国の未来と希望を象徴しています。彼らはイタリアの北から南までの各地からやってきて、1年間で非常に成長し、あらゆるところから承認されています。2007年にはザルツブルクの聖霊降臨祭音楽祭に招かれ、1700年代のナポリ派の音楽家達を再認識する、3年間のプロジェクトを実行します。チマローザとスカルラッティから始まり、続けてプーリア出身のTraetta、 Piccinni、 Leo、 Paisielloといった、ヨーロッパの最も重要な部分であるフランスからロシアにかけて、この時代に高い評価を得て非常に精力的に活動した作曲家達に、焦点をあてることになります。」

Piccinni劇場でのプログラムについてコメントを。
「プログラムは重要な動機なくしては絶対に生まれていません。作品は祝祭的、記念的な意味を持たせるために選ばれ、あるいは、オーケストラの資質を明るみに出すために選ばれ、また、聴衆に好まれているために選ばれます。音楽は、演奏する者と聴く者の間でかわされる感動の交換であり、直接のコミュニケーションであるということが、常に示され続けている必要があります。モーツァルトのプログラムは、その生誕250周年記念へのオマージュの必要からですが、モーツァルトはあらゆる音楽家達にとって糧であることも理由です。彼の作品をやりすごして、この音楽家という職業に就くことはできないでしょう。私はオーボエ奏者としてMartin Gabrielを招きました。ケルビーニ管にとってだけでなく、管楽器奏者達にとっての基準となりうるからです。これはこの若者達、彼らはすでに本当の専門家になっていますが、その彼らにとって根本的なことです。すなわち、Gabrielのようなオーボエ奏者を聴き、去年ラベンナ音楽祭でVadim Repinのようなバイオリン奏者と向き合って共演し、今年はMstislav Rostropovichのような最高の人と向き合います。ドボルザークはロマン派交響曲の支柱で、あらゆるオーケストラが取り組まなければならない作曲家のひとりです。 彼の作品はブラームス同様むつかしく、恐るべき練習の山です。《ウィリアム・テル》序曲はイタリアへのオマージュ、敬意を表しています。ケルビーニ管とともに我が家イタリアを見つめているからです。各パートのソロの資質をあらわにさせる、非常にむつかしい作品です。首席チェロ奏者でモルフェッタ出身のMassimiliano Martinelliが持つ弓の運びを聴いてほしいし、フルート奏者とトロンボーン(訳者:トランペット?)奏者と弦楽器の厚みの各響きの輝かしさを聴いてください。特に弦楽器の中では、プーリア出身のMaria Saveria MastromatteoとFederica Fersiniの存在を喜んで指摘したいと思います。それに、このロッシーニの作品には自由に向かって抑えがたく羽ばたくところがあります。」

1年間一緒に音楽を演奏してきて、「ケルビーニ管」の「音」について語れるようになりましたか。
「私はケルビーニ管に、自分が持っている音の概念を伝えようとしています。それは非常に個人的なもので、異なった軌道の組み合わせによる理想的な音から生まれたものです。その軌道は私の地中海文化から発し、ウィーン・フィルとの30年以上のつきあいの恩恵によるオーストリア文化と合わさる方へ向かっています。地中海の明るさに染まった中央ヨーロッパの音です。今、オーケストラの音がますますグローバル化している中で、これとわかる特徴をもっていると思われる音です。」

次の予定では、ドニゼッティの《ドン・パスクァーレ》で、イタリアで再びオペラを上演することに戻ってきますね。2004年にスカラ座再開で、サリエーリの《見いだされたエウロパ》を指揮して以来のことです。
「12月にラベンナで上演し、それからピアチェンツァ、ほとんど確実なところで2007年にバリとヴェネチアで上演します。ケルビーニ管のこの若者達にオペラと取り組む可能性を与えるのは重要なことです。ほとんどすべての国際的なすぐれたオーケストラが『オペラ』と『交響曲』を交互に行っているように、こうすることで、ケルビーニ管も柔軟性と完璧性を備えることができるからです。《ドン・パスクァーレ》は非常にむつかしいオペラで、膨大な負担を求められます。けれども、このプロジェクトは若さを象徴したものになるでしょう。若いオーケストラ、若い歌手、若い演出家によるものになります。」

マエストロ、バリに戻りましょう。バリの都市開発史において長い間懸案だったPunta Perottiを倒壊させましたが、一方、Petruzzelliは再開を待っています。
「この問題が何年も解決されていないことについて、納得のいく理由があるとは思いません。バリのように文化的な都市が、Petruzzelliのような劇場を閉鎖したままにしていいとはいえないでしょう。バリはレバント諸国の入り口であり、オリエントに向かって開かれていなければならず、大きく前進しているオリエントと、商業的、経済的、文化的交流を企てなければいけません。何を待っているのでしょう?多分バリの人々自身が状況を支配すべきでしょう。民主的なことではありません。ひとつの町が劇場を閉鎖させ、文化の享受が欠如しているようなことは、民主的でさえありません。」

いずれにしても、6月5日にTelecomのProgetto di Italiaの Mezzogiorno di cinema フェスティバルで、ヴィスコンティの《若者のすべて》について語るためにPetruzzelliに戻ってきます。
「その映画のために作曲したニーノ・ロータの音楽についても語ります。ロータは私にとって忘れることのできない師のひとりでした。」

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Friday, 19 May 2006

カラーブリアの海とフィリアノーティを称賛

レッジョ・カラーブリアで17日、チレア賞とボッチョーニ賞という栄誉を授与されたマエストロ・ムーティの興味深い発言が、別の新聞にも載っていました。おそらく、市庁舎で栄誉を受けた折の談話だと思われます。

ウィーン国立歌劇場から《アドリアーナ・ルクブルール》の指揮依頼を受けていることが、この記事にも書かれています。チレアは指揮したことがない、とも言っています。

また、スカラ座騒動は1年以上前の過去のことであり、未来のことを語ろう、と言っています。
バレンボイムについては、偉大な音楽家であり友人であり、何度もスカラ座へ招こうとした、と語っていますが、バレンボイムも、マエストロから何度も招聘を受けたと語っていました。

レッジョ出身の若いテノール、フィリアノーティについても称賛しています。彼のキャリアはマエストロとともに歩みはじめ、《ニーナ》で共演したと言っています。声は非常に美しく、全くまじめでプロフェッショナルに徹した性格で、成功していくためのすべての資質を備えている、豊かな糧を備えている、とほめていました。

マエストロが感動したというカラーブリアの美しさ、ナポリ生まれだからそこの海も素晴らしいけれども、カラーブリアの海はとびぬけて素晴らしい、というマエストロの感動を、わたしもいつか味わってみたいと思いました。

2006年5月18日 Il Quotidiano 紙
Il maestro a Reggio per il concerto al Cilea
Prima presenza assoluta in Calabria

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Tuesday, 16 May 2006

むつかしいのはモーツァルト

マエストロ・ムーティが60歳を迎えた折のインタビュー記事を入手しました。
記者が驚くほどの若々しさと髪の自然な美しさ、黒々とした様は、当時も今もかわらないように思います。

そのインタビューによれば、そんなマエストロにとって、愛していながら、最もむつかしいのがモーツァルトのダ・ポンテ三部作とのこと。
そのマエストロは、結局、このモーツァルト記念年に《フィガロの結婚》《魔笛》しか上演しないのでしょうか。
スカラ座の秋の《ドン・ジョバンニ》はベルリン国立歌劇場との共同制作になる、と昨日のスカラ座記者会見では報じられていました。

追って紹介します。

il Venerdi 誌 2001年7月20日号
60anni...Vi sembro il tipo da festeggiarli?

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Sunday, 14 May 2006

マエストロを待つバリ

15日にケルビーニ管とバリを訪れるマエストロ・ムーティのインタビューを、いくつかの新聞が載せていました。
Petruzzelliが再開されるまではバリの劇場では演奏しないと、その再開を心待ちにしているマエストロが、《アイーダ》を幼い頃に聴き、《オテロ》をティーンエージャーの頃に聴いた想い出を語り、ケルビーニ管の成長ぶりを語り(モルフェッタ出身のメンバーの名前をわざわざあげています)、プログラムの意味を語るなど、興味深い内容になっています。
インタビューでは、12月のケルビーニ管とのオペラ上演に関して、ラベンナ、ピアチェンツァに加えて、さらにバリ、ヴェネチアを上演の地としてあげています。アンコーナについては、シーズン開幕公演がいわゆる落下傘部隊によって行われることについて、同地の歌劇場オーケストラ、合唱団が疑問を呈していることが報じられています。このことが影響しているのでしょうか、マエストロは名前を挙げていませんでした。

追って紹介します。
(体調不良につき、記事紹介が不十分ですみません)。

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ケルビーニ管の成長に献身的なマエストロ

11日にクレモナで行われたケルビーニ管との公開リハーサルの後、18時に楽屋で行われたマエストロ・ムーティへの短いインタビューを紹介します。マエストロはリラックスして穏やかな様子だったそうです。

2006年5月12日 La Provincia di Cremona 紙
"La libertà è un bene prezioso"
Muti: felice di poter dedicare tempo alla crescita della Cherubini

マエストロ、今回で5回目のクレモナ訪問ですね。
「1960年代はじめに妻が歌うのを聴きに来てから、この劇場を訪れ続けています。」

そして、指揮者として戻ってきました。
「クレモナはいつも私に温かいところです。モンテヴェルディがここで生まれたことでこの町は有名になっています。さらに、楽器工房についても、世界でクレモナの名前は伝説的になっています。」

ミーナについても称賛の言葉を述べていましたね。
「彼女はその世界では偉大なアーティストで、彼女の声は私の青春時代とセットでした。」

誕生1年を迎えたケルビーニ管について話しましょう。
「他のオーケストラと競うためにではなく、若い音楽家たちを育てるためのオーケストラであるとはいえ、非常に成長しました。」

イタリアにはこのような現実の中でも未来があると本当に思いますか。
「そうだと思っています。オーストリアがそのことに気づいています。ケルビーニ管を2007年のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭に参加するよう招聘しました。」

ムーティの将来としては、再び大きなオーケストラの常任になることはありますか。
「今のところ、数少ないオーケストラと一緒に仕事ができて幸せですし、ケルビーニ管の成長に時間をさけて喜んでいます。数日前、ワシントン・ポスト紙が私のことを、バレンボイムの後継者としてシカゴ響を率いるだろう、と書いていましたが、現実は、今のところこのように順調ですし、自由であることはとても貴重です。」

イタリアの音楽の将来をどのように見ていますか。
「私は悲観主義者です。スペインは新しい劇場を作っているというのに、我々は閉鎖させています。政治家達は文化についていっぱい口にしていますが、実際には何もしていません。これは建設的なことの表れではありません。」

マエストロについていつも興味深く思うのが、新聞をいろいろ読んでいることです。あるいは、そういったことをきちんと知らせてくれる人たちがいるのかもしれません。
マエストロのイタリア文化への憂慮はいつまでも続くようです。

イタリアの政治と文化状況については、5月7日の朝日新聞に記事が載っていました。
イタリアの4月の総選挙が文化行政にどう影響するかをとりあげたものです。
2006年5月7日 朝日新聞
補助金削減に苦しむイタリア文化

マエストロ・ポリーニはニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで、総選挙の結果について、自由が進むことの始まりだ、と語っていました。

上記朝日新聞記事の記者、郷富佐子さんのコラムはいつもとても面白くて楽しみです。中東へイタリア軍の取材に行ったかと思うと、マエストロのフェニーチェ座再開公演も聴きに行き、演奏が始まった中、ハイヒールを脱いで廊下を走ってボックスにかけこんだり、とその取材の幅の広さは記者として当然とはいいながらも、文章の魅力的なタッチとともに、記事の興味深さにつながっています。いつかマエストロの取材をしてもらえないかなあ、と期待しています。

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Wednesday, 03 May 2006

自由になって実現させる夢(1)

遅くなりましたが、4月はじめにレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを、何回かに分けて紹介します。

シカゴ響の2007年秋のヨーロッパ・ツアーではイタリアにも寄る予定だそうです。ミラノは訪れるのでしょか。
ケルビーニ管はイタリア各地で演奏しています。ミラノを訪れるのはいつでしょうか。
去年のマエストロのスカラ座お別れ公演を想い出して、あれこれ考え、マエストロへ想いを馳せた一日でした。
あのコンサートを聴けるようにしてくださった方々に、あらためて感謝します。

2006年4月3日 la Repubblica 紙
Muti, la libert ritrovata
Il maestro, dopo il divorzio dalla Scala, parla dei suoi progetti e del divino Mozart

「モーツァルト?人生と世間を扱った芝居です。今日性は何世紀たっても不変です。我々の誰もが、いつの時代でも、何のことかわかるといっていいような場です。人間について語るけれども、その声は神である人です。なぜなら、神とは完璧だからです。」リッカルド・ムーティはモーツァルトや1700年代の音楽、特にナポリ派の音楽について語り、ナポリ派の音楽は「無視することはできないのに、過小評価されている」文化の架け橋となって、モーツァルトとつながっていると言う。数々の成功にいろどられた現在、そしてその成功のほとんどはまさにモーツァルトを象徴しているが、ツアー、コンサート、プロジェクトの内をムーティは語った。探究し、深く掘り下げることへの強い意志に仕向けられて語った。その意志は彼によれば、音楽に向き合う際の「道義上の根拠」であると、いつも定義づけられている。
モーツァルトをプログラムにして、ドイツ圏で最もすぐれたオーケストラのひとつであり、伝説に彩られたオーケストラ、バイエルン放送響を二晩指揮したばかりだ。ガスタイクの大きなホールの聴衆は総立ちになって、ムーティに喝采を送っていた。マエストロは小澤征爾の音楽祭に客演するために、すぐに日本へ旅立つ。ほんの数週間前にはウィーン・フィルと合衆国、カナダ、メキシコへツアーをしている。ウィーン・フィルは彼をモーツァルト指揮者として選び、冠を授けたのである。ニューヨーク・タイムズ紙は彼の演奏をこう評した。「評論家の何年もの記憶に痕跡をとどめるような体験」であると。そして、同紙の別の記事はムーティをこう特徴づけた。「我々の時代において、音楽的に最も素晴らしく、技術的にもすぐれた指揮者のひとり」
マエストロは新しく手に入れた自由と身の軽さという財産に満ち溢れ、晴れ晴れとしていた。今の彼の国際的な眺望からは、19年間の後辞任することになった去年のスカラ座での論議は、遠いことのように見える。「今は常任の仕事は望んでいません。そういうものはこれまで提供されてきましたし、今も申し出を受け続けていますが、興味はありません。27歳のときにフィレンツェ五月音楽祭の音楽監督になることから始まり、それ以来、決して途切れたことがありませんでした。今は、かつて音楽監督だったロンドンのフィルハーモニア管やフィラデルフィア管のようなオーケストラと、一緒に仕事をしたいと考えています。そして、何十年にもわたる、ふたつとないオーケストラであるウィーン・フィルとの仕事があります。さらに、しばらく前からはミュンヒェンの素晴らしいオーケストラ、バイエルン放送響との仕事があり、フランス国立管とは5月31日にサン・ドニでケルビーニのla Messa di Chimay を演奏します。シカゴ響とは2007年にツアーを行い、イタリアにも寄ります。そして、ニューヨーク・フィルと年間4週間演奏します。常任の仕事からこのように解放されて、喜んでいます。勉強し、発見することが続けられるのを嬉しく思っています。少し前から深めてきた夢を実現するためです。」

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Sunday, 23 April 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(7)

マエストロ・ムーティがトスカニーニに関する本の中で語った、トスカニーニ観の最後の部分を紹介します。
モーツァルトの二台のピアノのための協奏曲は、今年のザルツブルク音楽祭でも、マエストロはスカラ・フィルと演奏したときと同じソリストを迎えて演奏します。

Toscanini secondo me
Mauro Balestrazzi
L'ESPOS, 2005

たとえば、ヴェルディのレクイエムでさえ、このイタリア的なるものが宗教性の前におかれています。ソプラノが二度目に "Libera me; Domine, de morte aeterna"と祈るとき、それはほとんど呪詛であり、ドイツ的な世界では理解不能のように思えます。そこでは、ブルックナーに見られるように、神との関係には常にしかるべき距離がおかれています。我々は神にこう言って攻撃するのです。「あなたが私をこの苦境に陥れたのです。これを和らげるものを私にください。」従って、ヴェルディの宗教感覚がカトリック的ではなく普遍的であることが、常に理解されるとは限りません。ほかでもない彼が代表する国民、長所も短所ももった国民の魂を通じて、彼の宗教感覚が表現されているのです。トスカニーニはこれをとてもうまく表現し、NBCのようなアメリカのオーケストラをも「イタリア化」することができています。彼の音についてのアイデアやフレージングについての概念は、このように非常に強固なので、オーケストラのメンバー達に伝わったのです。最後の考察です。トスカニーニはいつも、次のような音楽の重要性を強調したいと考えていました。それは、精神を表す言葉としての音楽、文化的な言葉としての音楽、魂の言葉としての音楽の重要性であり、あれやこれやのイデオロギーの道具としての音楽ではありませんでした。音楽は喜びに至る可能性がありますし、悲しみや陶酔に至ることもありえます。けれども、政治集会になってはいけません。少し前、私はモーツァルトの《二台のピアノのための協奏曲変ホ長調》を、イスラエル出身とパレスチナ出身の二人をピアニストにして指揮しました。音楽を通じて、殺戮しあっている二つの国民は同じ言葉で話すことができ、対話することができます。音楽には政治的な主義もなければ、宗教もなく、このときのように、結びつけるものだからです。

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マエストロにとってのトスカニーニ(6)

マエストロ・ムーティが、トスカニーニに関する本の中で語っていたことの続きを紹介します。
テンポについて、マエストロはかなり柔軟な考えを持っているようです。考えすぎると薬屋を開局できる、とは真剣に考えすぎるな、本末転倒になる、という意味でしょうか。
トスカニーニのエピソードも、臨機応変に、でも、誇張すれば、変幻自在でカプリチョーソがイタリア的なるものと言っているように思えて、面白いです。
続きがあり、それでやっと終わりです。長くかかって、すみませんでした。

Toscanini secondo me
L'EPOS

偉大な演奏家や偉大な指揮者について語られる場面で、私はそのテンポについて批判することは決してしません。演奏家がすべての音に特徴を付与し、意味を持たせ、それに確信をもち、維持できるのなら、それが正しいテンポです。そのとき、その時間、その会場、そのオーケストラにふさわしいテンポだということです。別の例をみましょう。ベルリンで戦中に演奏された、フルトベングラー指揮のブルックナー交響曲第7番のアダージョの録音があります。それは演奏面から言えば、彼のほかの演奏はこのレベルにはなく、フルトベングラー自身にとっても、異なった演奏といえるものです。異なっているというのはおそらく、この偉大な文化人の人生において、すべてが堕落したと誰もが感じるからでしょう。彼はヒンデミットのような多くのユダヤ人を擁護した偉大な文化人で、ナチスの鉤十字章に囲まれた平土間を前に、このようにすぐれた作品を指揮することに恥じを感じていたに違いない、そういう人だからです。たとえそうであれ、この人の魂は、自分自身さえも超越してしまうような状態にありました。別次元に運ばれていたのです。テンポについてよく議論する人がいると、ヴォットーが毎回繰り返し言っていた一節が私の心に浮かびます。「考えすぎると、薬屋になります。」トスカニーニに戻りましょう。フィラデルフィアでトスカニーニの指揮で演奏したことのある年老いた演奏家が、こんな逸話を私に話してくれたことがあります。オーケストラとの最初のリハーサルで、しばらくしてから、トスカニーニは演奏を止め、メンバーたちに満足しながら言いました。「あなたたちは、本当にサラブレッドです。」二度目のリハーサルで演奏を止めて、再び言いました。「昨日あなたたちになぜサラブレッドだなどと言ったのか、理解できません。」私は過去に何度か、オーケストラを指揮することにおけるイタリア的なるものについて、語りました。それはヴォットーを通じてトスカニーニから私達に届いています。音楽におけるナショナリズムは信じていませんが、国民に関するある種の特徴はあると思います。たとえば、ウィーン・フィルがヴェルディの音楽を演奏するとき、ヴェルディの響きと構造を通じて、ウィーン・フィルがどんなものかが感じられます。それは、興味深いものがたくさんつまったヴェルディですが、我々のヴェルディではありません。我々のはもっとからっとしていて、明確なヴェルディです。私はレチタティーヴォについて、いつもヴェルディをモーツァルトにたとえています。モーツァルトのレチタティーヴォは、その言葉と音楽の関係において完璧です。ヴェルディのレチタティーヴォも同じだと言っていいでしょう。ワーグナーの世界とは異なります。ワーグナーにおいては、言葉は音楽の流れの中で拡大し、言葉だけで事足りるような瞬間さえあると言っていいでしょう。もちろんこのように言うのが誇張であるのは明らかでしょうが。一方、ヴェルディではモーツァルト同様、そのようなことは決して起こりません。ある言葉はある音が鳴るところでだけ生きているし、ある音はある言葉がきちんと語られるところでだけ生命を持っています。オペラの世界におけるイタリア性は、まさにトスカニーニが我々イタリア人指揮者に教えてくれたことですが、国民と言葉、感性について、ある種の特徴を必然的に証明していると言っていいかもしれません。

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Tuesday, 11 April 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(5)

マエストロ・ムーティがトスカニーニに関する本の中で述べていることの続きを、紹介します。

マエストロのヴェルディ《レクエイム》をフィルハーモニア管とのLP録音ではじめて聴いたとき、《怒りの日》のテンポの速さに度肝を抜かれました。マエストロなりの理由のあるテンポ設定だったのですが、南部イタリアの苛烈さにおそれおののきました。
今は、東京のオペラの森での公演のように、少し落ち着いたテンポですけれども、それでも、大太鼓があのテンポの中で鳴り響く恐ろしさは、ほかの指揮者からは全く感じられないものです。
だからこそ、ラクリモサのなすすべのない深い悲しみが際立つのでしょう。


Toscanini secondo me

L'EPOS

トスカニーニのテンポがしばしば論議を呼んでいたことは知っています。絶対に正しいテンポというものはありません。何世代にもわたって、直接伝えられている話をウィーンで聞いたことがあります。ブラームスが自分の交響曲を指揮すると、演奏する晩ごとに演奏の仕方が非常に異なっていたとのことでした。即興がまだ間違いではない頃だからです。では、異なった晩の異なった演奏における正しいテンポとは何でしょうか。適切なテンポとは、聴いたときに適切だという印象を与えるものです。そして、その瞬間に、演奏家自身の中で頭と心が一緒に拍子を刻んでいるならば、それは自然なテンポだということになります。多くの場合、我々はあることを表現したいと思い、頭のほうは別のことを勧めるといったふうで、この状態は落ち着きません。英語で言うところのuncomfortableな状況が、オーケストラや聴衆に伝えられます。ベルリン・フィルで、エミール・ギレリスとベートーベンのピアノ協奏曲第5番《皇帝》を演奏したときのことを思い出します。リハーサルでギレリスの第二楽章のテンポは、楽譜ではAdagio un poco mosso ですけれども、全く心配になるくらいゆっくりしていました。オーケストラのメンバーたちは、彼が夢うつつの状態ではないかとたずねあうかのように、互いに顔を見合わせはじめました。私はもちろん、ソリストの後に従いましたが、誰もがこのテンポは馬鹿げていると感じていました。休憩時間にギレリスにこうたずねました。「本当にこんなにゆっくりでなければならないのですか。」彼は、ロシア人に典型的なこんな感じで、それは時として誇張と思えるようなものですが、私に答えました。「ええ、すべての音は空の星のようでなければならないからです。」演奏会でギレリスは信じられないほど魅力的なものを創り出すことができました。しびれるような感じの気持ちよさがありました。それは、抜きん出た技術によって、ゆっくりしたテンポの中でもちこたえた、開放感のようなものです。緊張感を保つのは速いテンポならば簡単ですが、遅いテンポではむつかしいからです。このコンサートの2ヵ月後、ギレリスは亡くなりました。それですべてを了解したのです。彼の注意力がやや失われ、彼の節回しがやや誇張に満ちていることはすぐに感じ取れました。ギレリスは我々には理解できないであろう次元にはいりこんでしまっていたのでした。それは生の次元というよりは、死のほうを意味する次元でした。このとき、彼にとってはあのテンポが適切だったのです。ほかのピアニストがそのテンポで演奏すれば、どんなに素晴らしい演奏家であっても、状況は異なっていたでしょう。生を享受するような状況では、あのテンポは失敗だったことでしょう。

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Thursday, 06 April 2006

イタリアの音楽教育を憂える

かつて音楽の友誌にも邦訳が載ったことのある、マエストロ・ムーティのイタリアの記事を読みました。

この中でマエストロはイタリアの音楽教育を憂えています。日本では音楽が義務教育の授業で教えられているのに、イタリアではそうではないことを知って非常に驚いたことを思い出します。そして、そういうことを憂えるマエストロに大きな敬意を感じたのでした。

今こうやってあらためてイタリア語の記事を読み、ラベンナでくつろぐ何枚かの写真を見ると、30代半ばのマエストロは本当にかっこいい!!音楽の友誌で読んだ当時、憧れの気持ちを募らせたことが鮮やかに蘇ってきます。長い長いマフラーを首に巻いて、庭でボクサー犬のラッキーと戯れている写真など、全く青年そのものです。
それが、今はこんなに立派で、誰をも魅了する姿になって......。なんだか、とても感慨深いです。

インタビューは追って紹介します。

Domenica del Corriere 誌 1977年3月10日号
La Musica in Italia.-I concertisti piu' famosi:1-Riccardo Muti
Le Nostre Orchestra ? Meglio Non Parlarne.

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Tuesday, 04 April 2006

オーストリア通信も報じたレプブリカ紙

今日のAPA通信が、昨日のレプッブリカ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューを紹介していました。
マエストロは、どこの音楽組織とも、長期の緊密で束縛を受ける関係を持つつもりはないこと(フィルハーモニア管、フィラデルフィア管、ウィーン・フィルなどは除いて)、ナポリ派音楽再興に貢献したいこと、を特にとりあげて書いていました。

2006年4月4日 APA通信(Salzburger Nachrichten)
Riccardo Muti will keine festen Bindungen mehr

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Monday, 03 April 2006

音楽におけるイタリアとナポリの重要さ

今日のレプッブリカ紙にマエストロ・ムーティのインタビューが載っています。
紙面1ページをインタビューにあてたもので、大きな指揮姿の写真もあります。スカラ座を辞任したのは1年前でしたから、そういう意味合いもあったインタビューなのかもしれません。

今後の計画を語る中で、ザルツブルク聖霊降臨音楽祭について語り、そこで焦点となるナポリ派音楽を語り、ナポリ派音楽はヨーロッパ音楽の中心だった、モーツァルト、ハイドン、シューベルトもイタリア音楽の影響を受けていた、と述べ、シューベルトとモーツァルトにおけるイタリアの影響を語り、モーツァルトの偉大さを話しています。
テーマはみごとなまでに、イタリア・ナポリへの誇り。
読んでいて、目新しいことは何もなかったにもかかわらず、心に深く残るインタビューとなりました。
追って訳します(来日中は無理かもしれません...)。

ウィーンそのもののようなシューベルトでさえもイタリアの影響を受けていたのか、という記者の質問に、交響曲第六番を例にあげ、そのテンポの速さ、輝かしさは明らかにイタリアから感化を受けている、ロッシーニの影響もみられる、と語っていたのを興味深く思いました。

2006年4月3日 la Repubblica 紙
Muti, la libert ritrovata
Il maestro, dopo il divorzio dalla Scala, parla dei suoi progetti e del divino Mozart Includerà i capolavori sconosciuti di quel magnifico periodo partenopeo che tanto significato hanno avuto nella cultura austriaca
Fuori da impegni stabili coltiva i suoi sogni, come quello per il Festival di Salisburgo 2007: riscoprire la musica del Settecento napoletano
Anche Schubert, il più viennese dei viennesi, fu debitore alla musica italiana
Solo la nostra lingua ha un flusso ininterrotto capace di trasformarsi subito in canto

バイエルン放送響の演奏会評も3紙ほど読みました。
これも時間ができたら紹介します。

生涯のアイドル、プラティニをとりあげた本が久しぶりに出ました。彼もサッカー選手の常として、先祖の国でもあるイタリアにあこがれた人でした。帰宅してマエストロの印象深いインタビューも読めたし、いい1週間になると嬉しいな、と思います。

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Sunday, 02 April 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(4)

トスカニーニに関する本に載っている、マエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。
タッカーとの共演については、先に紹介しました。

Toscanini secondo me
L'EPOS, 2005

中にはトスカニーニに完璧に適しているとはいえない作曲家達がいるでしょうし、彼がそれほど確信をもって演奏しているとはいえない作曲家達もいるでしょう。では、たとえば、ドビュッシーの《海》を見てみましょう。フランス人指揮者の絶大な演奏を聴いたとします。あるいは、カラヤンがパリ管を振った演奏を聴いたとしましょう。そして、トスカニーニのを聴いてみます。おそらくそれほど魅力を感じないでしょう。けれども、結局はいちばんしっくりくるように思えます。説明のできない不思議さです。楽譜を追いながら聴けば、理由がわかります。彼の演奏は作品を畏敬している、作品に忠実な解釈だからです。トスカニーニは音符の背後に絶対のものを求めています。彼は楽譜に冷淡であったことは決してなく、それどころか、そこには信じられないほど大きなエネルギーが感じられます。どんなピッチカートも、無意味に奏でられることはありません。そして、彼がなぜ、楽譜に無関心だったり興味を抱かないことに我慢できないかが、わかります。人生の最後には、トスカニーニは、あらゆる音符を自分自身が生きていくための力であるかのように感じていました。彼がもたらす感動は決して享楽的なものではなく、感傷的傾向に至ることもなければ、耽美主義に至ることもありません。そして、厳格さがあります。演奏家はしばしばそれを忘れています。自分自身に満足しているからです。それは、自分の指揮の美しさや効果を考えているような指揮者に起こるものです。しかし、そこでは理想は消え去り、あたかも物体であるかのように音楽が演奏家達にパスされていくといっていいでしょう。トスカニーニは練習での大きな労力を通じてすべてのことを獲得していました。彼は本番の演奏の最中よりも、リハーサルでのほうが非常に魅力的でした。彼をよく知る古い指揮者たちはそう言っていました。音楽には完璧性は存在しません。けれども、私が思い出すことのできる様々な演奏の中で、奇跡の例を示さなければならないとしたら、トスカニーニが指揮した《オテロ》の第一幕を引き合いに出したいです。彼の演奏の中では、《オテロ》はすべて傑出していますが、第一幕は神にしかあのように演奏できないと言っていいでしょう。ほかではできません。様式にも、テンポの相関関係にも、オーケストラの入念さにも、信じられないほど完璧なものがあります。言葉と表現について完全にコントロールされたものがあります。トスカニーニは、外国の歌手さえも明瞭なイタリア語で歌わせていました。彼の演奏では、言葉は常にはっきりとしていて、朗々と歌われていました。私はリチャード・タッカーと共演したことがあります。彼は自分の中にこの教えを持っていました。トスカニーニと音楽の上で接触した人たちは、そのことによって、ある意味刻み込まれたものがあるのですが、彼らは並外れています。タッカーは私と《仮面舞踏会》、ヴェルディの《レクイエム》、《道化師》で共演しました。それは私が29か30歳の頃で、彼はほとんど60歳でした。私はそのプロフェッショナルぶりに感銘を受けました。彼は非常に几帳面で、私が言ったことすべてをボーカルスコアに書き込み、印をつけていたのです。《仮面舞踏会》のリハーサルで、私は彼が高音を少し長くのばして歌うことを認めました。彼は厳格なトスカニーニ派でしたが、そうは言っても一方では、テノールの心情として聴衆を喜ばせたいとも思っていました。立ち上がった彼は「ありがとう」と私に言い、それから再び席に座りました。タッカーは並外れたフレージング術を持っていましたし、言葉を明瞭にして歌える素晴らしい力量を持っていました。ヴォットーが言っていた一節があります。トスカニーニが歌手やオーケストラに、しばしば繰り返していたものです。「弱音で演奏すればするほど、言葉はますます強く発しなければなりません。」非常に多くの場合、歌手は弱音で歌うときに言葉も希薄にします。そうではなく、弱音で演奏すればするほど、一層明確に発音されなくてはならないのです。音量が減る一方で、強さは増さなくてはなりません。明白なことに思えるほど単純な秘訣ですが、単純なことを私たちは忘れていたのです。

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Sunday, 26 March 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(3)

トスカニーニに関する本に載っているマエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。
チェリビダッケのマーラーへの辛辣な評価は有名です。この本でも、注の中でチェリビダッケの言葉が引用されています。「私にとってマーラーの作品はすべて、逝ってよし、andare a quel paese といえるでしょう。」との言葉には驚くばかりです(K.Umbach 著、Celibidache, l'altro maestro、Symphonia 出版、1997)。

Toscanini secondo me
L'EPOS, 2005

マーラー問題―決して演奏しないこと―はトスカニーニに関連しているだけではありません。ドイツ系の偉大な指揮者達でマーラーを振らない人達がいるからです。フルトベングラーはほとんどそうだと思います。チェリビダッケは生まれはドイツではありませんが、ドイツで修練を積んでいて、マーラーを一音たりとも演奏しなかったし、チェリビダッケの判断は激しいもので、マーラーについては壊滅的な表現をしていました。チェリビダッケに関してはこうです。彼はトスカニーニを非常に嫌っていて、音楽にとって有害だとさえみなしていました。私がフィラデルフィア管の音楽監督だったとき、チェリビダッケがフィラデルフィアにやってきて、カーティス音楽院のオーケストラと1ヶ月活動しました。ジュリアード音楽院と並んで合衆国で最高の学校です。ニューヨーク・タイムズ紙は彼にインタビューを行い、合衆国に来るのがどうしてこれほど遅れたのかをたずねました。彼はアメリカ文化には興味がなかったと答えていました。それから、トスカニーニがもたらした退廃への対抗手段を何とかして講じようと決意していた、と言い加えました。私はそうではなく、トスカニーニ、フルトベングラー、カラヤンは、終わったばかりの世紀における、オーケストラ指揮者の三本柱だと思っています。トスカニーニは、作品の意図を理解し、実現しようとしていて、作品に対する神聖なまでの敬意、作曲家への奉仕における頑固さをもっている点で根本的な存在です。もちろん、彼の演奏は年ごとに非常に異なっているとも言えたでしょうが、彼としては、作曲家の上を行くことはないという確固たる信念を常に持っていました。フルトベングラーにおいてはそのファンタジーがもたらした反響の大きさが重要でした。作品が演奏と同時に生まれつつあるかのようなセンセーションをもたらすことができたのです。その一方で、カラヤンはオーケストラの演奏の仕方において偉大でした。その後誰もが彼の教えの恩恵を受けています。現代、どの指揮者もこの3人を度外視することはできないといっていいでしょう。その理由は3人で全く異なります。指揮者をその時分で語るのなら、トスカニーニは年を経ても古びていかない人です。クレンペラー、ストコフスキー、クナッパーブッシュ、ワルターと比べてみると古びていかない人で、フルトベングラーでさえもトスカニーニに比べれば、古びていっていました。彼らの演奏を聴くと、おそらく魅力的だと感じられるでしょうが、時代遅れだと感じられます。私達の嗜好は別にして、です。幸運なことに私達は変化しますが、同様に嗜好も変わるからです。それにひきかえ、トスカニーニはいつまでも現代的であり続けています。

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Friday, 24 March 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(2)

トスカニーニに関する本に載っている、マエストロ・ムーティのインタビューの続きを紹介します。
トスカニーニは楽譜に手を入れていた、とよく言われている非難に対する、ひとつの考察を行っています。クライバーの回答もこのことに触れていました。

Toscanini secondo me
L'EPOS, 2005

作品への忠誠の問題は深く掘り下げるに値するものです。ニューヨーク・フィルの指揮者の楽屋には、額縁に入れられたドビュッシーの《海》の楽譜の1ページがあります。そこにトスカニーニは、自分の手でトランペットを2本加えています。一方また、そこにはベートーベンの交響曲第2番の1ページもあって、そこではグスタフ・マーラーの手によってトランペットのいくつかの音が削除されています。そして、下にアルトゥーロ・トスカニーニとペンで署名されたコメントがあります。unworthy of such a musician 『あのような音楽家にふさわしくない』。トスカニーニのマーラーに対する批判は、ベートーベンの楽譜に手を入れたからです。それはドビュッシーの楽譜を訂正したことと矛盾するように見えます。それについてはこんなふうに説明できるかもしれません。オーケストラ指揮者の人物像がプリマドンナのそれに非常に似ていた時代において、トスカニーニの道義的な態度は作曲家に奉仕するものでした。ストコフスキーを考えてみましょう。全くのところ、トスカニーニは彼のことが好きではありませんでした。その解釈・演奏が極めて自由だったためです。この傾向の最も突出したものがフルトベングラーの演奏で、ほとんど即興と言っていいほどでした。もちろん、純粋な意味での即興ではありません。背後に非常に厳格な枠があったからです。けれども、フルトベングラーがそのファンタジーの点で、ドイツ語で言うところの『疾風怒濤』の中で自由であったように、同様にトスカニーニも書かれた音符に忠実であろうとしていました。トスカニーニが言うところのcome e' scritto 『書かれているように』とは、けれども、作品に対して、盲目的に服従することでもなければ、がむしゃらであまり知性のない文献学的な態度でもありませんでした。トスカニーニによれば、作曲家のために改良する必要性が楽譜にあるときには、彼は手を加えていました。ことによるとホルンを補強したり、ひとつだった楽器を倍にして、オーケストレーションの観点からは弱いところがあったような楽譜を補強するためだったりします。けれども、フィナーレを一層効果的なものにするために、トロンボーンを加えたり、シンバルや大太鼓の打数を増やしたりはしませんでしたし、拍子の間やアクセントについて勝手を許すようなものでもありませんでした。ピアノと書かれていれば、オーケストラはピアノで演奏しなければなりませんでした。ピアニッシモと書かれていれば、ピアニッシモで演奏しなければならなかったのです。この点で、彼の細かな注意と留意は厳格でした。音楽を作ることに対するトスカニーニの関心は、現代作品に対して非常に積極的な者のそれでした。彼は現代作曲家として非常によく引用される、ガーシュインの作品を指揮していますし、初演を非常に多く行っています。

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Sunday, 19 March 2006

マエストロにとってのトスカニーニ(1)

トスカニーニに関する本に掲載されていた、マエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。
この本によれば、インタビューは2002年11月から2004年5月の間にとられています。

Toscanini secondo me
Mauro Balestrazzi
L'EPOS, 2005

トスカニーニとの最初の重要な出会いはミラノ音楽院ででした。そこで私は1966年に、Bruno Bettinelli に作曲を習い、Antonino Votto にオーケストラの指揮を習って、卒業証書を受け取っています。Votto は1920年代にスカラ座でトスカニーニの助手を務めていました。Votto は最初の授業でこう言いました。「二拍子はこう振ります。」そう言いながら、動きを我々に見せました。「四拍子はこう、三拍子はこうです。みなさん、コースはこれで終了です。」指揮者は生まれついてのものであり、指揮者になるのではない、ということを我々にわからせるための、逆説的なやり方でした。Votto はトスカニーニから受け継いで自分のものにした、非常に素晴らしい教えの数々を、我々に伝えてくれました。彼の授業は技術的学術的な特徴を持ったものではありませんでした。コースの間中、頻繁にこんなことを繰り返し言っていました。「トスカニーニはこうしていました。」「マエストロはこう言っていました。」こうやって我々は、この偉大な系統、トスカニーニ流儀と直接出会ったのです。トスカニーニについては、もちろん、レコードで知りました。次に初期の頃に映像化されたものが出ました。それで我々は彼の指揮姿を見ることができたのです。彼の動きは右腕を大きく動かすもので、楕円形を描くような感じでした。とても簡単でシンプルでしたが、まねできないものでした。同様に手首の使い方も重要で、それは昔の指揮者に典型的なものでしたが、Votto はマエストロの次の言葉を繰り返しながら、しばしば回顧していました。「オーケストラのことはまさにここ、手首で感じなければいけません。」Votto は次のように言っていました。トスカニーニは自分の指揮の技術のヒントを Arthur Nikisch の観察から得ていたと。このように非常にイタリア的な音楽家が、古いドイツ派の先駆者の原点に戻っていたというのは、興味深いことです。トスカニーニの演奏の正確さは卓越した技術から生まれました。けれども、彼が我々に遺した最も大切な財産は、音楽に対する倫理的なあり方です。そこから作曲家への尊敬と楽譜に対する忠誠がもたらされています。トスカニーニのキャリアの最初の頃、彼の態度は批評家や聴衆との非常に険しい闘いを主張せざるを得ませんでした。それは、芸術的価値の肯定を特徴とした改革を、歌劇場にも課す必要性から生まれました。アンコールの許容を拒んだことは、非常に多くの否定的な反応を引き起こしましたが、彼にとっては音楽上必要なことでした。作品の凝集性を損なう可能性を持った中断をなくして、作品の継続性を尊重するためだったのです。

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Friday, 17 March 2006

el sonido Muti

メキシコのメディアがマエストロ・ムーティにインタビューを行ったようで、とても興味深く読みました。
その中に、el sonido Muti、ムーティ・サウンドという言葉が出てきたのが面白かったです。
また、指揮台に立つことへの恐れ、演奏前の恐れについてもたずねています。
どちらも、ここまでになったマエストロにたずねたということもあって、ちょっと意表をつくような質問でした。

朝で時間もないため、追って紹介します。
(スペイン語は講座などで習ったことがなく、入門書と辞書、イタリア語の知識だけで読んでいるので、記事の紹介が不十分で残念だし、申しわけなく思います)

2006年3月16日 Noticias Oaxaca
"El universo está lleno de música": Muti
La música no es una propiedad, una bandera política o un cheque al portador para lograr fama y dinero. Es difícil definirla, pero está en cada partícula del universo, es puro sentimiento y nadie está ajeno a su presencia

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メキシコのメディアでのインタビュー

火曜日に、メキシコのオーストリア大使館での式典(モーツァルトのメダルをメキシコの音楽家達に授与するもの、受賞者のひとりVillazonは欠席)に名誉ゲストとして出席したマエストロ・ムーティのスピーチは、ここでも簡単に紹介しました。

インタビューをそのときにとっているメキシコのメディアがありました。写真付。

スピーチで話したようなことのほかに、オーケストラのグローバリゼーションについて話しています。
グローバリゼーションは避けることのできない現象だけれども、音楽を演奏する際には、幸いなことに、そういうことはない、音楽家はグローバリゼーションに反対している、オーケストラも指揮者もそれぞれが固有の個性を持っている。

音楽がエリートのものではない、というマエストロの言葉には、当たり前のことながらも、感銘を受けました。音楽は人々の共有財産であり、コンサートに行ける余裕のある人もない人も等しく享受すべき、というインタビューでの言葉と考えが、クラシック音楽を普及させるマエストロの活動、公開リハーサルを行い、演奏付の講演を行い、大画面での演奏会中継を行うマエストロの活動を支えているのだと、あらためて思いました。

大使館でのセレモニーでは、求められて一緒の写真を撮られたりすることなどもしていたそうです。人気のある世界的な指揮者として魅力全開、といったところでしょう。
25年ぶりにウィーン・フィルがメキシコを訪れることの意義がどれほど大きいかが、大統領の演奏会出席などとともに、とてもよくわかる記事の数々でした。

http://www.jornada.unam.mx/2006/03/16/a04n1cul.php

2006年3月16日 La Jornada
En entrevista con La Jornada, el director aborda la actualidad del arte sonoro
Es mentira que esté en crisis el mundo sinfónico: Riccardo Muti
''En Europa, la música de concierto se enseña en las escuelas como elemento de formación esencial de los niños''
No es para las elites, sino un bien para todos, enfatiza el artista italiano

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Sunday, 12 March 2006

ウィーン・フィルへの想い(2)

2日のトロントの新聞に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの後半を紹介します。

ヴォットーの指揮に関する講義については、マエストロは、"Toscanini secondo me"の本のトスカニーニに関するコメントの中でも冒頭に披露していて、読んでいて大笑いしたものでした。
「二拍子はこう指揮します。四拍子はこうです。みなさん、コースはこれでおしまいです。」とヴォットーは最初に言ったそうで、学生達が度肝を抜かれた様子が目に浮かぶようです(それとも、当たり前だ、というような顔をしたのでしょうか)。

マエストロ・ムーティとウィーン・フィルの、つかず離れずの程よい距離と幸せな関係が、これからも末永く続き、いい演奏をわたしたちに聴かせてくれるよう、心から願ってやみません。

2006年3月2日 The Toronto Star
Orchestral manoeuvres in the dark

柔軟性に関していえば、ムーティはウィーン・フィルに再び高い評価を与える。それはオペラ・ピットの中でのオーケストラの仕事における、順応性に帰するものだという。彼は言う。「このオーケストラはリハーサルなしで40から50のオペラを演奏することができます。コンサートでと同様にオペラでも、多くの解釈の可能性に対して開かれたオーケストラなのです。」

「そして、彼らは歌い方を知っています。トスカニーニはいつも言っていました、『歌え』と。それは、歌うということを意味するだけでなく、音楽を活き活きとしたものに保つことも意味します。それでも、緊張感は失われてはなりません。オペラを演奏した経験のないオーケストラの多くは、このことを忘れるのです。ウィーン・フィルは世界で最も素晴らしいオーケストラのひとつです。毎晩歌っているからです。

「これは特にモーツァルトに当てはまります(モーツァルトの協奏交響曲はRoy Thomson Hallのプログラムに登場する)。モーツァルトの音楽は常に劇場的な面を持っています。宗教音楽においてさえもそうです。」

ムーティ自身、自分の経歴を、シンフォニックなオーケストラ活動とオペラの世界の活動とのふたつの間で、ほとんど等分にしてきている。オペラの世界の活動は、彼の祖国イタリアで最も偉大な歌劇場、ミラノのスカラ座で音楽監督を務めた激動の19年間で頂点に達している。そこでの活動は、昨年、そこを突然去ったことで終わった。

厳格な基準を護っていたために、あの奇妙な権謀術数のうずまく歌劇場の中で、彼は必然的に敵を作った。数年前にオペラ・ニュース誌が脚本家Albert Innauratoを送り込んで、状況の奥深くにあるものをレポートさせたとき、彼はムーティの仕事に対する全面的な称賛でレポートを結んだが、ムーティを、「世界で最も公然と敵視される指揮者」と呼んだ。

「スカラ座での19年間で、指揮者の権限はいい影響をもたらしました。」ムーティは今断言する。「 そして、状況は変わりました。私が(過度に)大きな権限を持っていたというストーリーは嘘です。」

ムーティはもっと前のできごと、1991年のことを回想した。ザルツブルク音楽祭で、モーツァルトの《皇帝ティトスの慈悲》のプロダクションから出て行ったときのことである。演出家の考えを受け入れることができなかったのがその理由だった。「演出家は、音楽に対する指揮者の考えを舞台に乗せるのに、協力すべきであるという事実を再確立すために、私はいつも戦ってきました。」彼は人差し指をまた起こしながら、主張した。

「けれども、現在は演出家が指揮者よりも前に選ばれています。これは間違いです。」

指揮をすることが、あまりに「安楽に」選べる仕事になりすぎていると彼は認めた。

「イタリアでは私の頃は」彼は説明した。「まずはじめに正真正銘の音楽家になる必要があり、作曲を勉強しなければなりませんでした。私の指揮の師アントニーノ・ヴォットーはトスカニーニの第一の弟子でしたが、拍子のとり方について言うことから始めたものでした。そして彼はこう言いました。『みなさん、指揮法のコースは終わりです。後はみなさん次第です。』」

ムーティは、真の指揮者は指揮の技術を超えた何かを持っているという考えに対して、にこっと大きく笑ってみせた。彼は、次のように認めながら、カリスマという言葉を使うことさえした。「私にはそれがどういうことなのかわかりません。けれども、カリスマによってオーケストラは指揮者に喜んで従うのです。たとえ、オーケストラが指揮者に同意していなくても、そうするのです。」

「微笑んだり、リハーサルを30分早く切り上げることで、オーケストラのメンバー達を買収することはできません。それらは下劣なやり方です。ウィーンでは、ベートーベンの交響曲第7番について、ベートーベンが指揮した時から演奏し続けています。彼らは自分達に興味を持たせてくれるような何かを指揮者に期待しているのです。」

「イタリアには、指揮についていい本を書いた悪い指揮者がいました。演奏家達はこう言っていました。彼は本は書いたけれども、それを読んでいなかったと。」

「若い学生達にはこう言いたいです。音楽を10年から15年間勉強しても、オーケストラの指揮の仕方について書いた本には重きをおかないようにと。私は腕をどう動かすか、考えたことがありません。音楽について考えているのです。」

そして、1世紀半もの間あらゆる偉大な指揮者達と一緒に実際に音楽を奏で続けたオーケストラが、リッカルド・ムーティにそのように反応しているとき、マエストロの言ったことが正しく感じられてくる。

彼はその関係を簡単に表現した。「いわば、長く続いているハネムーンです。」

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ウィーン・フィルへの想い(1)

遅くなりましたが、2日のトロントの新聞に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの、前半を紹介します。2月26日日曜日午前中のウィーン・フィルの演奏会の後、午後にインペリアルホテルで行われたものです。
ウィーンに行きたいです!

2006年3月2日 The Toronto Star
Orchestral manoeuvres in the dark 

リッカルド・ムーティは、偉大な指揮者として現在広告的なイメージになっているが、先週の日曜日の朝、ウィーンのムジークフェラインのゴールデンホールの指揮台へのその歩みは、全くもってホームグランドにいるかのように見えた。

それほど不思議なことではない。彼は1971年から定期的にその短い行程を続けてきているからだ。1971年にそのときムーティは、ウィーン・フィルのメンバー達が6層になって自分に向かい合っている中から、白い棒で魔法を引き出す人たちの長い列の最後に連なったのだった。

ぞの日曜日と同じ演奏家達が、実際彼らは依然として全員男性だが、火曜日にRoy Thomson Hallのもっと広々としたステージで彼と一緒になる。ウィーン・フィルがはじめてKing and Simone通りの一角を訪れたのは1993年のことだけれども、今回は12日間の行程の最中のもので、合衆国とメキシコに焦点をあてた北米ツアーで8都市を訪れるものである。

「トロントには素晴らしい思い出があります。」ムーティは回想した。彼は午後遅く、優雅なインペリアルホテルの心地よい一角で、年代もののポートワインを味わっている。「聴衆は非常に温かかったし、とても快適な感じのする街です。」

北米体験はムーティにとってそれほど稀ではない。彼は、1980年から1992年の12年という長い間を、素晴らしいフィラデルフィア管の音楽監督としてユージン・オーマンディのあとを継いで、北米で過ごしていた。

2000年にニューヨーク・フィルがクルト・マズアの後継者として、ニューヨーク・タイムズ紙が言うところの「熱烈な求婚」をムーティに申し出たとき、彼はほとんどそこに就任する寸前だった。旧世界に属するウィーン・フィルと非常に親密なように見える者が、それとは非常に異なった、ニューヨーク・フィルのようなタフさで有名な新世界のオーケストラから求愛を受けることが、どれほどありえないことかを私が示唆したとき、ムーティは心底驚いたように見えた。

「いいオーケストラはどれも柔軟です。」人差し指を上に向けながら彼は反論した。「オーケストラがひどい状態brutaleだとしたら、それはおそらくオーケストラがその指揮者のことを好きではないからです。私がニューヨーク・フィルを指揮して《ロザムンデ》をやったとき、彼らは柔らかく、甘美なdolceなやり方で演奏しました。」

作曲家フランツ・シューベルトは生涯ウィーンで暮らしたが、先週の日曜日のコンサートのオープニングを飾った。劇《ロザムンデ》の付随音楽からの間奏曲である。それはウィーン・フィルのRoy Thomson Hall公演にも登場する。交響曲第4番《悲劇的》も一緒である。ムーティとウィーン・フィルは近年シューベルト交響曲全集を録音している。切望されていたもので、EMIレーベルでCDになっている。

「ウィーン・フィルが私に(有名な)ニューイヤーコンサート(毎年1月1日に全世界の何百万という聴衆に向かってテレビ中継される)の指揮を依頼してきたとき、最初はためらいました。」彼は説明した。「どうしてナポリ人にウィーンでシュトラウスを指揮するよう、頼むのだろうか。彼らは、それは私のシューベルトの指揮の仕方が理由だと言いました。シューベルトはシュトラウスへ続く扉だったのです。」

そして、ムーティが「彼ら」theyと言ってウィーン・フィルに言及するとき、それはtheyという集団を意味している。彼らは、ほとんどの晩をムジークフェラインから数ブロック離れた、ウィーン国立歌劇場のピットで過ごすが、自分達自身のコンサートをやるときには、ウィーン・フィルは民主的な自治組織として行動する。メンバー達は芸術上、運営上の義務を共有しあう。

ムーティはウィーン・フィルの音楽監督ではない。彼らは1933年以来常任指揮者をおいていない。 世界中の一流指揮者の中から、ウィーンの小規模でチケットの入手しにくい予約公演(12組ある)を指揮する者や、個々のツアーを指揮する者を選ぶほうを好ましく思っているからだ。

けれども、そういった指揮者達の中で、次の者ほど非常に親密で長く続く関係を築いた者はほとんどいない。それは、ウィーン・フィルから誰もが欲しがる黄金の指環を贈られ、先の1月にザルツブルクから全世界に放映された、モーツァルト生誕250周年の記念コンサートの指揮に招聘された者である。

「それをどう説明すればいいのかわかりません。」彼は言った。「けれども、ウィーン・フィルと私の間には、まさしく始まりのときから特別な感情が育っていったのです。あの響きをはじめて聴いたとき、あなたも今朝、バイオリンがシューベルトの演奏に加わってきたときの音を聴きましたが、それは文化の表現だと感じました。」

「ウィーンはイタリア人、ハンガリー人、チェコ人、ユーゴスラビア人などたくさんの人々と個性の坩堝です。そして、そのことがウィーン・フィルの演奏に反映されています。彼らのほとんどは同じ流派出身でもあります。そして、ベートーベン時代のオーケストラにさかのぼる伝統を受け継いできているのです。」

「彼らのオーボエやホルン、ティンパニーは他のオーケストラとは違います。郷愁を帯びた、ベルベットのような響きを持ち、非常に丸みを帯びた深みのある音で、乱暴なbrutaleなものでは全くありません。ウィーン・フィルは順応性を備えていますが、けれども、響きにとって暴力となるようなものは受け入れようとしませんし、いい指揮者はそのことを知っています。」

それでも、私はムーティに随分前の会話のことを思い出させた。彼がまだフィラデルフィア管の音楽監督だった頃のもので、その中で彼は、オーケストラはひとつの響きを持つべきではなく、演奏される作品に従ってたくさんの響きをもつべきである、と議論していた。

彼は頷きながら認めた。「フィラデルフィア管にはいくつか問題がありました。そのメンバーである演奏家達に問題があったわけではありません。彼らは、モーツァルトをブラームスのように演奏できないことや、ベートーベンをブルックナーのように演奏できないことを知っていましたから。けれども、フィラデルフィア・サウンドについて話す人たちにとっては、時には、すべて同じような響きを持たなければならなかったのです。」

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Tuesday, 07 March 2006

要求することのとても多い指揮者

今日のカナダの新聞が、インペリアルのカフェで行ったマエストロ・ムーティへのインタビューを載せています。全文は追って紹介します。(タイトルは身も蓋もないもので、苦笑しました。)

興味深かったのが、自分が要求のとても多い指揮者であることを、マエストロが冗談ながら認めている部分です。

スカラ座時代のムーティはあまりに要求が多すぎて、きつい人間だったのだろうか。「私は27歳のときに既にもう、とても要求することの多い人間だったのです!」彼は笑いながらこう言った。「私が最初にフィレンツェ五月音楽祭の地位を提供されたのは、彼らが状況を統率し、まとめあげることのできる指揮者を必要としていたからです。彼らは私が強い人間であることに気づいたのです。強いといっても、専制君主であるのではなく、芸術的な統一性を保つことにおける強さです。オーケストラは専制的にふるまう指揮者が好きではありません。そして多くの場合、傲慢で攻撃的な指揮者はあまりよい指揮者とはいえないのです。」

Was he too demanding during his years at La Scala? "I was very demanding even when I was 27 years old!" he says with a laugh. "The reason I was offered my first position at the Maggio Musicale was because they needed a conductor to put the situation in order. They realized that I was strong -- not like a dictator, but strong in artistic discipline. Orchestras don't like conductors who act as dictators, and many times the conductors who are arrogant and aggressive are the ones who are not very good."

2006年3月7日 Globe and Mail
Measure for measure
It's all about the music for legendary maestro Riccardo Muti, conducting at Roy Thomson Hall tonight

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Saturday, 04 March 2006

夢が実現されつつある未来を見る(2)

3日のニューヨークタイムズ紙による、マエストロ・ムーティのインタビュー記事の残りの部分を紹介します。
マエストロという音楽家を知ったときには、30代半ばを過ぎて既に大家、巨匠になっていました。けれども、気持ちの上では前のめりの突進部分が減ったかもしれませんが、そのころも今も、全く発言がぶれていません。信条、何が大切かについては、もうきちんとできあがっていたのだと思うと、いまさらながらですが、ただただ驚くだけです。

2006年3月3日 The New York Times 紙
Muti, Back at Carnegie, Chooses to Look Ahead

この意欲的な試みにおけるオーケストラはルイージ・ケルビーニ・ユース管で、ムーティが数年前に始めたお気に入りの企画である。ピアチェンツァを本拠とし、夏にはラベンナ音楽祭に移る。同音楽祭はムーティの妻、クリスティーナがとりしきっている。

「自分のキャリアがマネジャーではなく、オーケストラによって形成されてきたことを、人生においてとても幸運だと思います。」ムーティは言った。「いまだにマネジャーはいません。今、自分の知っていることを返すこと、若い音楽家達に与えるのは、私の義務です。道義的責任だと感じています。」

このウィーン・フィルとのツアーでは合衆国以外に、トロント、メキシコのメキシコ・シティー、モントレーにも登場するが、そのツアーが終わったあと、ムーティは合衆国にいっそう大きな足がかりをうちたて続けることになる。来シーズン、ニューヨーク・フィルを1週間単位で4週間振るし、その後の2シーズンも同様である。(多くの人が認めたように、このことはロリン・マゼールがニューヨーク・フィルの音楽監督を退くことにつながるものだが、ムーティは、あらゆる管理責任を必然的に伴うことになるような音楽監督には関心がないと言っている。)

ムーティは来シーズンはフィラデルフィア管にも戻ってくるし、シカゴ響も指揮する。そして、近い将来、シカゴ響を率いてヨーロッパ・ツアーを行うことも計画している。

さらに時間をくだると、メトロポリタン歌劇場が最近発表したように、ムーティは2009-2010年のシーズンに同歌劇場にデビューする予定で、それは、次期総裁Peter Gelbが全部計画をたてた最初のシーズンにあたる。これは、あいにく、ムーティにとって格別な夢というわけでは決してなかったが、しかしながら、ニューヨークの多くの音楽愛好家たちが夢に見続けてきたことだった。

「見知らぬところへ行くのは好きではありません。」ムーティは言った。「私はフィレンツェやスカラ座で長年オペラ指揮者として、あるやり方にどっぷり浸かってきました。そこでは、人々は私の求めていることをただちに理解してくれました。オペラでは、オーケストラ、合唱団や歌手達とだけでなく、技術者、エンジニア、劇場全体の人たちと緊密な協力関係を持つ必要があります。オーケストラのことも知らなければ、合唱団のことも知らず、システムもわからないような、そんな未知の歌劇場に行くような考えには、いつもノーと言ってきました。」

ジェームズ・レバインはメトロポリタン歌劇場の音楽監督である間、有名指揮者がそこにこないことについて、しばしば批判されてきている。時には、彼は指揮台上の首位を守ろうとしているとさえ、暗にほのめかされていた。けれども、ムーティは、そのフィラデルフィア管音楽監督時代に、メトへ来るよう、レバインから何回か招かれたと語った。

「私はいつもこう言っていました。『時間がありません』」彼は言い加えた。「関心がありませんでした。これはメトへの非難ではありません。なぜなら、私が南イタリア人であることを忘れないでいただきたいのです。活動的になるよりは、休息をとるほうを選びがちなのです。残念なことに、運命は私の性分に逆らって走り出しました。けれども、そのときPeter Gelbが力説したのです。そして今、私はメトに行くことになり、そのことについてとてもわくわくしています。」

ムーティは、単にスタンダードな作品の上演ローテーションに足を踏み入れるよりも、メトがこれまで上演したことのない作品をやることのほうを提案した。Gelbがヴェルディ初期の《アッティラ》を提案し、ムーティは自分で認めているように、生涯をヴェルディに捧げてきたが、この機会に応じた。演出家はまだ選ばれていない。

暴君という、自分の新たに発見された評価を楽しんでいるように見えるが、ムーティはGelbにこのように警告しておいたと言った。「私はご存じのように、イタリア・オペラのレパートリーについては非常に手厳しいですから、そこに行って、あなたの歌劇場で問題を起こしたくありません。」

それはあなたが最近心配していることですか、とたずねたところ、ムーティは笑った。「いいえ」と彼は言った。「Gelbが心配すべきことであり、私がすることではありません。」

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夢が実現されつつある未来を見る(1)

3日のニューヨークタイムズ紙に載った、マエストロ・ムーティのインタビューの前半を紹介します。
常に前方を、将来を見つめるマエストロのポジティブな姿勢には、いつも感嘆しています。マエストロがはるかなたに見ているものを少しでも追っていけるファンになれたらいいな、というのが長い長い間抱き続けてきている想いです。
ニューヨークでの3日の公演が成功しますように(ちょうど今頃でしょうか)。

2006年3月3日 The New York Times 紙
Muti, Back at Carnegie, Chooses to Look Ahead

ミラノ・スカラ座をあわただしく去ってから1年たたないが、彼がそのことを話すのを聞いていると、イタリアの指揮者リッカルド・ムーティはついに自由になり、自分の夢に生きている。確かに、カーネギーホールで今週末行う三つの演奏会は、手始めとしては悪くない。

ムーティはカーネギーホールではくつろいだ感じがすると語る。フィラデルフィア管の音楽監督時代の1980年から1992年の間に、そこでしばしば指揮してきたからだ。そして、伝統が脈々と続く、貴族的な雰囲気のあるウィーン・フィルとは36年間一緒に仕事をしてきたし、そこで指揮の経験を積んできた。

「私たちの間には失望したり摩擦があったときは全くありませんでした。」ムーティは水曜日の夕方、そう語った。彼は、そのキャラクターに合わず、服や髪もかまわず、カジュアルな感じで、ウィーンから到着したばかりのカーネギーホール近くのホテルのロビーでくつろいでいた。(その様子は二枚目スター風の風貌の指揮者のキャラクターに合わず、誰も長時間のインタビューの邪魔をしなかったし、遠くから驚いたように眺めている人さえいないほどだった。)

「ウィーン・フィルと仕事を始めたとき、私は30歳でした。」彼は言った。「今年、65歳になります。una vita でしょう?一生涯続いていくのです。」

この、当初は明らかに突進型だった非凡な若者の心情が、今や成熟した政治的手腕を見せているということについて、そういう年齢の積み重ねが副題としてたびたび会話に戻ってきた。

「年齢を十分に重ねた今、こういうことについて、私が得意がっていると人から思われることなく言えるようになりました。」彼は言った。「このオーケストラは私の音楽人生にとって非常に重要であり続けました。常に音楽造りのモデルのようなものになってきました。室内楽的なこの音楽概念が、偉大なオーケストラであっても備わっているのです。音の響きとフレージングについての特別な配慮が、このオーケストラを今もって非常に特別なものにしています。」

ムーティは、1986年から昨年4月までのスカラ座音楽監督時代にこのモデルを根付かせ、深めようと努め、スカラ・フィルを無視できない勢力に作り上げた。昨年オーケストラの多くのメンバー達が、スカラ座で働く人達と一緒に電光石火の速さで彼に向かってきたとき、そういったことは何も役に立たなかった。

アルトゥーロ・トスカニーニの傷心のスカラ座時代を思い起こすには、全くあまりに若すぎるメンバー達によって、彼は暴君の汚名を着せられた。その非難は誤っていたことが、ムーティが世界のトップ・オーケストラの多くと築いてきた、友好的で実りある関係によって示された。紛争の真の理由が別のところにあるのは明らかであるようにみえ、それは、音楽やプロとしてのあり方、人となりよりも、劇場内外の政治・体制に関わるものであった。

「たぶん、いつかそのことについて話すでしょう。」彼は言った。「けれども、状況を生み出したものすべてをつなぎあわせようとするのは、私にとってさえ本当にこみいったことです。最後にはそれは私に自由をもたらしましたが、また、多くの人々を悲しませました。このストーリーのすべての要素について、誰も理解することができないのです。時間が必要だと思います。」

けれども、ムーティは彼の背後にあるストーリーを述べるのは時間の浪費だと主張する。「それは過去に属することで、今の私からはるかかなたにあります。」彼は言った。ミラノにはたくさん友人がいるけれども、滅多に行かないと言い加えた。

いくつかのヨーロッパの新聞に騒動の間に現われた、熱に浮かれたような状況報告は、ムーティは明らかに暴君だった、彼は二度と実りある職に就かないだろう、といった趣旨のものだったけれども、いつもばかばかしいものであった。「ただちに、みんなが私に飛びついてきました。」彼は言った。「それで、イエスというよりもノーと言いながら、もっと仕事をすることになってしまったのです。実際、スカラ座を離れたとき、友情と称賛の大きな表明を世界中から受けました。」

彼はミラノからも遅すぎた後悔のメッセージを受け取った。先月、ウィーン・フィルを振ってモーツァルト生誕250周年を祝ったザルツブルクで、彼はこう言った。「あなたに言えるのは、今年ほど、オーケストラや合唱団のメンバーからたくさんのクリスマスカードを受け取ったことはなかった、ということです。」

だから、あの悪夢は過ぎ去り、ムーティは、実現しつつある、もっと幸せな夢について考えることのほうを好ましく思っている。先月、二つのことが一緒にやってきた。来春のザルツブルク聖霊降臨祭音楽祭の性格が変わること、ムーティが音楽監督になり、プログラミングの焦点が、ムーティの故郷ナポリにおける音楽性の豊かさと自筆譜の保有と、18世紀の音楽的文化的生活におけるナポリとウィーン、オーストリア全体の結びつきにあてたものになることが、ザルツブルク音楽祭から発表されたときのことである。(ムーティはこういうことを認めるにはあまりに政治的なものから遠い人だが、ミラノに対する南イタリアのライバル、ナポリの音楽的な優勢がみられるこの企画は、強烈な雪辱の機会とは言えないまでも、彼にとってとても素晴らしい味がするものであるに違いない。)

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Friday, 03 March 2006

ニューヨークタイムズ紙のインタビュー

水曜日にニューヨークに到着したマエストロ・ムーティに、ニューヨークタイムズ紙が滞在先のホテルのロビーでインタビューを行っています。とてもリラックスした様子が感じられるインタビューでした。ほっとしました。
今後の予定などで目新しいのは、シカゴ響とヨーロッパツアーを行う計画があることなどです。
ウィーン・フィルについて、自分の音楽生活で非常に大切なオーケストラだと言い切っているところがすごいです。
興味深く思うのが、マネジャーを持たないことを有益だと明言していること。

そのほか、全文は追って紹介します。

2006年3月3日 The New York Times 紙
Muti, Back at Carnegie, Chooses to Look Ahead

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イタリアの文化、若者について語る

昨日のフィレンツェの新聞に、マエストロ・ムーティのインタビューが載っていて、イタリアの文化状況、若者がそこで果たす役割について語っています。劇場が閉鎖され、見捨てられているのは恥じるべきことだと、ここでも強調しています。
全文は追って紹介します。

2006年3月2日 La Nazione 紙
Il tesoro è la cultura

(この記事に続きはありません)

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Wednesday, 01 March 2006

マエストロの今後の予定の一部は

今日のカナダのイタリア語のニュースが報じた、ANSA通信によるマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。わくわくするような内容です。でも、仕事にうちこむのは、ほどほどにしてほしいなあ、とも思います(が、マエストロの性分からして無理でしょうね)。

2006年3月1日 Corriere Canadese
Trionfo per Riccardo Muti con i Wiener alla vigilia della tournée nordamericana
Il grande maestro sarà a Toronto alla Roy Thomson Hall il prossimo 7 marzo

(オーストリアの新聞がウィーンでのマエストロとウィーン・フィルの演奏会を称賛し、マエストロをウィーン・フィルにとって特別な指揮者だとみなしていることについて、マエストロが語るところから始まります:訳者注)

オーストリアの新聞がこのように言うのは、「このオーケストラと私のつながりが特別な関係であることを強調するためです。」マエストロはANSA通信のインタビューを受けて、さらりと語った。「36年間一緒に仕事をしてきたことによる素晴らしい関係であり、とびぬけて緊密な関係です。」
ウィーン・フィルはよく知られているように常任指揮者を持たない。もしも彼を『秘密の』指揮者と呼んでいるとしたら、それは「尊敬と愛情、やはりそれをかわしあっている」印というだけのことだとムーティは強調する。彼はこう付け加えた。彼にとって「ウィーン・フィルはかつても、そして今も、どう演奏するかということについてのオーケストラ・モデルであり、音楽文化のオーケストラ・モデルです。」というのは、とムーティは言い足す。ケルビーニ管は彼が創設した若いイタリア人の一団で、「素晴らしい若者たちです。」と彼は言うが、彼らは「オーケストラはかくあるべきという演奏概念、フレージング概念の基礎をもっています。カルテットのように演奏する大人数の音楽家達なのです。」
彼の考えではウィーン・フィルは、「おそらく、他のどのオーケストラよりも室内楽的に演奏表現をするオーケストラです。たぶん、多くの室内楽音楽を演奏しているという、彼らメンバー達の偉大な慣習のせいでしょう。」
長いツアーに出発する前に、昨晩コンツェルトハウスで新たな演奏会があった。ツアーの後には、たくさんの新たな仕事がウィーンとザルツブルクで待っている。《フィガロの結婚》の再演が4月にウィーン国立歌劇場であり、さらに、《コシ・ファン・トゥッテ》も予定されていて、それは、2007年に日本へも同歌劇場と持っていくことになるだろう。
夏には新しい《魔笛》(新演出家と新しい舞台装置)をザルツブルク音楽祭で上演するし、そこでは3連続演奏会をウィーン・フィルと催すが、その中には、Fabio Vacchiの委嘱作品も含まれる。ザルツブルク音楽祭とはさらにまた、2008年にオテロの新しいプロダクションが予定されている。そして、イタリアでは?ラベンナ音楽祭が今年の夏ある。しかし、その前に、「ケルビーニ管と5月にクレモナやイタリアのほかのいくつかの都市への」ツアーがある。

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Wednesday, 08 February 2006

スカラ座の指揮台は孤島

1994年スカラ座開幕公演《ワルキューレ》を前にしたマエストロ・ムーティの、インタビュー記事を読みました。
筑紫哲也さんの本によれば、マエストロは指揮台は孤島だと言っていたそうですが、このインタビューでもそのようなことを言っています。

SETTE Corriere della Sera 誌 1994年12月1日号
Riccardo Muti
Benvenuti nella mia isola della solitudine

(略)スカラ座には魔力、歴史が感じられます。あらゆることが実現するという気が、まさにします。まるで、あたりに霊が、神秘的な存在が生み出されているかのようです。本当です。照明が落ち、始まりが近づくと、指揮台にそれらの影の重みが感じられます...。この哀れな指揮台について、誰もが全能の場所だと思っていますが、そうではなくて、そこは孤独な島なのです。なぜなら、指揮者は、オーケストラの奏でる音楽と、それを聴く聴衆の間に、その真ん中に全くひとりでいるからです...。(略)

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Monday, 06 February 2006

マエストロとモーツァルト(2)

スタンパ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの残りを紹介します。
堂々と正論を展開するさまには圧倒されますし、常に自分のアイデンティティを見つめているのがマエストロの素晴らしいところです。
3日のザ・タイムズ紙が、イタリアの三つの歌劇場、フェニーチェ座、ナポリのサン・カルロ歌劇場、ジェノヴァのカルロ・フェリーチェ歌劇場が財政破綻をきたしていると報じていました。自分の死よりも文化の死こそが恐ろしいと言うマエストロの憂いは、尽きるところがありません。

2006年2月3日 The Times 紙
National pride is muted as opera runs out of notes

2006年1月27日 La Stampa 紙
Muti: «Caro Mozart nostro consolatore»

モーツァルトの人生のどの部分に引き込まれますか。苛酷さ、恋愛、情熱?
「モーツァルトの人生からたくさんのことを読み取りました。我々は誰も、手紙や記録、絵、旅、恋愛、嫉妬、賭博への情熱について想像をめぐらせます。そして、ひとつの調和、一致したものを見出そうとします。なぜでしょう。モーツァルトは自分の中に、従って、その音楽の中に、《コシ・ファン・トゥッテ》を見ればわかるように、人間の世界を収めているのです。そこには、恋愛、嫉妬、裏切り、恨み、許しの気持ち、見放すという気持ちがあります。多面性が人間の本質です。高貴さだけでなく、人間の惨めな面もあります。ひどく悲惨であるというのは破滅という意味ではなく、高貴であることの対極の意味を持つものです。」

モーツァルトが人間について語ると、我々の気持ちを慰めることができるのでしょうか。
「ええ、いろいろと慰められます。こんなに計り知れない人で、人間の完璧性を具現化した人である彼が我々にこう言います。彼らは、あなたたちは、私たちは、こんな人間だと。彼は突き当てられた指が道徳的であれと教えているのを見ていますが、それは、鏡を前にしてであり、みずからに語り、語りかけられているのです。慰めは、ヴォルフガングが悪業の数々にパスポートを交付して許していることから生まれるのではなく、我々がこんな人間であるということを想い起こし、彼でさえ人間としてはこんなふうだったという事実から生まれるのです。」

でも、なんと大きな力でしょう、人間としては!
「もちろん、彼は今日でも説明のつけられない力で満ちていました。なぜなら、短い年数でたくさんの作品を書き、そのほとんどすべてがレベルとしては、非常に優れたものから最高の到達点の間にあるというのは、人間としては説明のしようがないからです。このように《神のような完璧性》を備えた才能によって話しかけられるのを聞き、感じるならば、明らかにある種の慰めが生まれるのに気づきます。それは、このように一見したところ単純な、それでいて実は非常に深遠な音楽のもつ力を通じて、モーツァルトを友達のように感じることさえ許すものなのです。」

音楽におけるモーツァルト、文化におけるモーツァルト、ヨーロッパの歴史におけるモーツァルトはどんなものでしょうか。
「ダンテやレオナルド、バッハ、モーツァルト、ベートーベンがどんな人だったかを無視しては、我々はヨーロッパ人たりえません。私たちは文化や音楽、演劇を暇つぶしだとみなす誤りをおかしています。文化によって、若者たちは未来を築きます。我々はこのヨーロッパにおいてますます多民族性を備え、我々の文化について一層豊かであるといえるようにならなければなりません。文化を失えば失うほど、我々は貧しくなります。文化以外のものを豊かにしたり、文化以外のことで豊かになるかわりに、混乱と困窮をばらまくことをやめましょう。」

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Sunday, 05 February 2006

マエストロとモーツァルト(1)

遅くなりましたが、スタンパ紙に載ったマエストロ・ムーティのインタビューの前半を紹介します。
同紙は、マエストロ・アッバードにもモーツァルトに関するインタビューを行っています。
マエストロのスカラ座での《フィガロの結婚》のリハーサルは、RAIのドキュメンタリーで見たことがあります。マエストロがピアノを弾き、歌手が全員いすに座ってリハーサルを行っている風景で、歌手が歌った後、こう歌うのだ、というかのように歌ってみせるマエストロの様子に、部屋に漂う緊張が感じられた映像でした。


2006年1月27日 La Stampa 紙
 
Muti: «Caro Mozart nostro consolatore»

モーツァルト、ザルツブルク、ムーティにとって非常に素晴らしい日である。今日、ヴォルフガングは250歳を祝い、彼が生まれた街は祝祭の数々を開始し、イタリア人指揮者とウィーン・フィルはコンサート中のコンサート、最高のコンサートを任されている。「オリンピックの聖火がトリノに近づく一方で、美の聖火はザルツブルクを離れ、世界を照らします。演奏会がユーロビジョンとモンドビジョンで放映されるからです。」マエストロは当スタンパ紙にこう語った。このイベントの前に唯一許可されたインタビューである。

リッカルド・ムーティは名誉に思い、感動していますか。
「人としては感動し、音楽家としては褒賞だと思っています。感動は私の人生すべてに伴うものです。子供のときからそうです。子供の頃、バイオリン、やがてはピアノでモーツァルトの最初の作品を演奏し始め、この神童と関わりを持つ世界に入り始めました。神童は成長して理解しがたい神になりました。」

褒賞というのは...
「ウィーン・フィルとの仕事は連続35年間になります。けれども、このとてつもなく大きなプログラムの指揮に抜擢されました。ソリストたちは素晴らしく、会場はザルツブルク祝祭大劇場。理由は...。モーツァルトに人生のすべてを捧げている証しに、モーツァルトの教えを最も託されているオーケストラから贈られた名誉です。かつて存在したものが引き継がれているオーケストラです。」

2時間を超える演奏会で、ソプラノのRenée Fleming、バリトンの Thomas Hampson、ピアニストの内田光子、バイオリンの Gidon Kremer、ビオラの Juri Bashmetが出演します。ハ長調協奏曲、協奏交響曲、ハフナー交響曲、有名なアリアの数々、Wiener Singverein合唱団との《魔笛》からのフィナーレ。なぜまさにこの曲がフィナーレなのでしょうか。
「すべての人々にとってよかれと願うフィナーレです。美、真、善というギリシア人が考えた三つのカテゴリーの価値が、ひとつになるという象徴を帯びたフィナーレです。《魔笛》の概念はこういう目的を個人の生活において、社会において達成することにあります。」

モーツァルトとの最初の重要な出会いは、演奏家としてはどんなものですか。
「1968年フィレンツェ五月音楽祭へのデビューコンサートがまさにそれです。モーツァルトの交響曲KV334、Sviatoslav Ricther とのピアノ協奏曲ハ短調がプログラムでした。そのオーケストラが翌年から私を五月音楽祭管の常任になるよう指名したのは、そのときでした。モーツァルトは私に運をもたらしたのです。」

そして、最初のモーツァルト・オペラの上演は?
「これもやはりフィレンツェです。高名なAntoine Vitezが演出家で、1970年代終わりに上演しました。 芸術監督だったFrancesco Sicilianiの強い要請によるもので、彼には、ケルビーニやスポンティーニといった、私の演奏家としての人生において根本をなすことになった作曲家の発見について、恩義があります。フィレンツェではモーツァルトの宗教曲も指揮していて、大ミサ曲ハ長調をサン・ロレンツォ聖堂の、メディチ家の廟やミケランジェロ、ドナテッロ、ヴェロッキオなどの作品の間で演奏しました。モーツァルトとこういったフィレンツェの芸術の巨匠たちとの結びつきは、私が芸術家として形成されていくにあたって、決定的なきずなになりました。」

まさしく《フィガロの結婚》があなたをスカラ座に連れて行くことになりました。
「今度は1981年にストレーレルとで、リハーサルのことは忘れられない日々です。歌手、指揮者、演出家が緊密な関係で一線になってリハーサルを重ねました。そうする必要があったのでしょうし、あれ以上のものは二度とありません。このようなやり方が続いていれば、ほとんどの場合音楽について全く何もわからない演出家たちの主導のもと、アルプスのあちら側で、またあるときはアルプスのこちら側で、たくさんの悲惨な結果が生まれることはなかったでしょう。」

さて、カラヤンからの有名な電話がそのとき既にありましたね?
「1979年で、ロンドンのフィルハーモニア管の音楽監督としては最後の、合衆国ツアー中のことでした。既にフィラデルフィア管の音楽監督に指名されていました。私はノースキャロライナにいて、朝の7時にマエストロに起こされたのです。はじめは、まさに悪い冗談だと思いました。数秒たって、本物の彼だと気づきました。カラヤンは私に、1982年のザルツブルク音楽祭で《コシ・ファン・トゥッテ》を指揮するよう、申し出たのです。私のはカンテッリの教えに間接的につながるものでした。彼は何年も前にピッコラ・スカラで、有名な《コシ・ファン・トゥッテ》を上演していました。この作品はモーツァルトの前にたちはだかったイタリア様式のものです。そこではモーツァルトはダ・ポンテの天才的で素晴らしい台本を尊重していました。ダ・ポンテは複数の意味を台本に持たせ、台本は言葉のテクニックも備えていました。それは非常にうまくイタリア語を話したモーツァルトによって理解されていました。私は、音楽から出発したのではない解釈上の指示を伝えました。台本を無視することはしばしば起きていました。けれども、台本そのものから出発すれば、音楽上の解釈が形作られます。新しい切り口でした。そして成功しました。」

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Friday, 27 January 2006

モーツァルトが幸せを運んできた

今日、ザルツブルクでモーツァルト生誕250周年記念コンサートを指揮するマエストロ・ムーティの、コンサート前の唯一のインタビューをスタンパ紙がとりました。

モーツァルトを演奏したいくつかの機会が、マエストロの音楽人生において大きな役割を果たしていることについても、語っています。
フィレンツェ五月音楽祭管デビューとなったリヒテルとのモーツァルトの演奏が、同管常任指揮者をマエストロに要請するきかっけとなり、マエストロはモーツァルトが運をもたらした、話しています。マエストロにとってモーツァルトのオペラの最初の上演も、フィレンツェで《フィガロの結婚》。その上演を勧めたシチリアーニは、マエストロにスポンティーニやケルビーニといった、その演奏家人生の根幹をなすことになった作曲家への興味を抱かせてくれたこと。
同作品はスカラ座デビューを飾った作品でもあり、ストレーレルが演出、歌手も演出家もマエストロも一体となって一緒にリハーサルを重ね、得がたいものを得た、と振り返っています。
また、ザルツブルク音楽祭で1982年に指揮した《コシ・ファントゥッテ》は、カラヤンの1979年の電話による要請から始まった(フィルハーモニア管との合衆国ツアー中、朝7時のカラヤンの電話で起こされたそうです)という、有名なエピソードも語っています。

27日のコンサートのフィナーレが《魔笛》のフィナーレである理由は、《魔笛》のフィナーレがギリシアの真善美という三つの価値が一緒になる祝祭の意味を持つから、とも語っています。

さらに、イル・ジョルナーレ紙がマエストロによるこのコンサートについて、ウィーン・フィルの中にイタリア人、日本人、ロシア人、アメリカ人という指揮者、ソリストたちがいるのは、モーツァルトが全世界のものであることの証しだ、と書いているのを興味深く読みました。

マエストロの音楽家人生にとってまたもや大きな意義をもつことになった、このモーツァルト生誕250周年記念コンサートの成功を、心からお祈りしています!

2006年1月27日付 la Stampa 紙
Muti: «Caro Mozart nostro consolatore»

2006年1月27日付 Il Giornale 紙
Muti e i Wiener celebrano la leggenda di Amadeus

膨大な数の記事が出回っていて、本当に大きな行事なのだなあ、といまさらながらのように感嘆しています(日本でわっせわっせ仕事におわれている自分が、ファンとして悲しい...)。

インタビューは追って紹介します。

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Tuesday, 24 January 2006

《コシ》のテンポ

イタリア語が全く読めなかった頃にも、マエストロ・ムーティの記事が載ったイタリアの雑誌を結構購入していて、最近、少しずつ読み始めています。そのうちのいくつかは、ここでも紹介してきました。
過去のインタビューでマエストロが語っていることが、はたして、今もマエストロの考えていることかどうかはわかりませんが、その思考の軌跡をたどるのも大切なことかと思います。

ザ・タイムズ紙の記者がスカラ座訪ソに随行して、マエストロに話を聞いている記事があります。今トピックなモーツァルトに関して、《コシ・ファン・トゥッテ》について興味深い話をしていました。マエストロのザルツブルク・ライブでの《Soave sia il vento》の美しさ、切なさがあらためて心に蘇ってきます...。

CD CLASSICA誌 1989年12月・1990年1月合併号
Nigel Jameson in Russia con Riccardo Muti e l'orchestra del Teatro alla Scala

10月11日、ボリショイ劇場で《コシ》のリハーサルを歌手達とピアノで行った後で...リッカルド・ムーティは:

アリア《Per pieta'》はアダージョであって、レントではありません。あまりにゆるやかに歌うソプラノは、言葉の意味を理解することができません。ゆるやかに歌えばこのアリアの音楽は非常に美しくなるかもしれませんが、劇的な感じがなくなります。

(あなたのテンポでは祈りになりますが、他の普通のテンポでは哀歌に感じられます)
「普通」という言葉は好きですが、ここでの「普通」のテンポは間違いです!

(第一幕のあなたの五重唱はテンポが急速に感じられます。そこは声の非常な美しさを花咲かせるだけのゆとりが必要です)
それはわかります。けれども、私のこのオペラのやり方はドイツ系の多くの指揮者とは対照的です。彼らは第一幕はゆったりと演奏し、できるだけ美しく響かそうとしています。けれども、実際には、この部分はまだシリアスなドラマではありません。第一幕のフィナーレは基本的にはオペラ・ブッファです。そして、彼らは、第二幕のフィナーレをヴィヴァーチェで活発な感じで演奏し、あたかも、第一幕の後、何も変わっていないかのようにみせています。けれども、そうではなく、すべては一変し、誰も他の人を信頼しないし、自分自身も信頼しなくなっています。ここは私はレントでゆったりと演奏し、テンポを次第に遅めています。

《コシ》は非常にシリアスで、それどころか、絶望に満ちていて、愛、嫉妬、裏切りを扱っています。ザルツブルクではじめてこの作品を指揮したとき、私はセンセーションをまきおこしました。なぜなら、イタリア・オペラのように指揮したからです。モーツァルトの時代にはイタリア人によって歌われていましたが、一方現代は、ドイツ・オペラに変えられてしまっています。

ウィーンの伝統それ自身は正しいものです。音楽としては完璧だからです。けれども、このような演奏の仕方はモーツァルトが理想としたものではありませんでした。ドイツ系の演奏家が指揮し、歌ったときにそれが明らかになります。とりわけ、杓子定規的な指揮者と言葉に重きをおかない歌手によって上演された場合が、そうです。カール・ベームはこう言っていました。この作品はすべて、どのアンダンテもアレグロも絶対に同じテンポで演奏されていいと思うし、そうすべきではないかと。これほど詩的でないことがはたしてあるのか、想像できません。ドイツ系のあるタイプのソプラノたちは、だから、言葉のかわりに音の響き持ち出しているように思えます。

この楽譜を研究すればするほど、オーケストラの個々の音が、個々の人物の経験について注釈を加えていることを発見します。私は何も作り出しません。楽譜にもうすべてがあるのです。それを発見し、表現様式を探すだけで十分です。

(たとえば、三重唱《Soave sia il vento》のヴィオラの演奏ですが...)
ああ、あれはこの世を去るときに聴きたいと思っている音楽です!最も美しいアッディオ、別れです!

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Sunday, 22 January 2006

マエストロの語るモーツァルト

今日のCorsera 紙に載った、モーツァルトに関するマエストロ・ムーティのインタビューを紹介します。
フィガロ紙のインタビューと重なる部分も多々あります。《フィガロの結婚》で新たに発見した隠れたメッセージについては、オーストリアの新聞にでも載るのかもしれません。

2006年1月22日付 Corriere della Sera 紙
L’ANNIVERSARIO
Muti inaugura le celebrazioni del compositore A Salisburgo festa per i 250 anni dalla nascita

「モーツァルトを研究するときは、とても幸せです。彼と関わるのはとても素晴らしいことです。」ラベンナの家にいるリッカルド・ムーティはそう語る。机の上には祝賀演奏会の楽譜がある。それは1月27日にザルツブルクの祝祭大劇場で彼が指揮する演奏会で、偉大な作曲家の生誕250周年の祝祭行事の数々を公式に開幕するものである。最愛のウィーン・フィルを指揮して2時間以上音楽を演奏するもので、ルネ・フレミング、内田光子、トマス・ハンプソン、ユーリ・バシュメット、ギドン・クレーメルといった著名なソリストが参加する。アメリカ合衆国国務長官、コンドリーザ・ライスも参加するかもしれない(訳注:27日~29日にはザルツブルクでSound of Europe が開かれ、ヨーロッパのアイデンティティについても話し合われ、ライス国務長官がピアノを弾くことが検討されているという報道もありましたが、ザルツブルクの新聞では出席しないと報じられています)。しばらく前からチケットは売り切れだが、ユーロヴィジョンによるテレビ撮影がある(後でDVD化される予定)。もちろん、このように非常に重要な祝祭を行うことに選ばれたのは、ムーティにとって大きな名誉である。これは、イタリア人指揮者と、ザルツブルクのモーツァルテウム、ウィーン・フィル、ザルツブルク、そしてザルツブルク音楽祭との間を結びつけている友好関係の印だ。ウィーン・フィルは35年間指揮していて、モーツァルトを象徴とするツアーをニューヨーク、カナダ、メキシコで行う予定である。また、ザルツブルク音楽祭には1971年にカラヤンに招かれてデビューし、今年の夏は《魔笛》(ピエール・アウディによる新演出)と4回の演奏会を行う。フランスのパリもムーティをモーツァルト記念年の開始に選び、1月14日の大成功に終わったシャンゼリゼ劇場での演奏会の後で(訳注:12日の誤りでは?)、ル・モンド紙がムーティを、《Il Magnifico》イル・マニフィコ、偉大なる人、と決定づけた。モーツァルトの代弁者としてのイタリア人...「非常に満足しています。」ムーティはコメントした。「モーツァルトは徹頭徹尾イタリア人でもありました。我々の言葉を話し、非常によく理解していました。『イタリア的なるもの』をエスプリと鋭敏さ、正確さで非常に的確に捉えていて、それは、ダ・ポンテの台本《フィガロの結婚》、《コシ・ファン・トゥッテ》、《ドン・ジョバンニ》を、あたかも我々イタリアの作曲家であるかのように、音楽にしているほどです。彼は子供の頃からイタリアを訪れていました。モーツァルトの音楽には我々の文化の恩恵が感じられます。アルプスのこちら側とあちら側の、二つの文化の完璧な融合を実現していました。」

ムーティはこの作曲家の変わらぬ人気についてこう説明した。「モーツァルトは今日でも我々を驚嘆させる音楽家です。それは、彼の書いたもの、作曲したものすべてが非常に高い質を持ち、しばしば崇高でありながら、決してアカデミックではない、という理由からだけでなく、まさに彼の人気の高さにもよります。彼は、ポピュラー・ミュージッシャンたちの世界においても、そのメロディーにインスピレーションを与えています。いったい、どうしてなのでしょう。彼の音楽は非常に直接的なところと同時に奥深さももち、音