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Sunday, 09 July 2006

エンツォ・ビアージによるインタビュー(2)

イタリアの著名なジャーナリスト、Enzo Biagiによるマエストロ・ムーティへのインタビューの続きを紹介します。

進路を決めたきっかけを語っています。10代前半のマエストロはどんなふうだったのだろう、と想像するだけで楽しいです。

指揮者以外になりたかったものでは、外科医というのは、マエストロのあのエレガントで美しく長い指ならば、器用にこなせそうな気がします。
天文学への興味は、地球や天体の動きと音楽のつながりの神秘をよく語っている様子からも、うかがえるかもしれません。

ムッターとモーツァルトのバイオリン協奏曲を録音しているときの、モニタールームでの写真(レコード芸術誌で、中矢さんがレポートしていたのが思い出されます)の微笑み、《椿姫》をEMIで録音しているときのモニタールームでの、満面の、屈託のない最高の笑みの写真が添えられていて、懐かしいです。

Amadeus 誌 1991年6月号
Un uomo semplice

いつ、進路を決めたのですか。
「音楽の勉強はいつも他の科目の勉強と並行してなされていました。両親は自分たちの子供がいつか、プロという意味での音楽家になるとは思ってもみなかったでしょう。私は、次のような専門家になることをアドバイスされて育つような家族の出身です。医者になるといいのではないか、エンジニアになれるのではないか、というようなアドバイスです。私に割り当てられたのは法律を修めて学士になることでした。父の大の友だちが、モルフェッタで名声ある弁護士Primo Augenti (訳注:人名がどうか、自信がありません)だったことによります。
音楽は午後やることになっていて、いずれにせよ、バイオリンの進歩によって、師のアドバイスに従ってさらにピアノの勉強をするように仕向けられました。それは、彼が言うには、もっと十分な教養をもつために、とのことでした。ピアノには全くもってひきつけられました。ほかは必要ないと思うほどのものだったからです。重要で完璧な楽器でした。
バイオリンはわきにやられ、短期間の間、バーリ音楽院の第四課程の通学生試験の準備をしました。当時は音楽高等学校でした。
この試験は特別な日でした。私たち3人が残り、すでにバーリの夏の酷暑の中、2時になっていました。もう疲れて空腹で、たぶん試験を延期したほうがいいだろうと思っていました。そのとき、ほっそりとして、非常に活き活きとした目をもった男性が、入り口のうしろに頭をのぞかせ、残っている候補者たちを見ようとしていました。この男性が、私の音楽家としての人生と運命の根源的な部分にはいってくる必然性があったとは、そのときには思ってもみませんでした。彼はニーノ・ロータといいました。
審査員の前で、10点満点プラス最優秀賞ですべての試験を受けました。ロータが私を呼んでこう言いました。『今日の演奏の程度にではなく、明日の、将来の演奏の可能性に賞を与えるよう、強く主張しました。』
彼に会いに行くよう、招かれました。でも、それは単なる決まり文句のように思っていました。続く9月に父に同行してバーリに行きました。彼が自分の仕事をすばやくすませるのを待つ一方で、音楽院へひとっ走りして、自分自身の目で一連のよい成績を見ようと決めました。
状況は興味深いことに運命的でした。同じ日に、マエストロ・ロータはローマからバーリに戻ってきていました。ローマでフェリーニの映画のためにサウンド・トラックを書いていたところだったのです。マエストロ・ロータは廊下をわたっていて、この少年が掲示板の前にいるのを見かけました。私にはこういう声が聞こえてきました。『おや、ムーティ君じゃないか。』Ma tu non sei il piccolo Muti?私と私の試験のことを完璧に覚えていたのでした。私と再度話しあうことを望んで、音楽院への入学を勧めました。
この少年が直面するはずの危難について結論を出さなければならず、家族は話し合いました。その後、バスで1週間に3回、モルフェッタからバーリへ向かい、後期中等学校の勉強を1時間切り上げ、下した判断は最後には明るいものになりました。音楽院に入学したのです。午前はモルフェッタの後期中等学校に通い、週に3回、バーリへ遠路通学しました。
ロータは私にとって大事な音楽上の父でした。交響楽団を本質的なところで、はじめて私に教えてくれました。リハーサルに連れて行き、あらゆる仕組みを説明しながら、教えてくれたのです。また、寛容でもありました。私の家族が翌年ナポリへ移ることになり、次のように言ったからです。バーリ音楽院を離れることをためらう私を前にして、こう言いました。『ナポリへ行くのはいいことだ。君にはもっと大きな音楽院が必要だし、文化的にすぐれた街に行けば、もっといい音楽院があるよ。』」

あなたが今いるこの世界で出会った主要な人は誰ですか。
「その次がVincenzo Vitaleで、ナポリ学派ピアニストの偉大な星です。次がJacopo Napoliで、音楽院の院長です。私自身が今のようなキャリアのことを思ってもみなかったときに、私に指揮者の素質があることを一目で見抜きました。それからミラノでは有名な作曲のmaestro、先生であるBruno Bettinelli、楽譜解釈のmaestro、先生であるRiccardo Castagnone、最後がAntonino Vottoです。トスカニーニ派のことを語る人として非常に大切なだけでなく、オーケストラの指揮からあらゆる自己陶酔をとりさり、演奏する楽譜を前にしたときの倫理的な問題を提示しました。」

あなたの言葉にこういうものがあります。『音楽は私のすべてです。』けれども、もっと大切なものはないのですか。
「音楽というのは私のあり方の問題であり、私を表現するものです。その言葉を私が言ったとしたら、好きではありません。なぜなら、サンレモ音楽祭でそういうタイトルの歌がたくさんあるからです。」

ではリッカルド・ムーティが指揮者ではなかったとしたら、ほかにあなたを引き付けたかもしれない仕事はありますか。
「弁護士になるよう育ちましたが、やがて、哲学に魅せられ、大学に入学さえしました。素晴らしい外科医になる夢も一時は持ったことを思い出します。一方、天文学に夢中になったこともありました。」

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